第46話

 高卒認定試験は年に2回、8月と11月に実施され、8科目(選択科目によっては10科目)に合格すると資格が得られる。


 1回目の試験まで4か月切っている。仕事もしなければならず、無理をせずに2回の試験で合格する計画にした。文科省が実施する試験ゆえ受験料は安く、金銭的な負担は少ない。年齢を考えると来年に持ち越したくはなく、不安がないことはないが、1度合格した科目は次回から免除となるし、2度の機会で合格したい。


 有希也は国語、数学、英語、世界史B、日本史B、現代社会、科学と人間生活、化学基礎の8科目を選んだ。過去問を見る限り、国語、数学、英語は勉強しなくてもいける。侮っているのではなく、かつての勉強が血肉となっている、それだけ研鑽を積んできたということだ。


 記憶の薄れている科目もあるけれど、受験案内にあったように足切りの試験ではなく、合格点は4割程度。マークシートだし、基礎的な知識と理解があれば合格点は取れる。水泳で例えると、200メートル個人メドレーを完泳すればOK、といったところか。「高校卒業程度認定」の「高校」は平均よりも下の学校を指すようで、非高卒者を無下にはせず、勉強すれば応えてくれる文科省を見直した。


 やるべきは記憶を呼び起こし、勘を取り戻し、新しい知識を加えること。仕事以外の時間は勉強にあてた。仕事の休憩中、バスや電車を待つ間、乗っている時間も貴重で、バスが揺れても逞しくなった右足が支えてくれる。


 時々席を譲ってくれる人がいて、その時は有難く座らせてもらった。こういった場面での立ち居振る舞いも身に付いた。なにごとも慣れ。仕事も勉強も。数をこなせば身体が勝手に覚えてくれる。


 筋トレも休まず続けている。結局あの日も休まなかった。上村有希也は子供の頃から勉強は出来たし、運動神経も悪くない。生まれ持った能力には恵まれていた。それでいてコツコツ積み上げる性格でもあった。続けないことは最初からやらないし、根を詰めることもしない。日課を淡々と、努力ではなく習慣として処理していく。それがいいのか悪いのかは自分では判断つかないけれど、この身体になっても今まで通り続けていく。


 仕事に勉強に筋トレ。骨は折れるが毎日が充実していて学生時代に戻った気分だった。


 ラグビーは冬のスポーツといわれる。高校ラガーマンは正月をまたいで行われる全国高校ラグビー大会、通称『花園』を目標にしているが、有希也の高校は進学校で、強豪ではなかったから、大学受験に備えて3年生は春で引退となる。


 最後に同じ県内のライバル校と引退試合をするのが慣例で、有希也も小雨が降る中を泥にまみれ、1トライ差で敗けてラグビー生活を終えた。


 汚れたジャージのまま部室に戻り、一人ずつ最後の挨拶をした。青春の1ページを刻んだ部室で、涙を流す部員も多かった。副キャプテンとしてチームを引っ張った有希也にも数え切れない思い出があったのに、醒めた自分がそこにいた。

 「大人スイッチ」が入ったとでも言えばいいのか、急に仲間たちが幼く見えて、早くこの場から抜け出したくなった。お好み焼き屋での打ち上げも思い出話に花が咲いて笑いが絶えなかったのに「俺は何をやっているんだろう」と落ち着かなかった。


 子供の頃からの癖といっていいのか、友達と一緒にはしゃいでいてもセミが鳴き止むみたいに時々ふと醒めてしまうことがあった。原因はわからないけれど、度々そういう現象が起きた。


 打ち上げの後家に帰るとすぐに参考書を開き、それからは勉強漬けの日々を送った。学校が休みの日は朝食をとると自転車に乗って図書館に行く。昼食は図書館内の安い食堂で済ませて勉強に明け暮れた。


 起業に憧れるようになったのもこの頃で、スポーツは済んだ、今度は大人の世界で、ビジネスで勝負してみたい。自分の会社を作りたくなった。


 そのためにも勉強あるのみ。部活を引退すると体力が有り余り、夜眠れなくなる人や太る人もいるが、有希也はそれをすべて勉強に当てた。海や花火や祭りに誘われてもすべて断った。友だちは大切でも、他にも大切なものもある。息抜きをする時間があったら勉強したかった。そのかいあって第一志望の大学に合格することができた。


 今は仕事があるから勉強時間はあの頃よりは減っているし、難易度だって比較にならない。それでも今は両立する大変さがあるし、科目も多い。お陰で毎日が充実していた。


 自然と机―津原の家はちゃぶ台だが―に向かう時間は増え、時計を見たら、夜中の2時を回っていた。

 明日も朝9時から仕事だから7時には起きなければならない。


―勉強しているのは誰なんだろう?―


 津原保志か上村有希也か。身体は津原保志で頭は上村有希也。合格したら津原保志の学歴になる。

 伸ばしたままの左足をさすりながら天井を見上げたが答えは出ない。


 頭だけでも上村有希也でよかった。学力が付いた実感がある。津原保志だったらこうはいかない。


 そもそも頭も身体も津原保志なら、ただの津原保志か。


 窓に映った顔が笑っていた。



 津原保志になって初めての夏は試験の夏だった。高等学校卒業程度認定試験の第1回目は8月の頭に2日に渡って行われる。


―よりによって、なんで真夏にやるんだよ―


 会場の下見をした一月前は、ここまで暑くなかった。この日は朝っぱらから容赦なく太陽が照りつけている。甲府は盆地だから殊更暑く、重いバッグを肩にかけ、バスと電車を乗り継いで1時間半かけて試験会場にたどり着いた時には汗だくで、ぼーとしそうな頭に冷たいペットボトルを当てて冷やした。


 この日程は大学受験を意識してのことだと思われる。2月に行われる大学入試に挑めるよう準備期間を設けているのだろうが、真夏に続いて真冬の受験となれば精神的にも肉体的にもタフなものになる。


 会場は夏休み中の高校。指定の教室に入り、カバンの中から受験票を出して机の上に置いた。貼付された顔写真は、面接に落ちた履歴のそれとは別人のようだった。顔立ちは変わっていないし、笑顔を作っているわけでもないのに、表情は明るく、それでいて引き締まっても見えた。

 仕事でつけた自信、筋トレの成果、勉強で得た知力、それら全てが作用しあっていた。自信がつけば余裕が生まれ、表情に出る。態度にもきっと表れている。管理人の田中さんは気づいているのだろうか。バッグに付いた勝守は熱を帯びていた。


 試験1日目、有希也は4科目受験し、手応えを感じながら教室を後にした、その帰りの事だ。


 試験会場から駅までバスに乗らなければならない。朝はばらばらに来場するが試験終了後は一斉に退場する。有希也の足で会場前のバス停に着いた時にはすでに行列ができていた。それも2、3本待たないと乗れそうにない人数。


 ピンときて、ひとつ前のバス停まで歩いた。駅とは違い、さほど離れてはいないバス停は有希也の足でも問題はない。人気のないバス停にいたもう一人も受験生で、二人で笑い合った。


 すぐにバスが来て、それに乗ったら次は試験会場の前、大勢の受験生が列をなしている。間抜けの行列に見えて、自分は合格するかなと予感した。その通り、1回目の試験で全8科目に合格し、有希也は高卒認定を取得した。

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