第2話
《七月八日(水)》
大福は、今日も売り切れだった。もう諦めよう。
私は、ホームの三番の印に立つ。今日も暑い。昨日と変わらず、いや昨日より暑くなっている。
昨日、高山君は、私の事を一切覚えていなかった。名前も、交わした会話も。
私はまた胸を押さえる。今の私の心臓には、空っぽの血しか流れてない。液体のような冷たい何かが、体の中心をかき混ぜている。痛くなんてない。気持ち悪くもない。ただ、分からない、何も分からないだけ。
昨日から、何かおかしい。月曜日以降出会った人は、みんな私の事を覚えてない。家族はもちろんクラスの友だちはみんな私を覚えていたし、ごく普通に今まで通り話せた。今はまだ問題は出ていない。
だけど。だけど、『失いたくない』って自分の中でそう思えた記憶が、この世にはもうこの頭にしか存在しない。そう考えると急に、この記憶は全く意味を持たないもののように思えて来る。
高山君と、また仲良く話したい。
昨日私が変な事言ったのも、忘れてるかな。
昨日のなら、忘れてくれてもいいや。
電車が来る。鉛の塊みたいに重くくすんでいる。
いつもと同じ時刻。昨日と同じ場所に私は並んでいる。何もかも同じ。昨日と同じように暑くて、昨日と同じように湿気が肌を舐める一日。きっと、私以外の全てにとって、昨日も今日も、同じような一日なんだ。
ゆっくりとドアが開く。降りる人はいない。私は電車のドアの一歩手前まで歩く。でも、これ以上動かない。顔をあげられない。何で私は今日もここに立ってるんだろう。目の前には高山君がいるのかな。今日も本、読んでるのかな。
プルルルルと発車直前を知らせる合図がいやに無機質に響く。私は拳を握りしめて下を向く。目に涙が浮かび、目を瞑る。もう私じゃ動けない。
お願い……──
「あの、大丈夫ですか?」
真っ黒だった世界が突然光を受け入れる。私は跳ねる様に顔をあげた。
そこには、高山君がいた。間違いなく、高山君だ。
「危ないですよ。もう発車なので乗るなら早く……」
周りから光が侵食してくる。暑さが、温かさとして染みてきた。足が動く。私は電車に乗ることが出来る。あれだけ動かなかったのに。
そう、きっと、ちょっと前に建てられた私の新しいダムは、もう、決壊してしまったんだ。君への感情をせき止めてくれるダム。まだ震えている足が、流れ出たダムの水で、骨から温められていく。
高山君が目の前にいる。あのパン屋のパンが好きな高山君。これくらいしか知らないけれど、こんなにもたくさん知っている。そう、私はあなたを知っている。
高山君は不思議そうな目でこちらを見ている。そんな彼を見つめて私は言う。
「覚えてない?」
私はなぜか笑顔だった。うん、多分だけど、いい笑顔。作ってない笑顔は、自分じゃ分かんないや。
電車のドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
「覚え……? いや、すみません……」
やっぱり覚えてない。知ってた。日をまたぐと忘れられるのかな。
「こんにちは、高山君。私、篠崎真紀。同学年だからタメ口で良いよ。私は、真紀って呼んで」
私、なんだかすごく軽い女みたい。自分でもおかしくなってくる。私が初めて会う男の子にいきなりこんな喋り方する日が来るなんて。笑いがこみ上げて来て、ついに笑いだしてしまう。
「しの、あ……まき……さん? えっとその……俺を知ってるんで、すか」
私っておかしい。今日はなんだかおかしい。とっても暗い気分だったはずなのに。私ってほんとは人をからかったりするのが好きなのかな? 悪い女だよほんとに、おかしくて仕方ない。ダムの作業員も、水が溢れすぎて笑っちゃってるのかも。ハハ、ひどい例え。
──でも……何度だってやり直せる。何回だって初めましてを繰り返せる。毎日だって、君に会える。
もう一度真っ直ぐに高山君を見つめた。
「ちょっとだけ、知ってる……かな」
* * * * *
《七月九日(木)》
ドアが開く。
私は髪を触って整え、気合いを入れる。いつもと同じ硬いドアの向こうには、今日も高山君が本を読みながら立っていた。
私は静かに電車へと乗り込み、高山君に声をかける。
「初めまして、高山君。私、篠崎真紀。同い年だからタメ口で良いよ」
私はなるべく柔らかい笑顔でいようと心掛けながら言った。
そう。初めまして、高山君。急にごめんね。でも、時間が少ないから。
「え……初め、まして……しの……だ、誰ですか?」
「君の事をちょっとだけ知ってる人。仲良くなりたいなーと思って声かけちゃったー」
ごめん、私の頭じゃこんな逆ナンみたいな事しか思いつかなかったよ。でも、君とどうしても仲良く話したかった。たった一日という時間で、君とどこまで仲良くなれるんだろう、高山君。
高山君はまだちょっと困惑している様子で、手で口を触ったり髪を触ったりしている。
「あのさ、高山君も甲津中出身でしょ?」
「え、うん。あ、甲津の人……ごめん俺ちょっと覚えて、ない……かも」
「いやいいのいいの、仕方ないよ。で、この後、暇? あの駅のとこにさ、パン屋さんあるじゃん。そこ、一緒に行かない? ちょっとパン買いたいなーって」
ドアの近くに立つ高山君。そして私はそれを見ながら、逆サイドのドア近くの壁にもたれている。
きっと、やけにフランクな奴だと思ってるんだろうな。高山君の目線が、私と窓の外を行き来している。
「あー、あのパン屋。あそこ俺まぁまぁ好きなんだよね」
嘘だ。大好きだって言ってたし。
私はちょっと顔が緩んでしまった。
* * *
「ほんとにメロンパン二個も? 結構大きいけど」
「うん、いやマジで好きなんだよねこの味。でっかい食パンみたいな見た目なのに味はちゃんとメロンパンっていう」
「ほんと、食パンみたいだよね」
先に小さいパンを三個レジに差し出す私に、ななめ横に並ぶ高山君が語る。
同じ中学の時の話で盛り上がれば、後はスムーズだった。一年の時何組で、誰先生で、あれがどうだったとか、話題はいくらでもある。同じ中学だった、というのは高校生には相当大きな切り札なんだと実感する。
しばらくして高山君も買い終わり、私たちは店を出た。夕焼けなどまだ遠く、太陽はしっかりと街に照りつけている。まだ梅雨は明けていないのに、最近は雨が少なかった。
私たちの別れ道はすぐそこ。本当はもうちょっと一緒に歩きたい。だけど、きっとどこでお別れになったとしても同じ事を思うだろう。
私は自分から言い出した。
「じゃ、高山君そっちでしょ?」
「あ、うん、知ってたんだ」
「まあね」
私はこれをちょっと面白く感じている。
「じゃあバイバイ!」
私は高山君の方を向き、肩の上あたりで右手を振った。高山君も軽く振り返し、
「バイバイ」
と言ってすぐ、向こうを向いて歩いて行ってしまった。
高山君は恥ずかしいのかも知れない。でも……きっと私の方が何倍も恥ずかしくて、そして何倍もそれを抑え込んでるはずだ。
明日になれば、君は忘れてしまうんだろう。でも、だから私は君と話す事が出来る。君をパン屋に誘える。私たちに明日があるなら、もっと本当の私でいられるのかな。それとも二度目に会うことも無かったのかな。
遠くに見えていた背中が角に消える。私も家に向かって歩き出した。
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