世界を壊さないで
デッドコピーたこはち
第1話 世界を焼き尽くした獣
朝の日差しが木漏れ日となり、草や木の根に覆われた地面を斑に照らす。
「今日も暑くなりそう」
私はひとりごちた。立ち並ぶ木々の間を縫い、なだらかな斜面を登っていると、チュイチュイ鳥の鳴き声や、一角鹿のいななきが遠くの方から聞こえてくる。
私が『灰の森』に足を踏み入れてから三日経つ。一族がこの地に辿り着いた時には、灰に埋もれ、焼けて炭になった木々の名残ばかりだったというこの森にも、今では緑があふれている。
今はのどかにも思える『灰の森』は、『
我々『大いなる耳』の一族は、皆産まれてから十四度目の夏に『灰の森』へ一人で入る。この森で一年を過ごし、使えそうな『遺物』を村へ持って帰る。そうすることで、初めて大人として認められるのだ。この試練を乗り越えれば、今は『栗毛のシーシェ』としか呼ばれていない私も、立派な真名を与えられるはずだ。
簡単な試練ではない。一年経たずに音を上げて村に帰ってきてしまう者もいるし、二度と帰らない者もいる。
かくいう私も、もうこの森に入って三日も経つのに、未だ水場を見つけられないでいた。母が持たせてくれた水筒の水も、もう尽きてしまった。幸いにして、機獣には出くわしていない。しかし、万全の体調でなくては、奴らをやり過ごすことすら難しい。即急に水場を見つける必要があった。
低い丘を登り切り、その頂上に立つ。そこは、木々が少し開けており、広場になっていた。遮るもののない朝日が眩しい。広場の真ん中で、私は目を閉じ、耳をピンと立たせ、神経を集中した。今まで聞こえなかったかすかな音が聞こえてくる。
クコ鳥の呼び声。シダブタの足音。風がこずえを吹き抜ける音。アゴムシが木をかじる音。そして――水音。
私はかすかな水音が聞こえた方向に耳を向けた。水の流れる音が確かに聞こえる。私が登ってきた方とは真反対の坂の下からだ。私はその方向に向けて歩み始めた。
低木の茂みをかき分けて突き進む。坂を下っていく度に空気が湿っぽくなる。水のにおい、涼しげな風。間違いない、この方向に川があるのだ。心なしか足取りが軽くなる。
水が流れる音、水が水面に落ちる音。耳を澄まさずとも聞こえてくる。だが、それだけにしては水音が大きい。なにか大型の獣が水浴びをしているようだ。
私は茂みの中をゆっくりと慎重に歩いた。やがて長く続いた茂みが切れ、そこから透き通った清水を滔々と流す小川が望めた。そして、見たこともない獣が一匹、浅瀬で水浴びをしているのが見えた。
何ともおぞましい生き物だった。二足で立つところは小鬼や私たちと似ていたが、多くの点で私たちと違った。
まず、頭頂部以外にはほとんど毛が生えておらず、僅かに赤みがかった白い地肌がむき出しになっている。小鬼のように平べったい顔をしているが、角はなかった。
頭頂部に生えた黄色っぽい毛は長く、その肌はつるつるしていて、皺がない。この個体はメスのようで、胸の部分が膨らんでいた。
手や足の先に爪はなく、口元にも牙は見受けられない。なにかの間違いで、産まれたばかりの赤子がそのまま身体だけ大きくなってしまったようだと、私は思った。
次に印象的だったのは、その耳だ。私たちの大きく、毛に包まれている三角形の耳とはまるで違う。小さく、毛がまったく生えておらず縮れていて、まるでキクラゲのようだ。そして、その耳は頑として動かないのだった。
あんなもので果たして音が聞こえるものなのだろうか。耳を動かすことができないとなると、物音をよく聞きたい時はどうするのだろう。どうやって、耳を伏せたりせずに敬意をしめすのだろう。大いに疑問だ。
そして、これまたつるりとして丸い尻の上には、尾がなかった。尾が生えているべき場所には、やはり白い地肌が滑らかに続いているだけで、突起物すらない。尾を切られたとか、そういうことではないらしい。この獣には最初から尾がないのだ。
私は尾がない獣というものを初めて見た。見ているだけで、何とも気味が悪い。果たして、この獣はなんなのか。
記憶を辿る。毛がなく、爪も牙もなく、尾もない、二足で立つ獣……。ふと、私は幼いころ母に聞かされた伝説を思い出した。
世界が焼かれる前、月が砕かれる前のこと、この世界は『ヒト』という獣のものだった。
ヒトは数え切れぬほど地に満ち、神の如き力を持っていた。雲を見下ろせるほど高い塔に住み、生命を思い通りに生み出し奴隷にして、栄華を誇った。
しかし、ヒトは残酷で、戦い好きだった。だから、その栄華と平和は長続きしなかった。やがて、ヒトは平和に飽き、ヒト同士で戦い始めた。七日間で同胞を尽く焼き、その余波で世界もまた焼き尽くされた。
あの伝説に出てくる、世界を焼き尽くした獣は確か、毛がなく、爪も牙もなく、尾もない、二足で立つ獣ではなかったか。
心臓の鼓動が自分で聞こえるほど大きくなり、額に汗がにじむ。
ちらりと、川の方を見る。幸いにも、あの獣には気付かれてはいないようだった。まだ、水浴びを続けていた。完全に油断している。隙だらけだ。
もし、もしも、あの獣がヒトの生き残りだったなら、それを私が狩ることができたなら。
これは大変名誉なことだ。ヒトの頭蓋を持って帰ることができたら、族長自らから成人の戴冠を受ける栄誉に浴することもできるだろう。もしかしたら、『大いなる耳』の始祖アフサルや古い英雄たちのように、永遠に讃えられることもあるかもしれない。
同族殺しの濡れ衣を着せられて、失意の内に自死した父の名誉を挽回することも。
「ふぅー……」
大きく息を吐いて、心臓の鼓動を落ち着かせる。私は決心した。
背負っていた弓をゆっくりと下し、矢筒から一本だけ矢を取り出す。弓に弦を張ったままにしておいて良かった。
二の矢は持たない。必ず当てるという覚悟が鈍るからだ。これは、父の教えだった。
弓に矢を番え、ヒトの胸に狙いを定める。
不意に、チュイチュイ鳥が近くで大きく鳴いた。ヒトが一瞬そちらに気を取られ、動きを止める。
今だ。私は矢を放った。矢は緩やかな放物線を描き、ヒトの胸に向かって飛んでいった。
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