最終章 彼ら

第51話 私の英雄

「なあ王。久しぶりだな」


 神野王は今、深い海の中を体操座りをしながらころころと転がっていた。

 彼は無心になり、その中で息もせず、訪れる死をただ静かに受け入れていた。だが、一向に死ねない。

 当然だ。

 だってそこは、人魚の世界。


 神野王が目を開けると、そこには懐かしい一人の女性が瞳には映っていた。


「藍原……加奈!?」


「神野王。久しぶりだね」


 目の前にいたのは、円らな瞳を潤わしている、寂しげな人魚。

 足はヒレになっていて、透き通るような白い肌は、まるで人魚そのものである。さらには海に濡れた美しい髪。その髪の下に見えるのは、藍原加奈の美しい形相。


「王。君は頑張った。頑張ったよ」


 藍原は王を自分の胸の中で温める。

 冷たい海の中でさえ、王は藍原の温もりを味わっている。温かく、そして円心情に漂う温もりの中で、王は泣き崩れた。


「藍原。僕は辛かったんだ。いつまで経っても僕は人間にはなれなかった。どれだけ頑張っても、人にはほど遠いかった。そして結局死のうとしても、死ぬことすらも許されない。だからもう何もかも終わらせて、何もかも破壊する悪魔にでもなってやりたかった。けど……」


「いいよ。悪魔になっていいよ。でもさ、王は人間になりたいんでしょ。なら自分の体を見てみな」


 王は海に反射する自分の姿を目の当たりにする。


「角もない。黒い殻にも覆われていない。まるで人間みたいに透き通った肌に、まるで人間みたいな柔らかい肌」


「王。君は、"人間"だ。だからそう悔やまず、お前は人として生きていけば良い。さすればきっと、君は、"世界最強の悪魔"ではなく、"人間"として、生きていける。君は人になれる器だ」


「藍原。君はどうするんだ?」


「王。私は人魚のままでいい。君と離れ離れになって寂しいけれど、それでも私はその決断に悔いをしてはいない。だから王、君は私を忘れてくれ。私を忘れることができたのなら、きっと君は楽しい人生をおくることができる」


 藍原は悲しい顔でそう言った。

 悲しみを隠しきることができないその笑顔に王は寂しさを感じ、深い海の底へ沈んでいく王へと手を伸ばす。だが藍原には届かない。

 王は天に引き寄せられるままに海から引き離された。

 王は砂浜を転がり、気づけば凍り漬けになった第九環境島の片隅に転がっていた。


「あれ……ここは?」


 王は頭を押さえつけながら、ゆっくりと立ち上がって周辺を見る。

 島へと向かってくる何隻もの船。そこから飛び出すように、早乙女とアリーゼが風に乗って王のもとへと駆け寄った。


「神野。良かった。生きていたんだね」


 脱力すたような声で神野は言った。

 それに安堵し、王は自分に優しく話しかけてくれる早乙女たちに興味津々だ。


「え……っと、君たちは、誰?」


 神野王は、記憶を失っていた。


 最初はそれに気づかなかった早乙女とアリーゼであったが、王の様子から察するに、早乙女とアリーゼは王が記憶を失っていることに気づいた。

 早乙女とアリーゼは何度も呼び掛けるも、王はボーッとしたまま動かない。


「神野。神野。神野。神野ぉぉぉぉ」


 だが返答はなし。

 神野王は、もういない。


 神野王は民間環境軍の城の一室で寝込むこととなった。

 時間をかけて思い出せば良い。

 そう医者は言った。

 だが早乙女とアリーゼは待てなかった。もう何年も待って、神野王は、復活を遂げた。だが神野王は記憶喪失。


 どんな大災害よりも、圧倒的な不条理だ。


 早乙女とアリーゼは海を眺め、考え込む。


「なあアリーゼ。お前はどう思っているんだ?神野の記憶喪失の件について」


「私はもう待てないよ。これ以上、神野がいない生活は本当に苦しいんだ」


 胸が張り裂けるような思いをしながら、早乙女は言った。


「なあ早乙女。やはり君は神野を愛しているのだな。早乙女は私にとってのライバルであるが、君は神野にはかけがえのない存在らしいな。どういうわけか、記憶を失った神野は、ずっと早乙女を見ていた」


