第77話

「さっさと行ってこい! この役立たず!」

 オルノは癇癪を起こしたノエルの餌食となっていた。飛んできたグラスをすんでの所でかわすも、割れて飛び散った破片が手の皮膚を裂き、傷が出来る。

「はい、はい、分かりました。水、水ですね? 直ぐに行って参ります!」

 慌てて豪華絢爛な客室を飛び出した。手には空になった水差しを持っている。オルノは重い重いため息をついた。城の廊下を歩く足取りも重い。

 水差しに水を入れ、こうして一体何度往復しただろう。洗ったところで出来た吹き出物が流れ落ちるわけでもないだろうにと、そう思う。

 なのにあの皇子は顔を洗うことを止めようとしない。鏡を見てはヒステリックにわめき立て、そのたびに顔を洗う。

 そうしたところで、ウィスティリアで融通してもらった薬が流れ落ちるだけなのだから、かえって悪化するだけだ。そう進言した途端の先程の癇癪である。いつものことだが、本当に手に負えない。

「でも、何でいきなり顔中に沢山の吹き出物なんか出来たんだろう?」

 ついそんなことを呟いてしまう。

 あの皇子は美容には非常に気を遣う。食べ物も化粧品も美容に良い物ばかりだ。もちろん肌のお手入れも欠かさない。だからこそなのだろうが、肌はいつも輝くような美しさを保っていた。

 それが突如、醜いイボのような吹き出物があちこちに出来、それがぐじゅぐじゅと膿を出し始めたのだからたまらない。美しい顔が自慢だったあの皇子には、耐えがたい光景だったのだろう、医者を呼べとわめきちらし、姿を見せた治癒術士に横柄な態度ですぐ治せと迫った。

 姿を見せたのは、いつもお世話になっていたあのヨハネスさんである。

 もちろんノエル皇子の一喝にも動じない。どんなにわめき散らそうと、困った坊やだと言わんばかりの冷めた態度を取られ続けた。

 ――さっさと治せ! このうすのろ!

 本当にノエル皇子はどうしてこうなのだろう?

 オルノは二人のやりとりに冷や冷やしっぱなしだった。どんなに切羽詰まっていても、頼むということが出来ないようで、案の定、ヨハネスさんは腹を立て、これでも塗っておけと薬を放り投げ、立ち去ってしまった。

 それでも、彼は親切だとオルノは思う。彼が融通してくれた薬の効き目は大したもので、翌日にはノエル皇子の吹き出物は綺麗に治ったのだから。

 そう、薬が効き、一度は綺麗に治ったのだ。治ったのだが、それから幾ばくも立たぬうちに、再び醜いイボが出来、膿を出す。その繰り返しである。

 見るに見かねて、ルドラスに帰った方が良いのでは? そう言ってはみたものの、

 ――こんな醜い顔をさらせるか!

 ノエル皇子にそう怒鳴られた。

 自国ではノエル皇子を慕う美しい姫君が待ち構えている。顔中いぼだらけになった醜い自分の顔を見せたくないのだろう。気持ちは分かるが落ち着かない。何せ周囲にはこれでもかと言うほど魔術師が徘徊しているのだ。

 杖を持った魔術師は独特の雰囲気があり、どうしても萎縮してしまう。なのに、その誰もが気味の悪いほど愛想が良い。ノエル皇子の様子はどうですか? ええ、ええ、薬なら都合しますとも、何なりとおっしゃって下さい、と皆が口をそろえてそう言うのだ。いくらでも滞在してくれてかまわない、と。

 扱いに不満があるわけではない。待遇は抜群に良いのだから、ここは一つウィスティリアの好意に甘えるべきだろう。ただ、周囲の目、特に魔術師の目が不気味に感じるだけで……。オルノはぶるりと体を震わせる。嫌なことを思い出したのだ。

 ――この薬なら、お前さんのお望み通り証拠は残らないよ。見た目は、そうさね、肺炎で死んだように見えるだろうね。病死扱いになる。

 有翼人といえどもひとたまりも無い猛毒だと魔女は言う。

 ――でも、これは……魔法薬、ですよね? 我ら有翼人に魔法は効きませんよ?

 ――おやおや、何にも知らないんだねぇ。無知は愚かだ。

 真っ赤な唇をした魔女は、そう言ってにんまりと笑った。顔の造形は美しかったが、笑い方が卑しい、オルノはそう感じた。品性下劣、そんな感じである。もちろんそんなことは口にしなかったけれど。

 ――確かにあんたら有翼人は魔術を弾く。呪うことも出来ない。けどねぇ、体内から流し込まれた魔法は効くんだよ。即効性の魔法薬だから、翼の力が及ぶ前に命を奪う。

 ――翼の力が及ぶ、前?

