喪失感

 εイプシロンは、人生二度目の喪失感に打ちひしがれていた。



 勇者として絶頂を極めていた時、アダーラというサキュバス・クイーンによって、下級サキュバスと体を交換され、知識や技能までも奪われてしまった。


 勇者として身につけていたはずの能力を使おうとしてもぼんやりとして思い出せないもどかしさ。自分の本当の名前すらわからなくなっていた。


 新米の最下級のサキュバスとしての未熟すぎる知識と技能しか使えない自分。

 自分だったはずの目の前の男に、抵抗すらできずに易々と組み敷しかれてしまった時は、これまでの人生を全て否定されたようで、悔しくてたまらなかった。


 その後は、魔界にあるアダーラの宮殿で、他のサキュバスたちから陰湿ないじめをうけながら、雑務をこなす日々だった。


 εイプシロンが、そんな宮廷生活に慣れ始めた頃、偶然にも、自分と同じ境遇にある下級サキュバスの存在を知った。


 自分と同じように、名を与えられず記号で呼ばれていた下級サキュバスだ。

 ιイオタと呼ばれていた彼女は、εイプシロンと同じく、元勇者だった。

 εイプシロンιイオタはすぐに意気投合し、仲良しになった。

 

 ιイオタの話では、ηイータと呼ばれている下級サキュバスも同じ境遇らしい。


 彼女達は脱走を計画していた。

 危険な計画だったが、εイプシロンも計画に参加することにした。


 人間界行きのテレポートスクロールをアーク・サキュバスの居室から奪って、使用するだけの計画だ。しかし、テレポート制御ブレスレットという特殊な腕輪がないと、テレポート先がランダムに指定されてしまうのだ。テレポート先が安全である保証はない。深海や、岩の中かもしれないのだ。しかも一枚で一人しかテレポートできない。仮に成功しても3人バラバラになってしまう。さらに、3人とも人間界の記憶が曖昧になっているので、合流場所すら決められない状況だった。それでも、今の状況から逃げ出したかった。


 そして、彼女達は計画を実行し、お互いの無事を祈って、テレポートしたのだ。



 εイプシロンは、亡者がひしめく古戦場にテレポートした。

 サキュバスにとっては安全地帯だ。

 そこで、親切なデスナイトとリッチにであって、様々な知識と技能を教えてもらうことができた。


 その後は、長い年月をかけて世界中を周り、様々な知識を身につけた。

 しかしιイオタηイータに出会うことはできなかった。


 長い旅を終え。古戦場に帰ると、装備を整えて名を売る準備を始めた。

 εイプシロンの名が拡まれば、二人に出会えると考えたからだ。

 元の姿に戻ることは考えていなかった。

 なぜなら、ヒューマンの寿命はとうに過ぎていたのだ。

 それに、元の自分がどこの誰なのかもぼんやりとして思い出せなかったからだ。



 ……



 εイプシロンは、拠点の結界に綻びがないか確認していた。

 エッタの言いつけの一つだ。


 エッタの侵入を許したのは、結界の綻びを見落としたためだ。

 上位のサキュバスを倒したことで、慢心があったのだろう。

 そのせいで、エッタの奴隷にされてしまったのだ。

  

 エッタは酷い主人ではないが、劣悪な環境で育ったせいか、冷酷なところが少なからずあった。アダーラの宮廷での生活に比べれば遥かにマシだったが、奴隷は奴隷だ。自分に自由はないのである。



 結界の確認を済ませると、近所にいるネームド・リッチ・レオナルド=リーウェイの元へ向かった。エッタが留守の間に、どうにかして、隷属の首輪を解除したかったからだ。


「リーウェイ卿、いつもすみません」


 εイプシロンはそういうと、リーウェイ卿の前に後ろ向きでしゃがみ、エッタの言いつけで伸ばしていた長い髪を掻き上げた。


「気にするな、どうせ暇つぶしだ」


 レオナルド=リーウェイは首輪の状態を確認しながら、気さくに答えた。

 リーウェイ卿は続けた。


「これはよくできてる。エッタとかいうハーフエルフ。なかなかに見込みがあるな」


「感心している場合じゃありませんよ、解除できそうですか?」


「一度つけたら外させないことを前提に設計されているな。

 魔法も物理攻撃も通用しないぞ、これは」


「……じゃ、奴隷として生きるしかないのですか?」


「まぁ、急くな。『普通なら』通用しないということだ」

 