「いいや。神野はアリーゼのことも見ていたぞ」


「いいや。早乙女を見ていた」


「いいや。アリーゼを見ていた」


「いいや、早乙女だ」


「いいや、アリーゼだ」


 アリーゼと早乙女は互いにそっぽ向いた。が、すぐに笑い合った。


「早乙女。謙遜が過ぎるぞ」


「アリーゼ。君もだよ」


 なぜか気が合う二人。

 そんな二人は見つめ合い、そして笑い合った。


「ねえアリーゼ。神野の記憶が戻るまで、私たちが全力でサポートしよ。いつかきっと、神野は戻ってきてくれるから」


「ああ。そうだな。だが早乙女、神野は渡さんぞ」


「望むところだ」


 二人は初めて互いをライバルとして受け入れ、王が眠っている寝室へと向かうーーその道中、轟音とともに、海岸には海の魔人が多数襲来していた。


「ねえ早乙女。たしかここの付近には、市民が暮らしている街があったと思うけど……」


 そんなこともつかの間、アリーゼと早乙女は海へと駆ける。

 既に海には斬花将軍やセシル中佐たちが到着していた。


「アリーゼ、早乙女。一大事だ。〈大災害〉を壊滅させようとも、どうやら魔人が途絶えることはないらしいな。全く、これだから世界とは、厳しいな」


 斬花将軍は苦笑いを浮かべ、刀を抜いて上段で構える。


「お前ら。油断はするなよ。それに一匹足りともここから先へは進ませるな」


 とは言っても、目の前には百を越える海の魔人がずらりと海の中から歩いてきている。

 蛸型の海の魔人、烏賊型の海の魔人、さらには鮫型の海の魔人までもがいる始末。


「行くぞ」


 斬花将軍は先陣を斬る。

 それに続き、セシル中佐や早乙女、アリーゼが駆け抜ける。


「民間環境軍よ。今こそ街を護る時だ」


「おう」


 民間環境軍兵士は、襲い来る海の魔人たちへと攻撃を浴びせる。


「『樹縛』」


 セシルは手に持った木の苗を操り、海の魔人の体へぬめりぬめりと絡ませた。海の魔人はたちまち動きを停止し、その魔人へ早乙女が風の槍を投げる。


「さあ、次」


 鮫型の海の魔人は、立ち尽くす斬花将軍へと足を早める。そして拳を振るい上げ、斬花将軍を殴り潰そうとするーーが、刹那の時とともに、斬花将軍を囲んでいた五匹の鮫型の海の魔人は粉々に刻まれる。


