第45話
研修を終えて向かった駅は、来た時よりも遠かった。青信号で立ち止まる。丈夫になったはずの右足が息切れしていて、欠けた信号では渡り切れそうにない。足元のアスファルトは今にも降り出しそうな雨雲のようだった。
ファストファッション店に寄るはずが足が向かず、そのまま改札を通過する。エスカレーターの上で発車メロディを聴いた。駆け降りることは出来ず、ホームに着いた瞬間にドアが閉まった。
電車が去ったホームでベンチに腰掛けた。電光掲示板は次の電車が20分後だと知らせている。喉が渇いていたけれど自販機まで歩くのが面倒だった。
アパートに帰っても楽しみなど何もない。あれから1日も休まず続けていた筋トレも今日はやる気が起こらない。たまには休んだ方が良いか。いままで運動をしてこなかったのに毎日負荷をかけたのだから筋肉疲労も溜まっているはず。怪我予防の意味でも今日は休みにしよう。
そう思ったら肩の荷が下りた。
風が吹き付けて、ベンチの下の空き缶がカラカラと音を立てて転がった。耳障りだったけれど、わざわざ拾う気にはならない。風が止まると音も止んだ。
向かいのホームから笑い声が聞こえてきた。ブレザーを着た学校帰りの男子高校生。胃で打った鐘が口の中で反響しているような、どこか大げさなこの年代特有の笑い声には、騒がしさと懐かしさが入り混じっていた。
また風が吹いて、また空き缶が転がった。電車の到着まで時間があるから、ついでに飲み物を買うかと立ち上がり、缶を拾おうとしたその視線の先で、制服姿の女子高生が巨大な鉛筆を片手に仁王立ちしていた。家庭教師の広告看板だった。
大学時代に友達が何人か家庭教師をやっていた。普通のアルバイトよりもずっと時給がよかったし、人生経験を積む意味でも一度はやってみたかったのに、他のバイトが忙しくてできなかった。忘れかけていた大学生活の心残り。
小中学生相手ならいまでも勉強を教えられる自信はある。それぐらいの学力と知識は残っている。人にものを教えるのは得意という自負もある。しかし津原保志の身ではそれは叶わぬ願いだった。中学校しか卒業していない人間に誰が勉強を教わるというのか。
そもそもこの看板が募集しているのは家庭教師ではなく生徒の方。女の子の頭上には『完全マンツーマン個別指導!』の文字が躍っていた。
でもそれを伝えるのがどうして巨大な鉛筆を持った女子高生なのだろう。冷静に見るとおかしくて、有希也の口元に笑みが浮かんだ。
その笑みがすぐに消えた。看板の中に『高卒認定コース』の文字を見つけたからだった。
―高卒認定―
たしか、その試験に合格すれば高校を卒業していなくても大学受験の資格を得られる。頭の隅で埃を被っていた知識が照らし出された。
目の前を誰かが横切ったが、有希也の目は看板をとらえて離さない。
いつまでもアルバイトを続ける訳にはいかない。しかし足が不自由な上に中卒では選択肢は限られる。
―せめて学歴だけでもあれば―
そう思っても生活のために仕事は続けなければならないし、今さら高校には通えない。定時制に入学したとして卒業する時いくつになっているのか。現実的ではなかった。
―この手があったか―
大きな窓が開け放たれ、ついでに白いハトが飛んで行くのが見えるようだった。空き缶のことなど忘れて、有希也は上りのエスカレーターに飛び乗った。
自動改札機にICカードをかざしたが引っ掛かり、駅員のいる窓口で入場券分の料金を精算をして改札を出る。駅ビルのエスカレーターに乗って3階で降りた。この前来た本屋の奥にある参考書コーナー、その隅にわずかながら高卒認定の参考書が並んでいる。その中から受験案内を手に取った。最初に高卒認定の概要が記されている。
「一般に『高認』や『高卒認定』と呼ばれる『高等学校卒業程度認定試験』は、合格すれば大学や短大等の受験資格が得られます。また、多くの企業から高卒と同等と評価されており、就職活動にも活かされます」
有希也が求めていたものとピタリと符合した。
「高卒認定試験は一般的な入学試験とは異なり、足切りの試験ではありません。定員はなく、合格点をとった全員が資格を得られます」
試験は年2回あっておまけにマークシート方式。是非受けてください、と言わんばかりの内容だ。
―文部科学省もいい仕事してるじゃないか―
過去問も難しくない。落とすための試験ではないのだからそういうものだろう。合格点は100点満点の40点程度。合格率は4割前後だが、受験者は中卒もしくは高校中退者。その4割が合格するなら高いハードルではない。有希也は勉強が嫌いどころか好きと言っていい。そもそも高校どころか大学まで卒業している。それも一流の。高卒の学力がないわけないのだ。
―高卒認定を取る―
決断は早かった。迷いはない。微塵もなかった。
あとは合格まで、どうアプローチするか。
看板にあった高卒認定の家庭教師や予備校もあるが、8科目もあるから入学金を含めるとかなりの金額になる。通うならアルバイトも自由に出来なくなり、収入も減ってしまう。封筒の金はあるが、それにしても足が出そう。
アパートの近所にはその手のものはなさそうで、いずれにせよ通えない。独学でやるしかない、できるはずだ。大卒の人間が高卒の資格をとれない訳がない。
すでに今年の第1回試験の出願受付が始まっている。善は急げだ。
有希也は過去問集を買って帰り、さっそく勉強を始めた。
翌日には市役所に行って住民票をとり、取り寄せた願書が届くと、すぐに出願を済ませた。あとはひたすら勉強するのみ。
辛いことなどなに一つない。やる気に満ちていた。人生は目標があるとぐっと楽しくなる、今まさにそれを実感していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます