怪奇マンション

穂村

5.5

連休明け初日の仕事を終え、私は監獄のようなワンルームマンションに帰ってきた。仕事が長引いたせいで22時を少し回ったくらいだった。


うちと隣家の間の蛍光灯が一本、切れかけて明滅していた。明日になったら管理人に連絡しよう、そう思いながら家の中に入った。


あまりの疲れに何も食べる気になれず、かと言ってそのまま寝るわけにもいかないのでひとまず風呂に入ることにした。


目を閉じ無心でシャワーを浴びていると、隣家から何やら言い争う声が聞こえてきた。


「くそ、何時だと思ってんだ……」


隣人の顔が頭に浮かぶ。


私は角部屋に住んでいるので隣人とされる人物は一人しかいない。


私と同じ一人暮らしの冴えないサラリーマンで、たまにエレベーターで乗り合わせても挨拶もしないような間柄だ。


私にはあの無気力そうな顔の男が誰かと言い争うような光景は想像できなかった。


突然、シャワー越しでも分かる大きさの何かが割れる音が聞こえ、次いで怒鳴り声が響いた。


私は大きく舌打ちをしたが隣家に聞こえるわけもなく、ただ、早く事態が収束することを願った。注意しに行くだけの気力が私には残っていなかった。


変にトラブルに首を突っ込んでしまうよりは、早く騒音が聞こえないほどの深い眠りに落ちた方が良い。


私は雨の日に録りだめておいた雨音をBGMにベッドに入った。


────────


あと少しで眠りにつくというタイミングで、隣家から先ほどまでとは違う異質な音が聞こえてきた。


例えるなら────そう、バットで何かを殴る音。


冷たい汗が背中を流れた。隣家で何が行われているんだ?


一瞬、最悪な想像が過るが、流石にそれはないだろうと頭を振った。


時刻は0時ちょうど、流石にこれ以上騒がれたら明日の仕事に響く。


睡眠を邪魔されたことなどもあって、私は隣家に文句を言うために立ち上がった。


ドアを開けると、ちょうど隣人も出てきたところだった。


こんな事なら何か武器になるような物でも持ってきておくんだった、と後悔していると隣人は私を睨みながら、


「何時だと思ってるんですか。いい加減にしてくださいよ」

と呆れたように言った。


「はぁ?」

何を言ってるんだコイツは。


「それはあんただろ!あんたがずっとうるさいからこっちは迷惑してんだよ。俺の睡眠を邪魔しやがって!」

シラを切ろうとする隣人に思わず声を荒げてしまう。


「それはそっちでしょ。誰かを家にいれてるんですか?このマンションは他人を入れるの禁止ですよ。ていうか何かを殴ってましたよね。何をしてたんですか?通報しますよ」


暫く距離を開けての言い合いが続いた。


埒が明かない。


とにかく何かがおかしかった。


隣人の様子を見ると、直前まで寝ていたのは明らかで、起き抜け、という言葉がしっくりくるような出で立ち。対する私もベッドからそのまま出てきた格好。


じゃあ上か?


いやでも絶対にあの音は隣から聞こえていた。

────距離?


「ちょ、ちょっと待って」


「何ですか」


ふてぶてしい態度の隣人にイラっとしながらも気付いた異変について共有する。


「俺たちの家ってこんなに離れてたか?」


「何を……、ん?」


隣人も自分の家のドアと私の家のドアの距離がいつもよりも明らかに遠いことに気付いたようだった。


私はドアから出て隣家との間にある謎の空間に足を踏み入れた。


隣家との間にもう一つドアがある。


「何ですかこれ」


「俺に聞くなよ」


表札には名前も部屋番号も書かれていなかった。


私の6号室と隣人の5号室の間にあるから5.5号室だな。


現実逃避から意味もないことを考えていると、隣人がそのドアを開けようとした。


「ちょ、何してんの」


「中の人を助けないと。貴方も誰かが殴られる音を聞いたでしょう?」


「聞いたけど、そんなこと言ってる場合か?明らかに変だよ。変な夢を見ているとしか思えない。俺とあんたの家の間にもう一つ家があるわけないだろ?」


「現に今、目の前にあるでしょう」


普段の無気力そうな隣人からは想像できないほどの意欲的な姿勢。ある種病的な使命感に突き動かされているようにしか思えなかった。それとも仕事になると途端に人が変わるタイプなのだろうか。


「“ある”ことがおかしいっつってんだよ。触れない方が良いって!」


一旦マンションから出よう、私はそう言ったが隣人が聞き入れることはなかった。


エレベーターに乗るのは気が引けたため階段で下まで降りると、ファミレスに向かった。最後にもう一度、マンションの下から自室を見ると、あのドア辺りの蛍光灯が全てちぐはぐに明滅していた。


────────


とにかく誰か人がいて明るい場所に行きたかった私は、駅前のファミレスに行くことにした。


24時間営業のファミレスなんてチンピラの溜まり場だと決めつけていたが、そういった客がいることに私は安心感を覚えていた。


軽く食事を摂ったことで、睡魔が私を眠りへ誘おうとしたが、目をつむるたびにあの異質な空間を思い出して眠ることが出来なかった。眠気覚ましにまた食事を頼み、だらだらと口に運んでいると、ふと、あの隣人が無事なのか気になってきた。もう二度と彼には会えない気がした。


ホラー映画の登場人物は、どうして開けてはいけないと分かりきった扉を開けてしまうのだろうか。私がもう少し彼と仲が良かったら彼を止めることが出来たのだろう

か。

朝まで取り留めのないことばかり考えていた。


────────


会社に休むと連絡を入れ、完全に日が昇ってから家に帰るとマンションの下に野次馬が集まっていた。近くにいた管理人に話を聞くと、隣家で殺人事件があったらしい。


やはり彼は殺されたのかと思っていたが話を聞くと、殺されたのは若い女性でどうやら彼ではないらしかった。


それどころか私の家の隣には彼とは別の人物が住んでいることになっていた。

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