「おいおい。私に挑むのなら、もっとしぶとく耐えてみせろ。魔人ども」


 斬花将軍は素早く刀を振るい、魔人たちを次々に斬り倒していく。

 だがしかし、街では一人の男が建物を次々に破壊していた。だが、斬花将軍たちはそれを知らない。


「おやおや。こんなにも脆いとはね。だけど、僕としては雪崩を起こすのが得意だけど、カタストロの仇は撃たないとね。さあ神野王、出てこい」


 その男ーーホワイトブレイク。

 彼は"雪崩"と恐れられる。


「どうして!?〈大災害〉は壊滅したはずだろ」

「そんな、どうして〈大災害〉の生き残りがいる!?」

「あんなの、止められない」


 逃げ惑う市民たちは口々にそう言う。そんな彼らへ、ホワイトブレイクは口を開く。


「おいおい。君たちはあくまでも一般人だ。神野王をおびき寄せるための道具に過ぎない。ということで、速く神野王を出せ。そうもしなければ、今すぐこの街を壊滅させるぞ」


 ホワイトブレイクは次々に街を破壊していき、そして一人の少女の腕を掴み、自分のもとへと引き寄せた。


「神野王。十分以内に僕のもとに来なければ、この少女を殺す。さあ、速く出てこい」


 それを見ていた一人の女性は、急いで神野王が眠っている一室へと向かった。

 その部屋へつくなり、彼女は窓を突き破って硝子の割れた音で神野王を起こした。


「神野王。今すぐ起きろ」


 神野王は突然のことに驚きつつも、だらけた体を無理矢理に起こした。何が起きているのか理解はできないものの、目を擦って現実を見る。


「誰だ?」


「私はシャインだ。お前と何度も死闘を繰り広げたことのあるシャイン。なぜ覚えていない?」


「シャイン?誰だ?」


 シャインは固まるも、すぐに状況を察した。


「なるほど。記憶喪失か……」


「なあ。お前は何を言っているんだ?」


「お前は神野王だろ。世界を破壊し、世界を揺るがすほどの悪魔、神野王だろ。そんなお前が、どうしてそんな弱い声を出している?」


「神野王。誰のことを言っている?」


 今の神野王には、どれだけ熱い弁も、どんなに深い言葉も刺さらない。つまり、神野王はもう何も思い出せない。

 そんな神野王へ、シャインは言葉を投げかけ続ける。


「神野王。お前は一体何になりたかったんだよ。結局お前は、一体何に憧れてたんだよ。このままじゃ、何もかもに憧れる前に、全てが終わってしまう。街の人たちは皆、死んでしまう。だから神野、戦ってくれ。お前は民間環境軍兵士、神野王だろ」


「民間環境軍兵士?」


 それでも尚、神野王は目覚めない。

 途方に暮れたシャインは、一人でホワイトブレイクへと挑む。


「ホワイトブレイク。ここでお前を、くい止める」


 ホワイトブレイクは子供を離す。すると子供は走ってその場を後にする。

 シャインは光の矢をホワイトブレイクへと放つ。が、ホワイトブレイクはその矢を雪に変え、そして粉々に砕いた。


「さすがはホワイトブレイク。私じゃ勝てないか……」


 シャインはソードのことを思い出していた。


「妹よ。私に力を貸してくれ」


 シャインは光を纏い、彼女の手には一刀が握られていた。


「この刀で、全ての不条理を斬り裂いてやる」


 シャインは刀を強く握りしめ、ホワイトブレイクへと特攻する。だがホワイトブレイクの息を吹き掛けられ、シャインの左腕は雪となる。

 シャインは咄嗟に後方へ身を翻すも、ホワイトブレイクは逃がすまいと雪を投げる。


「『光の壁』」


 シャインは光で壁を創製する。

 雪は光の壁に当たって砕けるも、シャインは今にも砕けそうな左腕を構え、死にそうになっている。


「このままでは……左腕が死んでしまう。いや、ソードならきっと、」


 ーー私はね、たとえ命が朽ち果てようとも、最後まで戦い続けたいんだ。だってさ、今を生き抜いた者こそが、きっと英雄になれるんだから。だからシャイン、戦ってね。


「なあソード。今の私は、かっこいいか?」


「死ね。シャイン」


 ホワイトブレイクはシャインへと駆ける。

 だがシャインは大地を踏みつけ、手に握った一刀を振るう。も、それは避けられた。


「ソード。やっぱ私は、弱いよね……」


 涙をこぼすシャインへ、ホワイトブレイクの拳が炸裂ーー


「そんなことないさ、シャイン。お前が時間を稼いでくれたおかげで、僕は今ここにいる」


 神野王は復活した。

 悪魔の角などない。悪魔の翼など生えていない。

 彼にあるのはーー


「僕の恩恵は全能。つまりは、お前など敵でないということだ」

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