第250話 見解3
スキャーナが王都貴族エリアの屋敷に帰宅したのは、
「疲れたぁ……」
衣装室には寄らず、居間に滑り込むように飛び込ぶ。
床に落ちるまでの数瞬でガートンの制服を脱ぎ、いつものネグリジェを引き寄せて着るという横着っぷりである。どんっと仰向けの大の字になったところで、
「胸元が見えていますよ」
「従う義務はないです」
上司の声が降ってくる。こんな時間にもかかわらず、机を散乱させて仕事にご執心のようだ。
既に勤務時間は過ぎている上、深夜は回復と睡眠のため業務が振られることもない。
もっとも現場ではあまり守られていないが、この上司はしっかりしている。既にこのだらけたプライベートモードがバレていることもあり、スキャーナは開き直っているのだった。
実際、ファインディからそれ以上の話が続くこともなく、沈黙が続く。
「寝よ……」
襲われるという発想はスキャーナには無かった。
この上司は色欲に左右されるほど甘い人間ではないし、部下としてはともかく私生活では一切興味を持ってこないこともわかりきっているし、仮に襲われたとしても為す術がない。
どうにもできないことに費やす思考を潔く捨てるのは、冒険者の資質の一つである。スキャーナは目を閉じた。
体裁上は
紙がめくられ、羽根ペンを走らせる音だけが部屋を満たす。
そこに時折、詠唱が加わる。
「……何をしているようで?」
気になったスキャーナは机を覗き込んだ。
半分ほどを占有してジャースの地図が構築されている。
「しばらく多忙が続きます。休みなさい」
「人口、のようで?」
「分布の推移を見ています」
残り半分に目をやると、大量の書類が隙間無く、しかし無造作に散らばっている。各ユニットの人口情報を示すものだとスキャーナはすぐに気付いた。
「情報紙の配布戦略ですよね。ファインディさんの仕事ではなかったのでは」
「本部は仕事が遅いものですから。それに、これは趣味みたいなものです」
「うわぁ……」
平民向け情報紙『ニューデリー』が始まったことにより、情報紙の配布先とルートが桁違いに拡大している。
ガートンとて人材は無限ではなく、ジャース大陸もまた少数の実力者でカバーしきれるほど狭くはない。いつ、どこに、誰がどのように配布するかという配布戦略の策定は急務であった。
書類を
書類上のデータを地図に落とし込んでいるようにしか見えず、「報告書を読めば良いようで」思わず口に出してしまう。
「……」
「無視は傷つくようで」
「鬱陶しいですね。残業を命じても構いませんよ?」
「寝ます」
「冗談です」
どこまでも変わらない上司にある種の安心さえ覚える。
スキャーナは食料庫から果実水とカップを引き寄せ、宙につくったテーブルに置いて、のんびりと味わい始める。上司の一瞥を食らったが気にしない。「ファインディさんも何か飲まれますか?」「……」無視されたが気にしない。
上司の仕事ぶりを見る機会は意外と無い。
スキャーナは遠慮無く鑑賞することにしたのだった。
少し胡散臭いが、穏やかで頼れる壮年の雰囲気がある。手先も早く、精神も厚い。ギルドの受付や後方事務にでもいれば、さぞ重宝するに違いなかった。
しかし接客にも事務にもも興味がないので、すぐに思考が脱線する。
(わからない)
彼が唯一抱えるのはシニ・タイヨウ案件であり、その仕事も自分に丸投げしている。言わば手持ち無沙汰の状態を意図的につくっていたはずだ。
裏で何をしているかは知らないが、昨日インタビュー項目を変えてきたかと思えば、今はこんなつまらない仕事をしている。
何を企んでいるのか、まるでわからない。
探れないこともなかった。
絡んでくるなとのメッセージは出してきているが、突っ込んだ質問をすれば答えてはくれるだろう。
うぬぼれでなければ信頼もある。思わぬ大役を授かる――あるいは泥沼に巻き込まれると言えるかもしれないが、誘われる可能性も肌で感じている。
(覚悟も出来てる)
むしろ期待する節すらあった。
うじうじ悩むのは性分ではない。スキャーナは口を開こうとして――
「お偉い様がいらしたようですね」
