短編集 1

あにょま

いつもそばにあるもの

 「どうしよう!」ボクは頭の中が真っ白になった。こんな大事な日に限って落とし物をした。落とし物に気がついたのは電車に乗った時。いつも首から提げているメモ帳が無いのだ。メモ帳が無いとボクは自分の「ことば」を彼女に伝えられないのだ。不安なままとにかく彼女との待ち合わせ場所まで行くことにした。

 待ち合わせ場所に到着すると、彼女はもうそこにいた。不安はいよいよ現実味を帯びてきた。彼女はボクに気が付くと、あっという顔をしてすぐに自分の胸元をさして、その黒目勝ちな目を大きく開いて[メモ帳どうしたの]とばかりに小首を傾げた。綺麗にまとめられたポニーテールが揺れた。(やっぱり聞いてきた。)と狼狽した。「ごめん、落としちゃった」と言う代わりに両手を合わせて顔を伏せた。恐る恐る顔を上げると、彼女はにこりと笑いながら近くのコンビニを指差し、歩きはじめた。ボク慌てて彼女の後を追った。コンビニで彼女はメモ帳を探し出してボクに渡した。ボクはすぐに彼女の考えを理解しレジで勘定を済ませた。

 メモ帳は手話がわからないボクが、「ことば」を彼女に伝えることのできる、いつも僕の傍に居てくれる大切なアイテムだ。メモ帳の中の「ことば」は口から出る言葉と違ってずっと残ってくれる。そのためだろうか、心なしか彼女と会う時にいつも持っているメモ帳はなんだか暖かかった。

 帰りに駅の遺失物係に行くと、メモ帳はあった。ボクは彼女との会話のぬくもりを感じるようにそれを「そっと、そっと」握った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る