 εイプシロンは期待で目を輝かせた。

 

 リーウェイ卿は、話を続けた。

「しかし、すぐには無理だな。時間がかかるぞこれは」

 そういうと、首輪の状態を念入りに確認しながら、設計図をしたため始めた。


 それから毎日、εイプシロンはリーウェイ卿の元に通うようになった。


 もちろん、もしもの時に備えて、エッタの言いつけは全てこなしていた。

 

 装備はエッタに持っていかれてしまったので、εイプシロンはエッタ対策を盛り込んだ新装備を作り直すことにした。



 ……



 ヴァニタス大陸の南方にある広大な砂漠地帯シャマールは、魔王軍にも王国にも属さない中立地帯だ。オアシス毎に都市国家が乱立し、独自の文化圏を形成している。

 オアシスを転々とする、強力な兵力を持つ遊牧民族も多数存在し、シャマールは常に混沌の中にあった。


 各都市には、魔王軍に属さない、野良のサキュバスも少なからず存在しているのでιイオタが身を隠すには絶好の場所だった。


 ιイオタはテレポート後、移動民族ロマのサキュバスの一団に拾われた。表向きはヒューマンの姿をして占星術師や踊り子、吟遊詩人として生計を立てているが、裏では暗殺などの荒ごとも請け負っている。彼女達は誇り高い民族だ。皆、ユニコーンに乗っており、ユニコーンに乗れなくなった時は、移動民族ロマを去らねばならない、掟がある。


 また、彼女達は、都市国家や遊牧民と交流するなかで、娼館で生まれたばかりのサキュバスを買い取り仲間として育てることもしている。ιイオタの最初の仕事は子守だった。今では一通りの仕事ができるようになったが、当時は未熟な下級サキュバスだったこともあり、子守以外の仕事をさせてもらえるまでには長い年月を要した。


 彼女達は、一つの姉妹として団結していた。年上の者は姉、年下のものは妹だ。掟は厳格だが、皆明るく元気で、過ごしやすい集団だった。ιイオタが拾ってもらった時は、幼い子くらいしか妹がいなかったが、今では中間くらいの立場になっていた。教わる側から教える側へと立場がかわって久しい。


 今では、昔は勇者だったことなど、もはや遠い記憶になり始めていた。


 もちろん今でも、ηイータεイプシロンのことは心配だ。しかし、大切な移動民族ロマから離れるわけにもゆかず、無事を祈りつつ、移動民族ロマの姉妹としての人生を歩んでいたのだった。



 ……



 エッタが、ミスリル等級の冒険者になり、社会生活の基盤を築いた頃、古戦場の拠点にはすでにεイプシロンの姿はなかった。


 εイプシロンは、首輪を解除して、古戦場から脱走していたのだ。

 首輪が解除されれば、エッタに通知される仕組みだったが、リーウェイ卿は、それをみこした解除装置を作ったのである。



 エッタは、誰もいなくなって荒れ果てた拠点の惨状をみて、複雑な感情に支配されていた。


 怒り、喪失感、虚無感……。


 勝ち取った自分のεものが、奪われたのだ。


 エッタは、しばらく呆然としていたが、すぐに気持ちを切り替えて、拠点の状態を調べた。拠点から逃げたのは数ヶ月前といったところだろう。

 漆黒のユニコーンは換金済みだったので徒歩での移動はずだ。


εイプシロンが使っていた冒険者ギルドの代理人に当たりをつけてみたが、空振りだった。王都の冒険者ギルド長にも話を聞いてみたがεイプシロンとは何年も連絡がつかない状況らしい。


 王国の勢力圏から離脱しようとしているのかもしれない。


 北には魔界とよばれる魔王の支配する大陸があるので北はないだろう。

 東西は王国の勢力範囲内だ。その先は海が広がっている。

 南……。確かに、南ならサキュバスにとって都合の良い条件が多い。

 

 よし、南にゆこう。

 

 昔のエッタなら、取り戻すことに執着などはしなかった。

 だが、εイプシロンは、エッタが人並み以上の人生を勝ち取った象徴だ。

 だから、手放したくはなかったのだ。

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