その呑気な呟きとは対照的に、スキャーナは慌てて制服を引き寄せて着るも、間に合わず。
ぶわっと風圧が室内を満たした。
「でかくなったなぁ、スキャーナ」
「変人上司とよろしくやってんのか」
「『中々の手つきですね。私は好きですよ』」
「ぎゃはははっ」
「――何のようで?」
ここまでの接近の仕方から、実力の程は見て取れる。珍しいことではない。学園首席のスキャーナも、会社ではせいぜい平均クラスだ。
(二人はいける。頑張ればもう一人……)
「落ち着きなさい」
いつも通りの上司の声だった。
戦闘の気配を感じた部下に勘付き、
もっと言えば、その直感が間違っていないことも。
「相変わらずいけ好かない男ね」
「あなたは相変わらず美人ですよ、シーカ」
「手を止めてこっちを見なさい」
「業務時間外ですし、あなたはもう上司ではありません。むしろ深夜に踏み込んでくる方が無礼では?」
ザンッとすべての椅子が真っ二つになる。
スキャーノがかろうじて視認できる速度――それでありながら一切の力が漏れておらず、ごとんと倒れた椅子の切断面は不自然に綺麗だった。
綺麗と言えば、空気椅子を維持するファインディの姿勢もそうである。憎たらしいほどに微動だにせず、仕事だか趣味だか知らないが、手も止めていない。
ぷつんと髪留めの切れる音がした。
一つ結びになっていたシーカの黒髪が広がる。「ひぃ」とは下っ端の悲鳴。
シーカは幹部である。
八段階から成る役職の第三位にあたり、第六位の部長職であるファインディとは階級が違う。ちなみにスキャーノは主任であり、第七位にすぎない。
「会社の規律を乱す問題社員を罰しろ、とのお達しを受けました」
怒れるシーカは社内でも有名だ。
彼女が選んだのは無慈悲と暴力であり、そのエピソードは第一位の社長さえもビビらせる。
しかし、これ以上の存在と向き合ってきたスキャーナには威嚇にもならず、既に発言の考察に入っていた。
結論もすぐに出る。
(そんなはずがない)
上層部はこの男を疎んでいるだろうが、手放す、まして敵に回すほど愚かではないはずだ。
このファインディという男もまた、会社に罰される愚考をしでかす無能ではない。
「ただの私情のようで」
「……スキャーナ? よく聞こえなかったんだけど、もう一度言ってみて?」
娼館上がりは伊達じゃないらしく、迫力のある微笑がスキャーナを射竦める。
「ファインディさんを舐めすぎです。あなたごときに敵うはずがない」
「【
高速で接近され、硬質化した髪を叩きつけてきたのは見えた。
スキャーナの右腕に斬撃がめり込み、少なくない血が垂れる。
実力差は分かっている。止めようなどない。
しかしシーカの性格も知っている。最初から致命傷を与えてくることはない。
「処分の内容を聞きましょう」
ファインディはようやく手を止めたようで、シーカに向き直った。
が、直後、「大丈夫ですか」普段はそんなことしないくせに、心底部下を心配したような表情で語りかけてくる。
それがおかしくて、「大丈夫じゃないです」スキャーナが雑に答えると、「ぐっ」峰打ちのような打撃を腹部に叩き込まれて、飲んだばかりの果実水をすべて戻すこととなった。
「汚いですねぇ……」
「こっちを見て」
シーカは一瞬でファインディとの間合いを詰め、机に片手を置いて迫る。
「シーカ様。処分の内容をお聞かせください」
「他人行儀な呼び方はやめて」
「私は部長で、あなたは幹部です」
「……」
どんな経緯があったのかは知らないが、両者の熱意は傍目に見ても明らかだった。
「
「そうですか」
「監視は私は行うの」
「シーカ様も物好きですね」
「久しぶりにいっぱい話そうね」
「シーカ様。公私は分けませんと」
「その呼び方はやめて!」
ばんっと机が叩かれ、ファインディお手製の人口模型が割れた。
吹き飛んだ欠片が、思い出したかのようにかつんと落ちる。
「もう一度だけ言います。公私は分けなさい」
スキャーナでも気付くことに気付けない男ではない。
ファインディはこの処遇が正式なものではなく、シーカの職権乱用によるものであることも見抜いている。
その上で言っているのだ。
