女神のまなざし/あなたは太陽

泡野瑤子

1 「解放者」フィオン・キフュー

 警告音が鳴り止まない。

 カタパルトは準備万端だ。管制官の制止を無視して開いたゲートの先には、容赦のない暗黒が広がっている。その果てへ依頼人たちの乗った小型シャトルが無事逃げおおせるのを、俺は息を殺したまま見送った。

 レーザーガンを携えた宇宙港の警備兵たちが、慌ただしく管制塔の廊下を走り回っている。やつらが捜しているのはこの俺だ。俺はすぐ傍で強化ガラスの窓にへばりついているのに、全然気づいていない。俺の姿が見えていないんだ。

「『逃がし屋』は居たか!」「居ません!」のやり取りが目と鼻の先で交わされている。できれば「解放者リベレイタ」と呼んでほしいものだ。思わず噴き出しそうになるが、ここはぐっと我慢。ステルス・スーツで姿と体温は隠せても、音を立てれば一巻の終わりなのだから。

 追っ手が行き過ぎたのを確かめる。動き出そうとした俺を、いつもの「あの感覚」が襲った。

 いまは声を出せるような状況じゃないけど、もし俺が感じている不快感を言い表すなら、こうだ。

 誰かに見られている。

 まあ、もし俺がそれを口にできたとしても、ここ―宇宙都市リブラ・アーク―の市民たちに聞かせたなら、たいていの人が鼻で笑うだろう―「いまさら何を言うんだ、フィオン?」と。

 リブラの住民のほとんどが、監視されることに慣れきっている。俺の家族や学校の友人は、この社会に何の疑問も持っちゃいない。「『女神さまアストライア』が見守ってくださっているからこそ、この街は平和なんだ」って学校で教わるし、みんな本気でそう思っている。

 みんなが「女神さまアストライア」と呼ぶのは、リブラの「適正住環境維持管理システム」――回りくどい言い回しだけど、要するに市民の一挙手一投足を四六時中監視するシステムだ。人類が宇宙に飛び出すよりもずっとずっと大昔の人たちが考えた神話の、正義の女神さまから取られた名前なんだそうだ。

 おかげさまで、地球の周りを巡る十二の宇宙都市の中で、リブラが一番住みやすい都市だと言われている。犯罪発生率は十二市中で最低だし、検挙率はほぼ百パーセント。万が一急病で倒れても、直ちに救急ロボットが現れて処置をしてくれる。

 それでも、何が「女神さまアストライア」だよと俺は思う。だって悪趣味にもほどがあるだろ? 宇宙から俺たちを見張っているギョロ目みたいな監視衛星や、真っ白な市街地を飛び交う無数の走査線の、どこに女神さまのきれいな顔がついてるっていうんだ? 正義の女神さまが、初めてのデートや初めてのキスの一部始終をのぞき見するとでもいうのか?

 それだけじゃない。女神さまに反抗的な言動をしたやつのところには翼つきの教化ロボットが(文字通り)飛んできて、反省するまで何日でも牢につながれるんだ。

 俺の友達が「女神さまアストライア」に対する卑猥なジョークを言って捕まったときは一日で釈放されたけど、その顔は紫色に腫れ上がっていた。そいつは「もう二度と女神さまを侮辱しない」とうつろな目をして誓っていた。おちおち悪口も言えないくらい、リブラ・アークは息苦しい。

 でも、さっき俺が感じたのは、「女神さまアストライア」の視線じゃなかった。

 もっともっと遠い、手の届かないどこか別の世界から、ただじっと覗き見られているような感覚。

 たぶんその世界では、俺はどこかに寝かされたまままったく身動きが取れない。白っぽい天井が見える。誰かが黙ってこっちを見下ろしているけど、相手の表情はまったく見えない。

 そういうイメージが、ときどき俺の頭の中に瞬いては消えるようになったのはいつからだろう――ああ、まただ。最近、頻度が増えている気がする。原因はまるで分からない。困ったもんだ。これじゃ作戦に差し支える。

 しっかりしろ、フィオン。

 頭を振って幻を追い払う。管制塔を抜け出した後、一度だけ振り返った。人間のぬくもりを寄せつけない、白くてつるっとした四角柱の塔。こういうの、古語だと何て言うんだっけ? ――そうだ、「無機質な」だ。いまじゃ無機質なのが当たり前すぎて、誰も使わない言葉だ。リブラ・アークには「無機質な」建物ばかり並んでいる。

 ともかく、今日も作戦は成功だ。

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