『ポール・ロワイヤル論理学』における、身体的な痛みと心の痛みの差異による「明晰ではあるが判明ではない観念」の実在の可能性についての一考

■用語の簡易的な定義

・明晰…現前している(⇔曖昧性)

・判明…区別できる(⇔不分明性)


■テキスト部分要約


 とある観念が明晰ではあるが判明ではない、ということはありうるかもしれない。身体的苦痛は明晰であるが、その存在する場所に関して、不分明であるかもしれない。

 しかし、とある観念が明晰であるならば必ず判明なのではないだろうか。逆に言うと、とある観念が不分明であれば、その観念は曖昧であるといえる。

 ここでは、とある観念が明晰であれば判明であるということを前提に置いて、明晰な観念と曖昧な観念の区別について考えていく。


 たとえば、精神、そして思考(自発的に考えることのみならず、ぼんやりと何かを思い浮かべたり、五感や心で感じる等のレベルまで含む)は、明晰かつ判明な観念のうち主要なものとして挙げられる。また、物体、そして延長(長さ、幅、拡がり、運動、形、重さ等々)についても、私たちは明晰な観念を持っている。物体の観念が明晰であるのは、それが他の観念であることを仮定しえないからである。更に、存在、実在、持続、順序、数などの観念についても、その明晰性において同様である。

 今挙げた諸観念は、いずれも明晰であるわけだが、これらの観念が曖昧なのだとしたらそれは更なる定義を追究するからである。たとえば、神の観念は、神という性質においては明晰だが、人間の限界的にどうしても曖昧性が出てくる。ここからもわかるように、人間には限界があるので、とある観念が完全であることと明晰であることとは条件が異なる。


 感覚的諸性質(色、音、匂い、味、冷たさ、熱さ、そして食欲、飢え、渇き、身体的苦痛など)についての観念は不分明かつ曖昧である。

 ここで火を例に出したい。「火が熱い」と私たちは日常的に普通に言うが、本来熱の観念は心の中にあるはずだった。それを自分の内部ではなく外界(この場合は、火)に帰属させた。これこそが感覚的諸経験について不分明で曖昧な観念が形成されるプロセスである。

 その形成プロセスはあくまでも恣意的である。不思議なことに、同じ「火」に関する観念でも、熱の場合は私たちはそれを火に属するものとし、火傷をして痛い場合はそれを自身の感覚に属するものとする。故に、たとえば「火は熱い」とは言っても、「火は苦痛を持つ」とは通常言わない。


 身体的苦痛には場所があり(「手が痛い」「足が痛い」)、あたかも延長をもつかのようなので、それらが物質的なものに属すると考えがちである。しかし、そうではなく、苦痛の観念は本来心の側に属するものなのである。実は、身体的苦痛が本来的に身体に埋め込まれているわけではない。

 たとえば、手を火傷して、手が痛かったとしても、その苦痛を本当に感じているのは手ではなく脳である。更に言うならば、もし腕が切断されてしまっても、腕のあったところに痛みを感じるということが実際にある。このことから痛みは心の側にあると改めて確認できる。

 魂が身体から離れたとき、あたかも身体が感じるような苦痛を魂の苦痛として感じることがありうることも、これで説明できる。


 火の熱も痛みも本来心の側に属するはずなのに、感覚的経験によって、前者は火に属するもの、後者は身体に属するものという誤謬を犯しがちであるということを先程確認した。同様の誤謬のひとつとして、重さが挙げられる。

 手に持っていた石から手を離すと石は落下する。それ故に「石に重さがある」と一般的には理解されるが、実はこの重さという観念も不分明である。なぜなら、本来的には「石に重さがある」言い換えれば「石の内に重さが存在する」わけではなく、「重さ」という思考が精神の側に属しているからである。



■自分の意見


 とある観念が明晰であるが判明でないことはありうると私は考える。そのことは、心の痛みによって説明できる。


 まず、言葉の定義を確認したい。とある観念が明晰であるということは、「注意している精神に現前し、明示されている」つまり感覚的に明らかであるということである。一方で、とある観念が判明であるということは、「明晰であることに加えて、他の全てから分離・峻別され、自らのうちに明晰なもの以外含まない」つまり区別できるということである。

 デカルトは明晰ではあるが判明でないことはありうると主張し、それに対してアルノーは明晰なものは常に判明であると主張した。アルノーに言わせれば、明晰であるならば、結果的にそれは同時に判明だろうと考えた。明らかであるということと他と区別できるということは実質的に同義であるとしたのである。

 確かに、明晰であるから判明であるという観念は多いように思える。要約で示した、熱や火傷の痛み、重さについての観念に関してはそれらの説明がぴったりと当てはまるように思える。特に身体的な痛みを例として挙げれば、痛みが存在する場合そこに痛みが存在することは明らかで、その痛みは他のものとは明確に区別できる(たとえば、私たちは普通、腹痛と頭痛を間違えない)。痛みを感じる場所を単純に特定できるのだから、その痛みの存在自体が既に判明であると言えよう。