 ――翼は魔術を弾き、体内に入った魔法を無力化する。だから遅効性の魔法薬は、無意味だね。作用する前に、全部分解されちまう。けど、無効化される前に命を奪っちまえば、こっちの勝ちさ。つまり即効性の魔法薬なら、あんた達有翼人の命を奪うことも出来るってわけだ。

 そんなことは初めて聞いた。

 ――おやおや、本当に初耳かい? 神徒の末裔だなんて言って、いい気になるのも考えものだねぇ。魔術をなめてかかるのも大概にしないと、足をすくわれるよ? ま、そうなったところで、あたしが困るわけじゃないけどね? ほら、よく言うだろ? 他人の不幸は蜜の味ってね。ははは、愉快、愉快。

 そう言ってげらげら笑った。

 逃げるように魔女の元から立ち去って、その後のことは思い出したくもない。いくら命令で仕方なくとは言え、幼い子供の命を奪うなど、あまりにも後味が悪かった。しかもその理由が理由である。気の毒としか言いようがない。

 水の流れる音を耳にして、オルノはふっと現実に引き戻される。

 獅子の口から勢いよく水が流れている水場を目にして、ほっとした。

 ウィスティリアは羨ましいくらい水路が発達している。城のそこここに水源があるので、こうして井戸まで行かずに済むのがありがたい。獅子の顔から流れ出ている水を水差しに入れ、戻ろうとしたところでオルノはぎょっとなった。

 真後ろに人が立っていて、すんでの所で悲鳴を上げるところだったのだ。

 しかも、その相手が……。

「王太子様……」

「そう、僕。もしかして驚かせた?」

 オスカーがにっこりと笑う。

「ええ、ええ。驚きました。ご用件は何でしょうか?」

 オルノはどくどくと早鐘を打つ胸を押さえる。

「うん、少し話があるんだけど、いい?」

 もちろん侍従ごときが逆らえるわけもない。水差しを持ったまま、彼の誘導に従って城の廊下を歩き出す。

「あのう、お話、とは?」

 歩きながらもついオルノはそう聞いてしまう。王太子様もまた杖を持った魔術師である。見目麗しい麗人であってもやはり不気味だ。

「モルガン・オールド」

 オルノはオスカーのその一言に飛び上がりそうになる。例の魔法薬を都合してくれた魔女の名だった。冷や汗が背を伝い降りる。

「心当たりある?」

 そう問われて目が泳いでしまう。

「え、いえ、ありま、せん」

 ようようそう言えば、

「本当に?」

 そう聞き返された。

「ええ、まぁ、その……何故、そんな事をお聞きになるのですか?」

「君がモルガン・オールドっていう魔女と接触したっていう情報を手に入れたんだけど、本当に心当たりはない?」

 ぐっと言葉に詰まる。調べたという事だろうか? なら隠しても仕方が無い。オルノは観念したように息を吐き出した。

「その、はぁ、すみません。確かに一度お会いしたことがありますが、それが、何か?」

「彼女から魔法薬を手に入れたでしょう? 一体何に使ったの?」

「言う必要がございますか?」

「あるから聞いているの」

「申し訳ありませんが……」

「言えない?」

「はあ。皇族関係になりますので」

「ふうん? 今ここで言っちゃった方が身のためだとは思うけど、まぁ、しょうがない」

 何やら物騒な台詞だ。

「あの、どこまで?」

 オルノが怖々そう問えば、

「ああ、直ぐそこだよ。客室だから安心して? 拷問部屋なんかじゃないから」

 全然安心できない台詞を言われてしまう。

 案内された部屋に足を踏み入れ、オルノは度肝を抜かれた。

 そこにいたのは、魔術師、魔術師、魔術師だったのだ。全員が杖を手にしているから間違いが無い。見知った顔もある。客室の前をうろうろし、親切顔で何かとノエル皇子の様子を聞きに来ていた者達だ。

 そしてその中心にいるのが……。

「アロイス……」

 目にしたのは杖を手にした黒衣の麗人。彼の顔に浮かんでいたものは冷笑である。

「そう、私だ。お前だったとは、な」

「何のことでしょう?」

「アイリスを殺したのはお前だな?」

 アロイスの言葉に、オルノは息が詰まった。

 知らないとそう言えばいい……けれど、アロイスは事実を確信しているようで、眼差しは鋭利な刃物そのものだ。体が震え、後ずさる。アロイスが一歩前へ出れば、オルノはそれを避けるように一歩後ずさった。殺気すら伴ったそれは、オルノを打ちのめすには十分で、手にしていた水差しは落ちて割れた。

「し、仕方が無かったんだ!」

 オルノはそう叫んでいた。


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