紫草

中野凉子

紫    草

 つい先日の出来事だ。

 大学三年生も半ばに差し掛かり、周りの友人が就職活動がどうのと云いはじめた。特にやりたいこともないのだけれど、

「文系で女子は就活に不利だ」

 と親に云われ、仕方がなく私も手当たり次第インターンに応募した。しかしエントリーシートというものには困惑する。

「あなたが学生時代一番力をいれたことはなんですか」

 とか、

「自己PRをしてください」とか。

 どうせみんな同じようなことを答えるのに、なぜそんな質問をするのだろう。そう思っている心は文面にも表れるのだろうか、数打ちゃ当たると思っていたインターンは全く通らず、唯一参加できることとなったのは都内に本社を構える聞いたことのない名前の企業だった。

 私の通う大学は京都だから、泊りがけで行かなければならない。日数もかかるし、ホテルも高い。思案したが、都内の大学に通う友人の存在を思い出した。数日間押し掛けるのはどうかと思ったが、気のいい友人は二つ返事で了解してくれた。

 そうして八月某日、私は東京へと向かった。

 じりじりと日が照りつけていて、息もできないほどに暑かった。盆地の京都も酷暑だが、ビル群とコンクリートで四方を埋め尽くされた東京の街の暑さはどこか異様だった。

 土地勘がないこともあって、迷路のような道を緊張しながら歩くのはひどく消耗した。インターンが終了して友人の家に向かうころには疲労困憊し、髪は水にもぐったかと思うほど汗をかいていた。

 友人の家の最寄り駅はJR武蔵境駅で、そこからちょうど真南の方向、徒歩で三十分くらい下ったところに在った。私がその手前の三鷹駅から歩いて行くと電話で伝えると、

「正気?やめなよ、四十分以上かかるのよ。途中で倒れたらどうすんの」

 それでも私はどうしても三鷹駅に寄りたかったのだ。

 

 午後五時過ぎ、私は三鷹駅に降り立った。

 三鷹は、作家太宰治が生前住んだことのある地だ。太宰治を敬愛してやまない私は、この機会に三鷹駅周辺を散策したいと思い、わざわざ遠回りして友人の家に行くつもりだったのだ。

 しかしそこは想像していたのと随分違っていた。思った以上にビルが多く、近代的な街並みだった。

 私が暮らす京都にはあまり高い建物がないせいかもしれない。

 ぽかんとして駅口に立つ私はさぞ田舎者に見えたろうし、それを自覚して少し気おくれした。

 東京のこの都会的な街並みはどこまで続くのだろう。本当にこの近くに太宰の痕跡はあるのだろうか。若干不安を覚えながらスマートフォンのマップを頼りに南口から東に歩きだした。

 「風の散歩道」と称される道を南東に進むにつれ、背の高い建物は減って住宅街が広がり、そこでようやく私は少しほっとした。

 玉川上水を片手に五分ほども歩くと、太宰碑というものがあって、さらにそこから少しばかり進むと、彼を偲ぶためにおかれたという玉鹿石を見ることができた。

 植え込みに紛れるように置かれたその石は茶褐色で、植え込みと同じくらいの高さだった。それに太宰が座ったわけでもあるまいに、彼の体感が残っているのではと石に手をあてた。いま自分の立っている地が彼の住んでいた地で、もしかしたらこの道を彼が歩いたかもしれない。そう思うと小躍りしたいほど嬉しく、しかし同時に喪失感のようなものにも襲われて、石の冷たさが私の身体の奥までしみるような感覚をおぼえた。

 次は何を見よう。軌跡をたどりたい。

 太宰が立ち寄ったという太宰横丁というのがいま来たところを戻って南にいくとあるようだから、そこに行こうか。

 などと考えてあたりを見回すと、橋が見えた。何とはなしに近づいてみると、橋のたもとに「むらさき橋」と書かれていた。

 むらさき?別に橋の色は紫色ではないし、地名でもなさそうだ。疑問に思い、スマートフォンを開いた。気になることがあるとすぐ調べたくなるのは私の癖だ。

「三鷹 むらさき橋 由来」まで入力したときだった。

「あっ」

 スマートフォンの画面がフリーズし、そのまま電源が落ちた。充電切れだった。朝からずっと外出し、マップを見るのに起動したままで、画面も明るくし続けていたから無理もない。

 私は困惑した。友人宅の住所は念のため紙にもメモしてあったから良いものの、見知らぬ土地で地図が見られず、連絡も取れないのはかなりの痛手だった。

 ここから友人の家は南西だろう。行けるところまで行って、誰かに道を聞こう。

 いまから思えば駅に戻って大きな通りを歩くなり、携帯型の充電器を買うなりすればよかったのだが、このときの私はむらさき橋からじぐざぐと南西に細い道を歩き出したのだった。そうして当然道に迷い、日が沈んであたりが橙色に照らされだしたころ、すっかり途方に暮れた。