 だが、ここで心の痛みを考えてみたい。心の痛みとはたとえば、悲しみ、悔しさ、後悔、自責、自己嫌悪などをさす。

 心の「痛み」とは言うが、身体的な痛みとはクオリア的に別物であることは誰しもが自明に実感していることと思う。足を怪我すれば足が痛み、胃が荒れれば腹痛が起こる。足の痛みと腹痛もまた別物だが、それらの痛みは身体的なものとして括ることができる。心の痛みはかならずしも身体的な痛みではないということは誰しもが納得できることだろう。たしかに、心が痛いと、ストレス性の頭痛や腹痛、動悸や眩暈等がすることもある。しかし心の痛みが常に必ず身体的な痛みを伴うかというと、必ずしもそうではない(仮に、私は心が痛いと常に必ず身体のここがこうこうこういうふうに痛むんですと主張する人がいれば、会ってよくよく話してみたい。彼または彼女は哲学史上における重要参考人かもしれないから)。

 それでありながら、身体的な痛みと心の痛みは何が異なるのか。それこそが、身体的な痛みは明晰かつ判明であるが、心の痛みは明晰ではあるが判明ではない点だと考える。

 心の痛みはそこに現前していることは明らかである。その痛みは身体的ではないが、かといって決して気のせいでもない。何をしていても気になったりする。その痛みあるうちはその人を支配するという意味では、身体的な痛みも心の痛みも同様である。

 だが、心の痛みは判明、つまり他のことと明確に区別できるのだろうか。繰り返しにはなるが、私たちは普通腹痛と頭痛を間違えないし、打撲の痛みと虫歯の痛みを間違えない(脚がずきずきと痛むんです、と言いながら歯医者に駆け込む人がいたら、ぜひともお近づきになってよくよく話を拝聴したい)。しかし、たとえば悲しみと悔しさをそこまで明確に区別できるだろうか。後悔と自責と自己嫌悪をそこまで明確に区別できるだろうか。それらはしばしば混然一体となり、自分でも明確にこの感情だと名付けられない場合というのが頻繁に起こりうるのではないか。

 たとえば、失恋した人がいたとする。彼または彼女はその相手に非常に強い恋慕をしていたが、あえなく相手からは断られてしまった。彼または彼女は家に帰ってさめざめと泣くかもしれないし、スマートフォンから相手の連作先を消すかもしれないし、誰か親しい友人にその事実を打ち明けるかもしれない。どの行動を取ろうが、彼または彼女のそれらの行動は、失恋による心の痛み故である。彼または彼女の友人は、こうアドバイスするかもしれない。「つらいのはとてもよくわかるけど、あなたは混乱しているよ。悲しいの? 悔しいの? それとも、それは他の感情なの? まずは、気持ちを整理した方がいい」(失恋したときにこう言う友人に相談したいかどうかはさておいて)。つらいという気持ちは明晰であるが、気持ちは混乱している。つまり、不分明なのである。

 もうひとつ例を挙げる。愛する伴侶を亡くした人がいたとする。彼または彼女の伴侶は末期がんで、発覚した後には余命いくばくもなく亡くなってしまった。そのときに彼はまたは彼女は、「どうして体調の変化に気づけなかったのか」「もっと早く病院に連れていけばよかった」「もっと一緒に生きたかった」などと思い悩むに違いない。そのとき彼または彼女の心にはあきらかに心の痛みが生じていることであろう。つまり明晰である。しかし、そこに存在する痛みを、自責、後悔、悔しさなどと、他とはっきり区別することが可能であろうか。おそらくそう簡単にはいかないと私は思う。そこには本人も自覚していないもの、あるいは自覚しづらいものが混ざっているかもしれない(たとえば、もう伴侶は戻ってこないという「絶望」や、道ゆく家族連れを見たときの「羨望」「嫉妬」)。もっと言うのであれば、永遠に名づけがたい感情もあるかもしれない。

 その痛みが、他の全てから分離、峻別されるというのは、この場合はほとんど不可能に近い。心の痛みを感じている人のその痛みは、一種のカオス状態を呈するものだと考える。つまり、明晰ではあっても判明ではない。


 ここでは心の痛みを一例として、明晰であるが判明でない観念はありうるのではないかという私の意見についてまとめた。

 この思いつきは、授業を受けている最中に浮かび、煮詰まっていったものである。ひとまず文章の形にまとめることはできたが、本来であればもっと他のテクストなどにあたり、「心の痛み」について述べている文章を引用できたら更によかったと思う。

 読もうと思っていたのは、テキストにも引用されていたアウグスティヌスの『神の国』や、参考文献として調べて発見した『デカルト全書簡集』である。図書館でどうにかどちらも用意できたのだが、時間の制約があり、とても読み込むことはできなかった。

 これからでもいろいろなテクストにあたってみて、観念についての考察を深めたい。

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