雨の夜
嶋丘てん
雨の夜
「オレ、雨は嫌いや」
慣れた手つきで水割りを作りながら、芳樹はつぶやいた。
「オレの人生狂ったんも、みんな雨のせいやからなあ」
僕は、しんみりとしたせりふを、まるで冗談でも言うように、おどけた調子でしゃべる芳樹を、ぼんやりとながめていた。
「中学の入学式が雨やってん。入学式やから制服は当然サラやろ。雨にぬれるのかなんかったし、おかあちゃんに『行くのやめよか』言うたら『せやなあ、めんどくさいし』やて。それでな、行かへんかってん。それからやからなあ。ほんまに狂ったんは…」
何度作っても同じ濃さになる水割りに感心しながら僕は「ふうん」と、そっけない返事をした。僕には、雨と人生が、どう関係があるのかよく分からなかったし、芳樹の手つきを見ているほうがはるかにおもしろかった。
「普通、クラス発表って、入学式の時に言わはるやろ。行かへんかったさかい、次の日、学校行ったら自分のクラスとか教室の場所とか全然わからへんでな。とりあえず職員室どこか教えてもろて、何とかわかってんけど。入学式に休んだんが、オレひとりやったらしくって、それから《入学式休んだ芳樹》言うて、上の連中に呼び出されて……入学式は休んだらあかんわ」
彼はグラスを空けながら面白おかしく話した。僕はなんとなく雨と人生の関係がわかった。水商売をしているだけに話し方がうまいなあ、とぼんやり感じた。
「それにしてもうちの母親、『入学式休もか』やて、しゃれにならんでえ」
芳樹の話がわけもなくおかしかった。僕は水割りを飲み干すと、押さえることもなく笑った。彼は空になった僕のグラスに氷を入れながら、
「そやからな、雨は嫌いやねん」
と繰り返し言った。一瞬彼の眼が寂しそうにカウンターの方を見つめたように感じ、僕は何をばか笑いなんかしているのか、少し気恥ずかしくなった。
○
ほんの三十分程前まで、容赦なく降っていた雨も、どうやら止む気配を見せ始めていた。既に深夜二時を回っているというのに、タクシーを待つ人は、いつもよりはるかに長い列を作っていた。
二次会なんかさっさと切り上げて帰ればよかった。三十メートルほど先の行列の先頭と、彼方の黒い雲間から絶え間無く降ってくる雨とを何度も見ながら、僕は折り畳みの傘の下で小さくなっていた。
こんな日に限って、タクシーはなかなか来なかった。
「ふう、雨はうっとうしいなあ」
僕は、濡れた路面に反射する街のネオンをぼんやり見つめながら、ため息混じりにひとりごちた。
「ほんまやなあ」
僕の後ろで酒の臭いをさせながら、傘もささずに立っていた男が、真っ黒な空を眺めながら相槌を打った。
かなんなあ、酔っ払いは…。そう思った僕は、聞こえなかったふりをして、再び行列の先頭に目を遣った。どうも先程から列が進んだ様子はないようだった。
「どこまで帰るん?」
予想していた通り男は僕に話しかけて来た。
「なあ、どこまで帰るねんな」
「えっ? ああ、伏見の方まで」
多少迷惑そうな顔をしながら答えると、僕は改めて男の顔を見た。髪もワイシャツもすっかり濡れそぼった男は、にこにこしながら僕を見ていた。僕は男の肩に降る雨を見やると、
「入りますか」
と言って、傘を勧めた。
「ああ、かまへん、かまへん」
「でも風邪ひきますよ」
「大丈夫、アホは風邪ひかへんって言うやろ」
男は前髪をかき上げながらそう言うと僕を制した。
「それに、もう止みそうやし」
そう言われて僕は傘の外に手を広げてみた。男の言う通り、雨はもうほんの小雨になっていた。
「なんや、ほんまやね」
傘を畳みながら僕はなれなれしく話しかけた。最初の警戒心は、いつの間にかまったくなくなっているのが自分でもわかった。
男は列から少しはみ出して先頭のほうを見るとじれったそうに、
「タクシー来いひんなあ」
と言った。
「何分ぐらいかかるかなあ」
僕は旧知の友と話をするように親しげに尋ねた。
「そやなあ、この調子やったら三,四〇分はかかるんとちゃうかなあ」
男は少し考えてからそう答えた。
「えー、そんなにー」
通りに面したビルの電光掲示板に、現在時刻が表示されていた。
「あと四〇分っていうことは、タクシーに乗るときはもう三時か…」
僕は口をとがらせてつぶやいた。ふと、二次会に行こうと誘った宮下の憎らしげに笑う顔が脳裏をかすめた。よくよく考えたら、二次会に出席していたメンバーは、みんなこの近くの連中だった。こんなことなら宮下か湯浅の部屋にでも泊めてもらえばよかった。
僕はいまさら考えても後の祭りか、と思いながら、もう一度電光掲示板に目を遣った。ただ、こんなとき学生は救われる。明日の講義はどれも出席しなくてもいいのばかりだったので、帰りが何時になってもいいのだから。
「どないしたん?」
ひとりでぶつくさとふて腐れている僕の顔を覗き込むように男が尋ねた。ついさっき、友達のように思っていた男だったが、また急にうざったく感じだしてた。
