クリーピングタイプ
青島もうじき
1
出迎えてくれたのは、爆音で鳴り響く第九だった。
きっと、いつものように第四楽章だけをエンドレスリピートにして、荒れ狂うようにして作業を片付けているのだろう。
繊細なバイオリンの旋律を妨げないように、そっと扉にカギをかける。カチリと、小さな生活のパーカッションが第九をアレンジした。
今日は採点だろうか。それとも、教材づくりかな。大穴でテスト問題を作っているのかもしれない。6月も終わって、もうすぐ期末テストの時期だから。でもそういうのって、教師生活2年目の先生に任されるような仕事なのかな。
玄関のくぼんだ所に通した、百円均一の伸び縮みする突っ張り棒。そこにぶら下がっているハンガーに、がさりとレインウェアを掛けた。
傘を差すのが面倒で梅雨に入ってしまってからはずっと着ているけど、
なんだよう。そんならこのレインウェアは佳織にお下がりにしてあげないんだから。そうは思ったけれど、やっぱり内側についているタグには、ちょっと左に寄った、縦に細い文字が躍っているのだった。
この癖は、小さなころからずっと変わらない。
ぐじぐじになってしまったショートソックスを脱ぎ捨てて、そのまま洗濯機にバスケットボールのフリースローの要領でシュートする。べったりとくっついた一対のソックスは、べちゃりと音を立てて洗濯槽の底に着地した。
佳織にはよく行儀が悪いって言われるけど、こういう些細な勝負に勝つと、なんだかいいことがあるような気がするのだ。例えば、佳織の持ち帰り仕事が早く片付くとか。
そうっとリビングの扉を開くと、第九の勢いが一気に増す。迫力満点の合唱に負けず劣らずの勢いで響くのは、先がフェルトになった赤ペンと紙とがこすれる音だ。どうやら採点の方だったらしい。机の上にインクのなくなった「ペンの抜け殻」が無残に転がされていた。
「あ、おかえり。
プリントの束から一切顔を上げずに一心不乱にペンをふるう佳織のおでこには、冷えピタが貼ってある。なんだか漫画家の締め切り前みたい。いや、それに近い切羽詰まった状況なんだろうけど。
「ただいま。どうする? ちょっと手伝おうか?」
提案するが早いか、佳織は束の下半分と赤ペンのスペアを押し付けてよこした。開封したばかりだったのか、ペン先はつるつると綺麗なままだ。
「マルとバツと小計だけお願い。ダブルチェックと合計点はこっちでやるから」
押し付ける気満々だったな、こいつ。そう心の中で愚痴りながらも、こっちも引き受ける気満々だったしいいかなと思いなおす。私だってこの後、相談したいことがあるんだし。
佳織だって、私がこうもすんなり引き受けることに何かしらの裏を感じているはずだ。それがわかるくらい、私と佳織は長い時間を共に過ごしてきた。
イトコという言葉は、物心ついたときにはすでに知っていた。昔はその意味がよく分からなくて「特別に大切な友達」ぐらいに思っていた。それくらいに、佳織は私にとって身近で常にそばにいる存在だった。
さすがに私と佳織の名前の由来を母から聞いたときにはドン引きだったけど。私の名前である『圭』に『にんべん』と『織』をつければ完成するその名前は、私のお下がりを使えるようにという配慮だったらしい。
おかげで私は、お下がりに使うことを意識して『圭』の字をほんの少しだけ、違和感のない程度に縦長に書くようになった。
私にとっては少し縦長で、佳織にとっては少し横長。どちらにとっても微妙にちょうどよくない『圭』の字が、私たちを強固に結びつけていた。
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