第30話

13.



「それで、君はエリスの心情を考えたことはあったか?」


 水早川先輩は自身の手番で聞いたことのある質問を投げかけてきた。

 将棋の二回戦。


 試合が始まって十分くらいなのだが、もう既に負けそうである。



「……先輩。競技中ですよ」

「なぁに。百人一首ではないのだ。小声で話すくらい問題ない」


 水早川先輩はそう自信を持って断言するが、ルールブックには『私語を慎むように』と明記されているはずだ。


「そうですか……」


 とはいえ、生徒会長の許可があるなら黙っておく必要もないか。

 ルールは本質の必要条件だと思うが、本質であるかは場合による。


 それに僕は先輩と話がしたくないわけでもない。



「先程の質問ですが、僕はエリスさんがどこの人、いつの人であれ、エリスさんという人の心情は考えたことはないですね」



 心情というくらいだから、おそらく架空の人物、それか過去の人物だと思う。

 エリスと聞いて、最初に思いつくのは『舞姫』のエリスだが、何にせよ僕は彼女に限らず、『舞姫』に限らず、登場人物の心情は考えたことがない。



「ふふ。そうだろうな。私も考えたことがない」


 笑い飛ばしながら、先輩は容赦なくと金を成ってきた。

 この手はかなり厳しく、これを凌ぐ手は思いつかない。


 しかし、持ち時間はまだ四分も残っている。適当に悪あがきでもしてみようか。


「それではなぜ訊いてきたのですか?」

「そうだな。なぜだと思う?」


 先輩は不敵に笑む。

 なぜって……僕はそれを訊ねたのですが。


「さぁ。皆目検討がつきませんね」


 そう言いつつ、一手進めた。


「お? いいのかそんな手で。負けるぞ?」

「逆に先輩はこの局面に僕の活路を見出しているのですか?」

「いや。この対局は100%私がもらう」


 なんだ元も子もない。

 しかしそれほど先輩と僕の実力差はあった。


 序盤からだ。

 先輩は決まって、最も先輩の布陣が堅固になるように、最も僕の布陣が不安定になるような手を、抜け目なく指してきた。


 一回戦で快勝できたから、少し自惚れていたところもあったのかもしれない。

 勝ち負けを"選ぶ"ことなど烏滸がましかったのだ。

 


「なら、そんな期待させるようなことを言わないでくださいよ」


 先輩は一度何かを言いかけたが、口を噤んだ。


 先輩は盤面に目をしばらく落とし、一手進めてから、再び口を開く。

 


 局面はすでに寄り筋に入っていて――互いに指す手順は脳内で共有されていて――僕も偶に悩む素振りを挟むなどして、不確定性が殆ど排除されたような局面を辿るように進めていく。


「仕方がないだろう。もう少し棋力を上げてから挑むべきであったな」

「……そうですね。負けました」


 判りやすく詰みまで待ってから投了した。

 この対局は完敗だ。二枚落ち……せめて角でも落としてもらわないと勝てそうにない。


「しかし、"試合"としては私たちの負けのようだな」


 隣を見れば波山さんも、平田も勝利を収めていた。


「……そうだな。もう少し棋力を上げてから挑むべきだったな」


 先輩は僕に言ったことを再び繰り返すが、あれは二重の意味を孕んでいたのだろうか。


「すまんな、水早川。平田のやつ性格も生意気になったが、将棋の腕も生意気になってやがった」

「え! キャプテン。そもそも今日が初めてですよね、将棋指すの」


 平田がすかさず突っ込む。ただ、彼の表情に少し違和感を覚えた。


「ほら。生意気になってやがった……」


「ハハハハ! 私たちはもうじき去る人間だ。私たちに勝つなど喜ばしい限りじゃないか!」


 負け惜しみとも取られぬ内容だが、この人は心の底からそう思っていそうだ。

 たった一年しか僕らと変わらないのに、先輩は全てに達観しているように見えた。


「平田にあかね、そして結江。お前達は私たちを二回戦という超序盤で下したのだ。簡単に負けないでくれよ」


 水早川先輩は冗談めかして――名指してまで――告げ、一人立ち上がって僕たちの前から去っていった。


 最後の最後まで余裕のある人だった。

 気分的にはどちらが勝者……いや僕は負けたのだが。


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