「べつに…」
そうそっけない返事をすると、僕は再び考えだした。
考えれば考えるほど宮下のことがしゃくに障った。どうやら酔いがさめてきたようだ。結局、あれだけの大人数で居酒屋に入ったのに、五〇〇〇円もの大金を払わされるはめになろうとは。にもかかわらず、ほとんど飲み食いできなかった。それもこれもみんな幹事の宮下のせいだ。宮下め、いつか見てろよ。
僕はいつの間にか宮下のことを、まるで不倶戴天の敵のように思いだしていた。
電光掲示板の時計は二時二七分になったところだった。相変わらず列はいくらも前には進んでいなかった。僕は男のほうに目を遣った。もしこの男の言う通りあと三〇分もここで待つのだったら、僕は恐らく宮下を呪い殺しかねないな、とぼんやり考えた。明日の朝宮下がベッドで冷たくなっていたら、それは僕の責任だ。僕は宮下のおかあさんに恨みのこもった目で見られ、友達連中からは白い目で見られている自分を想像した。そんなことにでもなったら、僕は恐らく三日とは生きてはいないだろう。僕が罪悪感に駆られて心労のあまり死ぬか、宮下のおかあさんに呪い殺されるか、あるいは宮下の怨念にとり憑かれて死ぬかのどれかになることは間違いなさそうだからだ。僕はとりあえず宮下のことを忘れようと努力した。しかし、僕の意に反して酔いのさめだした僕の頭は、ますます宮下のことを鮮明な映像として映し出してきていた。
「まずい!」
僕は思わず声を出していた。
「どないしたんやな」
男はさっきからぶつぶつ独り言を言う僕を不審げに見ていたらしかった。僕は男の顔と電光掲示板の時計とを見くらべると、
「どっか飲みにでも行きませんか?」
と、なんの臆面もなく言った。よくよく考えてみるとかなり強引な話だが、宮下のことを忘れるには一刻も早く飲むしかないと思ったからだ。ただ、とは言うものの、滅多に夜の市内なんて出歩かない僕には、飲みに行くところなんてわかろうはずもない。そこで、別におかしなところもない、そこそこ好感の持てるこの青年に白羽の矢が立ったというわけだ。
「えっ?」
予想通り男は驚いたような反応をした。ここで引っ込んでしまったら、三日後の三面記事の紙面を僕が飾ることになってしまう。僕は意を決して再度挑むことにした。
「いやね、だから飲みにでも行きませんかって」
「うん、いいけど」
まあ答えはノーだろうと思っていたが、男は案外あっさり答えた。
「じゃあどこ行く?」
男ががぜん乗り気になってくれたことには救われたが、いかんせん僕はまったく飲みに行くところを知らなかった。
「うーん、どこにしようか?」
自分から切り出しておいて逆に聞くなんて、なんだかおかしいな、と思いながらも僕は完全に相手に主導権を譲り渡していた。
○
それが芳樹との出会いだった。彼の働いているというスナックは、もうすっかり明かりも消えていた。店のほの暗い明かりの下でふたりで飲むのは、なんだか不思議な感覚だった。時計を持ち合わせていなかったので、タクシー乗り場からどれくらいの時間が過ぎたのか正確にはわからないが、恐らく、ほんの一時間ほど前のことに過ぎないだろう。
「もうボトル空いたな」
芳樹は空き瓶を手にしながらつぶやいた。
「勝浩、なんか飲みたい酒あるか」
カウンターの中へ入ると空き瓶を降ろしながら彼は僕の顔を覗き込んだ。
「えー、酒の種類なんてわからへん。うーんと、そしたらそこに並んでるやつ」
僕は薄暗いライトの下で輝いているボトルの列を指さした。ボトルの中の酒は、どれひとつとして同じ量のものはなかった。
「んー、ヘネシーかいな」
芳樹は同じボトルの中から一本取ると、カウンターの上に置いた。
「そんなん勝手に飲んでもええの?」
「うん? ほんまはあんかねんけどな」
そう言いながらすでに水割りを作りだしている芳樹を見ながら、僕は財布の中身を気にしていた。
まずい人と飲みだしてしまった。僕は最後になって大金を請求されるのではないかと気が気ではなかった。
「はい」
相変わらずの見事な手並みで出された水割りをじっと見つめると、僕はもうどうにでもなれと言った心境でグラスに手を伸ばした。
「中学卒業してから、幾つか仕事したけど、ここの仕事が一番おおてるような気がする」
芳樹は自分の分も作ると、マドラーでグラスのなかで小気味よい音をたてる氷をもてあそびながら言った。店のほの暗さと、芳樹の口調が肌寒いぐらいにあっているような気がした。
「今までどんな仕事してたん?」
「喫茶店とかマクドナルドとか・・・・飲食関係がほとんどやったなあ」
なんとなくマクドナルドで働く芳樹の姿が容易に想像できた。
「でもサービス業って神経使いそうやなあ」
僕は以前居酒屋でバイトをしていたときのことを思い出した。僕のグラスは半分ぐらい空いていたが、芳樹のグラスはもうすでに飲み干されていた。芳樹は客の酒を平気で空けると、先程と変わらない手つきで自分のグラスに水割りを作り、僕のグラスに着いた水滴をハンカチでふき取った。
