ムシケラはムシケラのまま朝と晩を過ごし過ごした。

 ある日、買い物からメグが帰ってくると、どうやって引っ張り出してきたのか、ムシケラはかつて愛用していたスマートフォンの画面に脚を滑らせていた。細い針金のような脚ではろくに画面が反応せず、何度も脚を滑らせたのだろう。細かな傷跡が秩序なく無数に走っている。

「ただいま、タユタくん。もう、そんなもの出してきて。何してるの? もしかしてエッチな動画でも」

 イタズラっぽく奏でられていたメグの言葉が唐突に止まった。傷だらけの画面には、メグではない女の写真が表示されていた。思わずメグはスマートフォンを引っ手繰ひったくるように取り上げる。その女を、メグは知っていた。

「タユタくん。……なんで?」

 その声は微かに震えていた。

 ムシケラはそんなメグに体を押しつけ、先の尖った細脚をゆらゆらと盛んにうごめかせた。そして、その大きな体は図らずもメグの体を押し倒した。スマートフォンを握ったメグの手が頭上に伸びる。それを追うように、ムシケラはメグの上にのしかかった。メグの手が、スマートフォンから離れムシケラの顔に添えられる。

「……ねぇ、怒らないから。タユタくん、かっこいいし、優しいし、モテるのはわかるよ? そりゃあ、目移りだってするだろうし……。ねぇ……、私だけじゃ、だめなの? ……こんな言い方はよくないって、わかってるけど、せっかく二人だけになれたのに……。それでも、あの女の方がいいの?」

 ムシケラはしばらく静かにメグの言葉を聞いていたが、再び鋭利な脚をスマートフォンに向けて伸ばす。

「……」

 そんなムシケラの固く鋭い顎に、メグはやわらかなピンクのくちびるで口づけした。ムシケラの動きが止まる。

「……ぁむ……、んっ」

 メグは口を大きくひらき、ムシケラの大顎をしゃぶるように愛撫する。ムシケラが体を揺する。

「……重い、苦しいよ……。タユタくん……、んっ」

 メグは吐息をこぼし、ムシケラの冷たい顎に唇をつけ、舌を激しくまとわりつかせた。

「んん……」

 メグの口の中に鉄の味が広がる。ムシケラの顎でメグの舌が切れたようだった。しかし、それでもメグはかまわずムシケラの顔にしゃぶりつく。

「……んっ。……痛っ」

 いつしかメグの腕からも赤い血が吹いていた。ムシケラの鋭く尖った脚の先端が、激しくうごめきメグの柔肌を裂いたのである。

「好きだよ、タユタくん……。しばらくできてなかったもんね。その身体でも、できること、しよう……」

 メグの身体から下り、壁に向かって後ろ向きに進んでいくムシケラに、体を起こしたメグは手を伸ばして微笑んだ。

 彼の部屋でムシケラと、メグはその日、絶頂を迎えた。


     …


 メグとタユタの出会いは、ほんの些細なことだった。

 ある朝、メグはいつものように仕事へ行くため駅にいた。季節は冬の終わる頃でまだ毎日が寒く、その日も酷く冷え込んだ朝だった。真冬の渇いた空気にメグの唇は潤いを奪われていた。メグはカバンの中のポーチを開け、リップクリームを取り出し唇をなぞる。そしてそれをしまおうとした時、寒さにかじかんでいたメグの手はもつれ、それは手から離れてしまった。

 丸みを帯びた棒状のリップクリームはころころと弱々しく床を転がり、男物の靴の前で止まった。駆け寄るメグの目の前で、その靴の主は素早くかがみリップクリームを拾い上げる。

「……どうぞ」

 男性は微笑むでもなく、それでいて優しい顔でメグにリップクリームを手渡すと、すいませんと咄嗟に口に出したメグに振り向きもせず、人混みの中へと消えてしまった。その人こそが、タユタだった。

 タユタとメグの通勤時間はだいたい同じで、その翌々日もメグはタユタを見かけた。その翌日も、また次の週にも、メグはタユタを目で追った。メグはすぐにタユタを意識するようになった。

 メグは何とかタユタと距離を縮めようと頑張った。他人同前のタユタに近づくために、少しやり過ぎたという自覚はメグにもある。しかし、恋のアプローチに引かれた悪行との境目は曖昧だ。強引さやズルさが吉と出ることもあれば、取り返しのつかない凶悪となってしまうこともある。その判断はとても難しい。

 ともかく、奇妙な珍事のお蔭とは言え、今ではこうしてムシケラとなった彼と同棲までしているのであるから大成功である。

 あの出会いからおよそ一年。今年の春は、メグの隣に、彼がいる。

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