 完全に暗くなるまでに友人のもとに辿りつかねばと思い、人に道を聞こうとあたりをきょろきょろと見回した。その時だった。

「あの、なにかお困りですか」

 後ろから声を掛けられた。


 振り向くと白髪の、齢は七〇ほどであろうか、生成り色の着物を着た女性が立っていた。柔らかな雰囲気で、気遣わしげな目でこちらを見ていた。なんとも上品な女性だった。私は途端に安心し、訳を話した。

「お気の毒に。私のお店で携帯を充電なさったらどうです。そんなに時間はかからないでしょう」

 そう云う女性に、私は初めそんな迷惑はかけられないと云った。しかし道を教えてもらうにしても徒歩で四十分以上かかる道のりであるし、なにより目的地は目印などないただのアパートなのだ。スマートフォンを復活させるのが先決だと考えなおし、言葉に甘えて店にお邪魔することにした。そこは、女性が声を掛けてきた場所から本当に一、二分ばかり歩いたところにある着物屋だった。

「呉服屋さんなんですか」

 そう尋ねると、呉服というよりはアンティークの着物を扱う着物屋なのだと女性は答えた。

 たしかに店内にはあでやかな着物が多く掛けられており、懐かしいような古めかしいような匂いがした。店名は「むらさき庵」と云った。名前の通り、店先にはなんとも綺麗な紫色の着物が飾られていた。充電がある程度溜まるまでの二、三十分、私たちはそこで話をした。

 私が京都から来たのだと伝えると、女性は京都が好きだと云い、これもご縁ですねと笑った。

 「ご縁」というのは私の母もよく使う言葉だった。何事もご縁が大事なのだと。私も特段それを否定するつもりはなかったが、就職活動というシビアな人選を目の当たりにして、あまり声を大にして云わなくなっていた。

 そうですね、と受け流し、私は気になっていたことをきいた。

「この辺りは、なにかむらさきというのと、関係があるのですか」

 さきほどの橋にも、この店の名前にも入っている「むらさき」が引っ掛かっていた。すると女性はこんなことを云った。

「ああ、このあたりね、昔はぜんぶ武蔵野って云ったんだけど、ムラサキって植物がたくさん自生してたんですって。古今和歌集にも源氏物語にも歌があって…それでむらさき橋っていうみたいね。うちのお店の名前もそこから」

 そうしてこう続けた。

「ムラサキっていうのはね、根っこが染料に使われてきたのよ。紫根染めって云ってね、綺麗な色よ」

 私はふいに店頭の着物を思い出した。ではあれも、ときくと女性は嬉しそうにこたえた。

「ええ、そうなの。あれも紫根染めの絞りよ。素敵でしょう」

 私はその言葉に、素直にうなずいた。あまり着物には詳しくないが、それでもなぜか店先に飾られたあの着物が、とても美しく、懐かしく思われた。

 そうこうするうちに三十分近くたち、充電も地図を見ながら行動するには十分なくらいに復活した。幸いにも友人が三鷹駅の近くにいると連絡があったため、そこで合流することにし、私は女性に礼を云った。

「また、縁があったらお会いしましょう」

 女性は云って、私を見送ってくれた。人のやさしさに助けられたな、などと考えながら駅に向かって歩いていると、長野に住む祖母から着信があった。

 とくに用事があるわけではなく、久々に孫の声を聞きたくなったようだった。雑談がてら歩くうち、私は祖母に着物屋の話をしていた。 

 だが、ここで思いがけない言葉を聞いたのだ。

「紫根染めの着物っていったら、うちにもあったわ。だいぶ昔にひいおばあちゃんが売っちゃったんだけど。綺麗な絞りの着物でね、嫁入り道具だったんだって。ひいおばあちゃんがね、これを着ているときに作家の太宰治に声かけられたことあるって、ずうっと自慢してたよ。嘘か本当か、いまとなってはわからないけどね」

 その着物は、あれではないのか。

 何の根拠もない。私は曾祖母の着物を見たこともないのだけれど、直感した。

 駅が近づき電話を切っても、私は云い知れぬ高揚感を抱いたままだった。気分は晴れ晴れとして、このさきの全てがうまくいって、この地にまた戻って来るような気がした。待ち合わせ場所の南口につくと、友人は先に来ていた。

「ゆかり」

 久々に呼ばれた自分の名前に、私は振り返った。


 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけぶる草のゆかりを。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫草 中野凉子 @ronron0613

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る