55
遠月 泉
第1話
今日、母が死んだ。
母が僕を産んで20年。
まだ僕は生きている。
末期癌だったそうだ。
母が死ぬ十日前に、親父から聞いた。
最初は何を言っているのかわからなかった。
わかりたくなかった。
でも、それが現実だった。
まだ死んでない僕は、これから何年、何十年生きるかもしれない。
少しづつ母の歳に追いついて、追い越して、やがては、死ぬ。
もしかしたら、事故とか、急な発作で、明日にも死ぬかもしれない。
人間なんてそんなもんだ。
死ぬ時は酷く呆気ない。
でも、せめて死ぬまでは、母のように優しい人でありたいと思った。
今日、僕は少しだけ、大人に近づいた。
まずは、親父を許そうと思う。
朝から晩まで、パチンコに行って、家にほとんどいなかった親父だけど、先月くらいから、家にいるようになった。今まで母がしていた家事や、うちの食堂も、親父がやるようになった。
クズでどうしようもない親父だけど、母が死ぬ時は、泣いてた。
今更どうにもならないのに、目を真っ赤にして、赤子みたいに泣いてた。
ごめん、ごめんと、数えきれないほど言っていた。
それを見て、母は笑っていた。
だから僕も許そうと思う。
母が許したんだから。
次に、妥協だけはしないと決めた。
中学生、母からの誕生日プレゼントだったギター。何年も押し入れにしまってたせいで、埃を被ってた。久しぶりに好きだったあの曲を弾いたら、音がズレてて、酷い出来だった。
でも、楽しかった。
馬鹿な僕は、才能がないなんて当たり前のことを知って、すぐに辞めてしまった。
今更になって、初めて僕のギターを聴いた親父が、笑っていた。
親父の昔の夢はミュージシャンだった。
顔は似なかったのに、そんなとこは似てた。
繋がりが薄かっただけに、ちょっとだけ嬉しかった。
母に、もう一度だけ聞かせてあげたかった。
今度は、僕だけじゃなく、親父も一緒に。
一度決めた事くらい、守れる人になりたいと思った。
死にたくない。
母の最後の言葉だった。
何か言ってやれば良かったのに、親父も、僕も、言葉が出なかった。
何も言えず、二人で泣きながら、ベッドで寝る母を抱きしめた。
いつも母は、僕らを抱きしめてくれた。
いつ死ぬか分からないから、後悔しないようにハグをするんだと言っていた。
子供じゃないけれど、大人にもなれない僕は、恥ずかしくて、照れ臭くて、嫌がった。
ハグくらい、もっとしておけば良かった。
葬式の途中、僕はずっと泣いてた。
親父もだ。
枯れるくらい、泣いた。
今日が人生最後の日なんじゃないかってくらい泣いた。
でも、まだ僕らの人生は終わらない。
いつか、今日の不細工な僕らの顔を思い出して、二人で酒を飲みながら笑える日が来たら、きっとそれは、僕が大人になった時だ。
母の病室の机に、一通の手紙が置いてあった。
僕と親父に向けたものだった。
生きる限り、悩みは増えるし、不安は絶えません。でも、出会いも増え続けていく。
一人で生きてると思う日もあるかもしれない。
でも、絶対に独りじゃないから。
二人はもっと生きて、もっと人生を楽しんでから、会いに来て。
自分が死ぬと知ってから、心配になるのは二人のことだけです。私が死んで、悲しんでくれたら嬉しいけど、できれば笑っていてください。
それなら、きっと、幸せです。
手紙にはそう書かれていた。
死にたくないと思うのも、僕が大人になった証なのかもしれない。
時間が経てば、きっとこの悲しみは癒える。
でも、なくなる訳じゃない。
生き続けるんだ。
僕の中で。
喜びも、悲しみも、全ての出会い、別れを通して僕らは大人になっていく。
僕の人生は、僕のものだ。
導いていくのは、僕自身でしかないんだから。
今日、母が死んだ。
でも、まだ僕は生きていく。
僕の人生を、生き続けていく。
55 遠月 泉 @irakusa101
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