【2】喧騒の廊下から #3
キ号の質問を、土生はそのときは否定した。
狂気に呑まれている網場ではあったが、いくらなんでもそこまでは、と。
ただ、どうしてもその言葉が引っかかり、研究所の冷凍室を密かに調べてみた。
すると魚のまま死んだ五人の遺体も、それ以前に助けきれずに死んだ夫辺人の……彼の希望で検体となったはずの遺体も、それらが格納されているはずの容れ物はすべて空だったのだ。
その時から土生は、研究所の外に新たな拠点を作り始めた。
現金化できる資産、服や食料、その他、身を守れそうなものを隠したマンションの一室。
その『秘密基地』は、ラ号にだけ教えた。
レ号は明日架に教えてしまう恐れがある。
フ号は少し脅されたらすぐにしゃべってしまう。
キ号とミ号は……現時点ではまだ信用しきれなくて。
ラ号には、ヒーローだけの秘密基地だと教えた。
ラ号が信用し、共にヒーローとして活動できる信念を持った者以外には、例え親兄弟であったも教えてはいけないと。
土生は急いで病院の駐車場に停めていた車へと戻る。
車の中ではラ号がおとなしく今日買ったばかりの本を読んでいた。
「ラ号。こないだ連れて行った秘密の家、覚えているかい?」
「隠れ家のことか? 覚えているぞ」
「あそこまで一人で行けるかい?」
「泳いでいいか?」
「なるべく変身しないで、行ってもらいたいんだ」
土生はラ号の手に、鍵を手渡し、握らせる。
「冷蔵庫には……海鮮丼はないけれど、食べ物も用意してある。それがなくなったら、今日の本のように買い物をして手に入れるんだよ。秘密の隠れ家には、お金や、変身で破けてしまったときの替えの服も用意してあるから」
「前に言っていた秘密ミッションってやつだな?」
「そうだ」
「仲間を探すんだよな? ずっとずっと信用できるってやつを」
「さすがラ号だ。では気をつけることは?」
「人の話を聞こうとしないやつとは責任を分けるな。保身のために嘘をつくやつは信用するな。優しさの裏に隠れている利害を見抜け。それから、ヒーローは安易に正体を知られるな」
「よしよし。もう、心配ないな……人が一人で生きてゆくのは難しい。お互いが弱ったときに支え合えるような、そんな素敵な仲間を見つけるんだぞ」
「まかせとけ!」
病院の入り口でラ号と別れ、研究所へと車を走らせる土生は、遠い昔のことを思い出していた。
土生がかつて網場から逃げたことを。
もしもあのとき彼が逃げ出さなければ、網場は人の道を踏み外さなかったかもしれない。
だから網場からの『逃げろ』という言葉には従わず、研究所へと向かったのだった。
事務所兼土生の住居と、研究所とは重厚な金属扉で隔たれている。
扉の向こうにはまず無機質な長い廊下。
廊下の南側は冷凍倉庫と、五人の子らが人間の姿で利用するためのプレイルームとへつながるドア。
そして北側中央のドアからは大水槽の部屋へとつながっている。
大水槽の部屋は、この施設内で最も大きな部屋だ。
床も壁も高い天井もすべて明るい水色で塗られ、広さ六畳ほどの大水槽が部屋の中央に二つも配置され、一見すると水族館かと見まごうほどの大部屋。
その水槽の前に、ミ号とキ号、それから網場が居た。
そこで土生は、自分の想像以上の現実に直面した。
「な、なぜ戻った……逃げろっ! 早くっ!」
そう叫んだ網場は、清掃に使う長いホースで縛られ、体の自由を奪われている。
しかし土生は足が震えて動けないでいた。
ミ号は頭だけホオジロザメへと変身し、明日香の胴を貪り喰っていたのだ。
ミ号の口からはみ出ている明日香の下半身は、ミ号が咀嚼するたびにゆらゆらと力なく揺れている。
明日香の上半身はすでにほとんど残っておらず、わずかに残った頭部を、キ号が両手でボールのようにくるくると弄んでいた。
その足元には、レ号とフ号の頭が転がっている。
あまりにも衝撃的で凄惨な光景。
クチャクチャと口を動かしていたミ号は、今度は網場の腹へと咬み付き、その中身を床へぶちまけ、それから頭を人へと戻した。
キ号は、手に持っていた明日香の頭を、もはや動かなくなってしまった明日香の下半身の横へ無造作に放る。
網場はまだ息があるが出血量が多い。
「……どうして?」
土生の、最初に動かせた身体部位は口だった。
その口から最初に出た言葉に対し、人の姿を保ったままのキ号が淡々と答える。
