自分なりに理解したサーンキヤ・カーリカーと、「50人のプルシャ」の仮説

●自分なりに理解したサーンキヤ・カーリカー


 サーンキヤ学派は、人間存在を「苦」とみなし、その「苦」を除去し、解脱することを目的とする。

 サーンキヤ学派は二元論であり、2つの根本原理、プルシャ(純粋精神、精神原理)とプラクリティ(根本原質)があると考える。世界は、プラクリティ、根源的思惟機能もしくは統覚機能、自我意識、そして11の器官と5つの感覚器官と5つの行動器官と思考器官、という順番で開展する。これを25の原理ともいう。

 サーンキヤ学派の根本テキストは、『サーンキヤ・カーリカー』である。これには、苦を除去するための方法が書かれている。以下ではその内容をまとめていきたい。

 経験的な苦の除去の方法は、究極的には解決にならず、正確な知識をもつ必要がある。そのために、直接経験、推理、信頼しうることば(ヴェーダ)を用いるとよいとすすめる。そして、根本原理は推理によって知覚しなければならない。

 開展したものは、3グナ(サットヴァ:純質、ラジャス:激質、タマス:暗質)のブレンドから成る。

 すべての人はそれぞれ別々の存在であるから、各自に多数の精神原理があると考えられる。精神原理と根本原質は、それぞれの目的のために結合するが、目的が達成されたら離れ(盲人と跛者のたとえ)、原質は活動を停止し、精神原理は観察を停止する。

 原質から開展した諸原理は、理性、自我意識、3グナの強弱によって自我意識から開展する十一器官、五素粒子、五元素がある。

 輪廻の主体である微細身と理性の様々な状態が結びつき、輪廻の続く限り、創造され続ける。これが輪廻の様相である。

 さて、サーンキヤ哲学の思想には、未だに解決されていない矛盾がある。精神原理は概念的にひとつとされており、多数の根本原質がそれを共有しているという仕組みでは、他の精神原理がまだ解脱していない状態において、ひとつの精神原理のみが解脱するという状態の説明がつかない点である。

 踊り子と観客のたとえで見たように、完全に誤謬がなくなり、正しい知識を得ると、根本原質と精神原理は互いに活動を停止し、解脱に至るというプロセスをたどる。その際、精神原理は生産をやめ、原質を観察することになる。

 悟りを得たとしても、個体の潜在力があるため、直ちにその肉体が滅するわけではなく、しばらくのあいだ身体を維持し続ける。身体から分離するとき、精神原理は独存となり、純粋に清浄となる。これが解脱である。


●「50人のプルシャ」

 ここからは、私が感じた疑問点を掘り下げて考察していきたい。私は、踊り子と観客のたとえから、「プルシャは何のためにプラクリティの踊り(=活動)を見るのか?」という疑問をもった。

 まず、前提を確認しておきたい。プルシャは見るのみである。プルシャは「見たい(知りたい)」、プラクリティは「解脱したい」ため、両者はそれぞれ目的をもって結合している。

 解脱すると清浄になるはずだが、プルシャは本来、清浄なもののはずである。しかし、少なくとも今は純粋な清浄ではない。いったい、プルシャはどこで清浄ではなくなったのか。また、プルシャは苦しんでいる。それは、「知性である精神原理は、微細な機有体が消滅しない(で輪廻を続ける)かぎり、それ(神・人間・動植物として創造された身体)に宿って、老・死を原因とする苦悩を受ける(55)」という記述からわかる。さらに、「(知性をもたない)第一原因(原質)が活動するのも、精神原理の解脱のためである(57)」とある。プラクリティのためではなく、プルシャのためなのである。

 ここからは私の仮説である。動きがあると、プルシャは苦しいのではないだろうか。ひとつでも動きがあると苦しいから、すべてのプラクリティの解脱を目指すのではないだろうか。

 ここで、創造神ブラフマーを持ち出したい。『サーンキヤ・カーリカー』の本文によれば、「太初にブラフマーは、自分がただひとりであることに気づいて、自分を祀り、自分を知ってくれるような子孫をつくり出そうと考え、この観念によって順次、五人、二十八人、九人、八人(以下にあげる誤謬などの数にあたる)の子を生み出した」とする解釈もあるという。つまり、ブラフマーの孤独が「知ってくれる」者、つまりプルシャを生み出したのではないだろうか。

 プルシャはブラフマーの子であり、ブラフマーを祀り知るために生み出されたものなのではないだろうか。ブラフマーの生み出した50の誤謬を、それに対応する50人のプルシャは知る。プルシャが誤謬を知るから、世界は開展する。

 プルシャは「報酬も与えない、徳のない者(60)」であるらしい。「手だすけをする美徳のある女(60)」としての原質は、正しい知識を目指し、誤謬がなくなるようにつとめるのではないか。

 事実、(64)では、「…完全に誤謬がなくなるので、清らかな、純然たる知識が生ずる」とある。これをもってして、解脱につながるのである。

 誤謬の数だけ正しい知識が必要であり、50の誤謬に対応する50人のプルシャには、プラクリティの正しい知識を見ることが必要である。プルシャはそのためにプラクリティの踊りを見ているのかもしれないと考えた。

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