「うん、普通の人やったらそうかもしれんなあ。でも、オレは神経使わんでも本能的にやってるっていう感じやなあ」
「そういうのって、なんかいいなあ」
そう言われてみると、自分は片意地張ってばかりでなんて疲れる生き方なんだろう、と自分の身の回りのことが脳裏をかすめた。
「お前、大学で何してんねんな」
突然の話の展開に僕は一瞬間たじろいだ。
「えっ? ああ、べつにこれといってしてないなあ。講義もそんなに言うほど出てないし。ふう、こんなことしてたら今年も留年かもわからへんなあ」
酔ってるな、自分でもそう思った。滅多にこんなこと人に話さないはずなのに…。僕は芳樹の話術にこういうところの営業を見るような感じがした。
「でも学校は行っといたほうがええで。オレなんか、高校の退学届、母親に持って行かれて…信じられへんやろ。もっとも、ごっつうやんちゃしてたからやねんけどな」
「ふうん」
僕には母親が退学届を出しに行ったなんてなかなか信じられないことだった。でも、水割りを作る芳樹の手にちょうど煙草の火ほどのやけどの後があるのを見て、母親の行動になんとなく納得した。
芳樹の酒のペースはかなり早かった。僕も負けじと飲んではいたが、彼には到底及びそうにもなかった。
「お前、夢なんかあんのけ」
酔っ払いは話のテンポが速いとはよく言うが、今の芳樹がちょうどそんな感じだろうなあと思った。
「うーん、なんかすごく漠然としたもんやけど、小説家になれたらなあ、なんて思ってんねけどね」
芳樹に対して酔っ払いなんて思っていながら自分も飲み過ぎてることを改めて感じた。僕はこんなことを赤の他人に話したりはしないと普段自分では思っていたのだから。
「へえ、ごっつい夢やなあ。誰か好きな作家でもいてるんか」
芳樹の質問攻めは、止まる所を知らなかった。
「うーんと…宮本輝、かなあ」
「ふうん、そんな人聞いたことないなあ」
「ええっ、ほら、川三部作とか『優駿』とか…コーヒーのコマーシャルにでてる人やん」
なぜか僕はむきになっていた。そんな僕のことを察したのだろうか、芳樹は、
「ああ、そういえば…なんとなく覚えてるような気もせんでもないような…」
と言って話を合わせようとしているのが見て取れた。これ以上自分の趣味の話を続けてもきっと芳樹には理解できないだろうし、僕も芳樹のことをもっといろいろ聞きたかった。
「ところで、芳樹はなんか夢あるの?」
今まで聞く立場だった芳樹は急に聞き返してこられたことに、多少戸惑っているようだった。僕は芳樹の顔を覗き込むように見ていたが、芳樹はまるではぐらかすように僕のグラスにブランデーを注ぐと、今までと違ってゆっくりと水割りを作った。
なんだ、何に対しても物おじしないように見える芳樹も、結構シャイなところもあるんだ。僕は彼のもっとも人間らしい一面を見たようでほほえましく思った。
「オレはどんな店でもええけど、とりあえずオーナーになりたいねん」
意を決したように口火を切った芳樹は、あとはただ憑かれたように話した。
「高校中退したときから決めててん。それぐらいかなあ、家でも何にも言われへんようになったんは。ただ、二十歳になったら家を出ていけって言われてた。それでかな、祇園みたいなとこで働くようになったんは。でもな、いつまでも使われてるのいややん。だからいつか店持ったんねん」
芳樹の目はいつしか真剣になっていた。
「これが良かったのか悪かったのかは今でもわからへん。…けどな勝浩、勝浩なんかにはわからへんかもしれんけど、オレ別に悪いことしてるとは思ってないし…」
僕は決してそんなことは思っていなかった。でも芳樹のその言葉の裏に、きっと僕の想像を上回るような経験をして来ているんだろうなあ、と感じた。結局、何事も他人事のように感じてしまう。芳樹の親とのいきさつや、今の仕事のこと、僕は何ひとつわかってはいないんだろう。そんな自分がはがゆかった。
「この仕事をしている人の大半は寂しがりやが多いねん」
そう言うと、芳樹はグラスを片付け出した。いつの間にかボトルが底をついていた。
芳樹は金を取らなかった。僕にとってはありがたかったが、なんだか悪い気がしていたたまれなかった。芳樹に促されて外にでると、朝日が濡れた地面に照りつけていた。
もう電車も走っているだろう。今度また飲みにおいでと言ってくれた芳樹と別れると、僕はまぶしさと暑さで溶けそうになりながら駅へと向かった。僕にとってはなんだか不思議な時間だった。ホームへ降りる階段をわけもなく駆け降りていった。風がひんやりと心地よかった。どうやら今日も暑くなりそうな、そんな気がした。
雨の夜 嶋丘てん @CQcumber
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