「土生先生は因果応報という言葉を教えてくれた。この二人は、キ号たちの兄弟を殺し、キ号たちを成長させるための薬を作った。キ号たちが栄養剤として与えられていた食事がそれだ。他者を殺し食べられることを受け入れさせるのであれば、自分たちが殺されて食べられることも受け入れるべきだ」
その言葉を聞いた土生は、キ号と自分たちとの仲はもう修復できない域にまで達していることを思い知る。
網場と明日架の非人道的な所業を、今更「気付かなかった」で済ますつもりはない。
彼らを止められなかった時点で、いやそもそも網場がこの研究を始めたきっかけを考えれば、自分も同罪であるとは考えから。
「そうだな。君らにはその権利がある」
そう答えた土生の方へ、ミ号はゆっくりと歩き始めた。
湿り気の残る赤い足跡を増やしながら。
ミ号は土生の前で立ち止まる。
土生が唾を飲み込む音が、静かな大空間に響く。
「でもさ。美味しくないんだね、人間って。明日香もそんなに美味しくなかったし、レ号やフ号の方がずっとずっと美味しかった」
死を覚悟した直後、その死が回避されたことを知った瞬間に訪れる安堵は麻薬のようだ。
崇高な意志で一度は受け入れた死から、逃れられるかもしれないという甘美な可能性を見つけてしまったことで、土生の内なる勇気はみるみるうちに腐食してゆく。
いつの間にか落ち着いていた脚に、震えが戻ってくる。
「でさ。ラ号はどこ? すぐに会わせて……でないと」
ミ号はその頭部を、再びホオジロザメへと変えた。
しかし土生はキッと閉じた口を開けようとはしない。
ミ号たちが網場父娘に対して行った行為、この現場を、少なくとも今はラ号には見せたくはなかった。
五人の生き残りの中で唯一、ラ号だけが他人の痛みを感じることができ、勇気があり、正義の理念を理解し寄り添ってくれた。
しかし正義とは危ういものだ。
復讐や、裏切りに出遭った正義は、闇に呑まれる恐れがある。
特に、頼れる者を他に持たないときには。
今はまだダメだ……他に、ラ号を支えられる者に、ラ号が出遭えるまでは……。
「ラ号のことも……食うつもりか?」
土生は不思議と腹が座っていた。
恐怖よりも、ラ号を守りたい気持ちが勝ったから。
だん、と床を踏み鳴らしながらミ号は頭を人へと、怒りの形相へと変える。
「はぁ? んなわけないでしょ。ラ号は私と結婚するんだから」
「君らには、私達へ復讐する権利がある。しかし、その権利を殺人という方法で行使した君たちを、ラ号は許しはしないだろう。君たちは方法を誤った……どうしてその選択肢を選んだのか。他の選択肢を選べるだけの教育を」
したつもりだったのに、と言い切る前に、土生の体は後ろへと飛ばされた。
痛みに耐えながら目を開いた土生には、自分に向かって無造作に脚を突き出しているミ号と、腸を引きずりながらもミ号に向かって走る網場の姿が見えた。
「土生は関係ない! あいつは知らなかったんだ!」
そう叫びながら突進する網場の頭をわしづかみにしたミ号は、不機嫌そうに投げ捨てようとした。
しかし、網場は必死にミ号の腕にしがみつく。
「逃げろっ!」
網場の、最期の言葉となったその一言に、土生は従った。
まずはここを離れて、ラ号の所へ。
扉を開けて廊下を走り、その後は、遠い遠い場所へ……とりあえず、逃げて。
そこまで考えたとき、土生は右肩に熱い痛みを感じた。
そこが研究所と事務所とを隔てる重たい金属扉の手前だった。
「宇智也っ! 宇智也っ!」
宇智也が目を開いたとき、敬子が心配そうな顔で覗き込んでいた。
すぐに起き上がろうとした宇智也は、床についた右手に凄まじい痛みを覚えて、うずくまる。
血の中に居る自分を確認し、土生がもう既に亡くなっていることにも気付く。
「なに? 右手、怪我したの?」
敬子が宇智也の右手に触れる。
それから不機嫌さと安堵が混ざった複雑な表情で言った。
「なによ。あなた怪我していないじゃない」
その言葉を、宇智也は前にも聞いたことがあった。
彼が自らが持つ不思議な能力について、初めて強く自覚したその日に聞いた言葉だったから。
宇智也は、その能力を意識するまでは、実際に声が聞こえているのだと思っていた。
体育の授業中に接触した友人の声で『痛ぇ』とか『今の俺、悪くないよな』などと聞こえたとき、その声が本当は友人の発したものではなく、友人が心の中で思った言葉だったとは気づけなかったし、それに対し宇智也が謝罪の言葉を口にしても、誰も違和感は覚えなかった。