今ならまだ間に合う、見逃してやると。
(まだ利用価値があるようで……)
もし職権乱用を指摘し、シーカが認めた場合、その発言が証拠になる。この中の誰かに逃げられてもしたら彼女の立場は危うい。
遠回しに言ったのは、そうさせないためだ。
無論この男に温情という概念はない。そうしてまで事態を収拾するほどの価値が、まだシーカにあると見ているのだ。
「もう我慢ならないの。あなたの隣でいちゃついてるこの下品な女も、何度殺したくなったことか。ねぇわかる? わかるでしょ? 私が他の男と遊んでてもイラっとするよね?」
「スキャーナは有能ですよ。あなたとは比べ物にならない」
「他の女の話をしないで!」
今度は書類が木っ端微塵となった。
シーカの髪が触覚のようにうねっている。
それがファインディを向き、近づき、愛おしそうにつついている。
「私はあなたを手に入れるの。会社も何も言わないし言わせない。ねぇ?」
「はっ!」
「は、はいっ!」
既に買収も済んでいるようだ。
恐怖だけで継続できるほど暇ではないだろうから、おそらく娼者としてのテクニックも使ったのだろう。おそらくもっと上にも手を出しているはず。
外で鬱憤を張らせないガートンに、異性の社員という誘惑はあまりに強い。
「スキャーナ。このようになってはいけませんよ」
「だからその名を――」
片手でシーカの顎を引き、自分の顔を近付けるファインディ。
そういうことに縁の無いスキャーナでも、そうするのだとわかる妖艶な雰囲気が醸し出ていた。
唇と唇が重なる。
シーカの瞳が潤む。
既に毒牙にかかってるであろう外野が羨む――
つまり、場が怯んでいる。
「【
その詠唱は唇を重ねているのに明瞭で。
なのにスキャーナでも聞き取りが怪しいほど高速で。
(シーカさんは判断を見誤った)
魔法やスキルの威力は詠唱の明瞭さに左右される。
スピード重視の詠唱であれば大したダメージはなかっただろう。キスをしているから大した詠唱は込められない――そう彼女は踏んだはずだ。そもそも疑ってもいなかっただろうが。
しかしファインディは器用にも、しっかりと発音できる口づけの仕方をしたのだ。
もちろん不審がられては怪しまれる。元娼者相手ならなおさらだ。
相当な修練を積み、開発したに違いなかった。
「【
あとは散歩にも等しい。
空いた手から爪を飛ばして、残り四人の脳天を的確に貫いている。
シーカも同様だ。特にレベルが高く防御も硬い彼女を貫くのは容易ではない。体の中でも比較的柔らかい口内から高火力を撃つ戦法だったのだろう。
爪はすぐに指先に戻った。
歯も同様に口元に帰っているに違いない。
五体の死体はもはや動かない。貫き方を工夫すれば、たとえ小さな風穴でも人は即座に全く動かなくなるというが、スキャーナには出来ない芸当であった。
「見事なようで……」
制御を失った死体が次々と倒れ、血しぶきをあげる。
「また忙しくなりますね」
仕事の心配をしているのだろう。早速地図も再構築しているし、呑気なものである。
「さすがにこれはまずいのでは」
「問題ありませんよ。シーカと関係を持っていたどなたかは、この件を無かったことにするでしょうから」
どういう理屈に基づいているのかは知らないが、ファインディがそう言うのならそうなのだろう。
さして興味も無いため、追及する気も起きない。
「そろそろ回復をください。お腹がかなり痛いです」
「シーカは容赦無いですからねぇ……」
「ファインディさんにだけは言われたくないようで」
上司の聖魔法に自分の分も混ぜて速やかに回復した後、スキャーナは寝室へと向かう。
さすがに今から探る度胸は無かったが、せめて思考は途切れさせたくなくて。
(ジーサ君に関係しているのは間違い、ない、はず……)
ファインディのシニ・タイヨウに対する執着は忘れがたい。
一連の行動はすべて繋がっていると考えるべきだ。
たっぷり考察するつもりだったが、予想以上に疲れていたのだろう。
ベッドに飛び込んだスキャーナは数分と
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