しかしその後、宇智也の周囲で怪我をする人が増え、なぜかその血に触れる機会の多かった彼が、確かに聞いたはずの言葉について、口にしていないと否定されることが続き、彼は自分がどこかおかしいと思い始めた。
事件が起きたのは、宇智也が小学四年生になってすぐのとある体育の時間。
授業中、具合が悪くなった友人を、保健室まで連れてゆく途中のこと。
保健室へと向かう一階の長い廊下。
宇智也たちの前に立ち塞がった若い男の両手には包丁が握られていた。
男は薄ら笑いを浮かべたまま、状況を飲み込めず立ち尽くす宇智也へ包丁を振り下ろす。
宇智也は気がつくと廊下に倒れていて、友人……
急激な痛みを腹部に覚えていた宇智也は、逃げることもできずその場にうずくまってしまう。
このまま死ぬのかな……そんなことを考えた宇智也の耳に、信の声が聞こえた。
でも宇智也と一緒だったら、それでもいいかな。
しかし信の声は次第に遠のいて行き、大きなうめき声にかき消された。
うめき声の主は、あの若い男。
顔を抑え、のたうっているのが、スカートを履いた女子の脚ごしに見えた。
振り向いた女子は、見知らぬ顔、だが綺麗な……栗色の瞳。
女子は慌てて信に駆け寄り、その後、宇智也が押さえている腹部に触れた。
宇智也はその時、女子に言われたことを覚えていた。
「なによ。あなた怪我していないじゃない」
古い記憶と現実とが交差する中で、宇智也はあの日見たのと同じ瞳を、目の前に見つけた。
●主な登場人物
・
臨海学校に向かう途中のバスで事故に遭った高校一年生。
『土生海洋資源研究所』の中で血溜まりの中に手をつき、傍らに倒れている老人(土生)の走馬灯を見た。
・
小さい頃から人魚に会いたかった海洋学者。
網場の暴走を止めるため『土生海洋資源研究所』の所長として、ラ号たちを育てたが、ミ号に殺された。
・
土生の幼馴染。地元有力者の次男で、医者。
借金の肩代わりを条件に妻にした女に、夫辺人の子を出産させ、明日架を誕生させた。
ミ号とキ号に殺された。
・
網場典斎の戸籍上の娘だが、その父親は実は夫辺人。医者。
夫辺人の冷凍精子を使用して妊娠し、四十八つ子を産んだ。
どこかの海神を祀る宗教的な集団へ、生き残りの五つ子を合流させたがっていたが、ミ号とキ号に殺された。
・
アメリカ人の父より『Deep Ones』の呪いを受け継いだハーフ。母は日本人。
その呪いは既に「発症」しており、外観が半魚半人の様相に。
精神的なストレスにより「発作」が起きると、周囲に対してとても攻撃的になる。
既に死亡している。
・
網場明日架の四十八つ子の中から生き残った十七番目の男子。魚の姿はハマトビウオ。
マイペースで、海への回帰の想いが強く、明日架に懐いていたが、ミ号とキ号に殺された。
・
網場明日架の四十八つ子の中から生き残った二十二番目の女子。魚の姿はイシダイだが、兄弟の中では唯一、様々な魚に変身できる。
変身後の魚種はコントロールできていない。土生との外出後、フ号を探しているうちに宇智也達と出会った。
現在はミ号と戦闘中。
・
網場明日架の四十八つ子の中から生き残った三十二番目の男子。魚の姿はマハゼ。
臆病で、周囲の兄弟たちの様子をうかがってばかりいた。
研究所の外でバス事故の原因となった後は行方不明だったが、研究所内にてレ号と共に生首が発見された。
・
網場明日架の四十八つ子の中から生き残った三十八番目の男子。魚の姿はロングノーズデンキナマズ。
感情を表に出さず、道具の仕組みを理解するのが好き。
自分を成長させた「栄養剤」の原材料が自分の祖父や兄弟だと気づき、反旗を翻した。
・
網場明日架の四十八つ子の中から生き残った四十一番目の女子。魚の姿はホオジロザメ。
強さへの執着がある。キ号と共に明日架、網場、土生を殺した。
レ号やフ号を食い、人間は不味いと言い放った。
・
宇智也が小四のときのクラスメイト。
学校内に侵入した男に襲われた際、宇智也をかばって倒れる。
・謎の少女
宇智也と信が学校で怪しい男に襲われたとき、駆けつけて男を倒した。
栗色の瞳を持つ美少女。
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