第78話 選択肢
恋なんてものは、ただの錯覚だ。
だから、レオンはこの感情を押し殺すことにした。
ただ漆黒の空に瞬く星を見上げただけで、あの瞳が思い出され、やるせなく胸が締め付けつられるこのやっかいな病が、そう長続きするものではないことを知る程度には、レオンは大人だった。
そうそういつまでも、無駄なドーパミンは垂れ流されない。いずれ悟りに達した脳は、徐々に放出量を減少させ、俺はもとの落ち着きを取り戻すに違いないのだ。
それまでの辛抱である。
敗国の間諜と、戦勝国の美しい令嬢。
物語ならば、至極甘ったるい展開が期待できる設定だが、現実はそう甘くない。
そもそも俺には、それを望む資格がない。
ロウブリッターとして近くにいた時、俺は孤独な彼女に、手を差し伸べなかった。今さら、あの光の隣に立つ資格などあるものか。
彼女には、平坦で穏やかな道で、幸福を得てほしい――そう思って、潔く身を引いた。それなのに、
――なんっだあいつは……っ!
思い出すと、レオンはまたイライラとしてきた。
ガーデンパーティで国務卿の背後に立ち、仮面の下からさりげなく見たリリアーナは、胸のうちに大切に鍵を掛けた記憶を遥かに上回り、花の精もかくやという可憐さだった。
あの細い腰を引き寄せ、白い指を絡めとり、薔薇色に透ける滑らかな頬に口づけを這わせられたなら、どんなにか幸福だろうと思った。まあ、それはいい。
問題は、その隣だ。
レクター・ウェインのやつが、へらへらとやに下がっていやがったことである。
冷血欠陥人間のくせして、爵位もない平民のくせして、リリアーナと婚約?
俺は、彼女の幸福だけを願い、見ず知らずの温厚完璧貴公子に譲ろうと思ったわけである。レクター・ウェイン? 冗談じゃない。俺の方が百倍マシだ。
というか、史上最悪のサイコ野郎のくせに! ふつうは身を引かないか? あの男には良識ってものがない!!
それもこれも――とレオンは激しく後悔している。
あの時、もっと痛めつけてやるべきだったのだ。紙きれのようにぺったんこにして、さらに砂粒となって地面と同化するまで、この足で踏んづけてやるべきだった……!――常識ある大人を自負するレオンはここ最近、常々そう思っていた。
「レクター・ウェインに、知らせた方がいいね」
だから、胸の前で腕を組んだアナベルがごく自然にそう口にしたとき、レオンはうんざりと天井を仰いだ。
「えええ……この情報のお陰で
思いっきり、嫌そうな声になった。
ここ、ハーバルランド外交官室では、腹話術人形のようにぺらぺらと喋り終えた
オウミにさんざん撫でられた男の顔からは、血の気がすっかり失せ真っ白だ。
汚れた手を綺麗に洗ってきたオウミが、こっちを見て笑う。
「ははは、気持ちはわかるけどさ、早く教えてやった方がいい。
「金持ちに」のところで指先を擦り合わせたオウミの説明を聞き、もちろん、俺のイライラはいや増す。
「趣味悪いぞ。その制服」
よりにもよって、
「白か浅葱にしろよ。どっちもダサいが、それよりはマシだ」
言われたオウミは制服を見下ろし、満足げに微笑んだ。
「いいや、黒がいいね。だってほら、あんなにしたのに、汚れがぜんぜん目立ってない」
「……そもそも、どうやって知らせる? のこのこ会いに行くのか?」
「まさかぁ。投げ文とかでいいんじゃない?」
茶化すオウミに、アナベルがしらっと言う。
「そこら辺を歩いてる衛兵か侍女にでも、言付ければいい」
軽く肩を竦めて、俺は
「おっさん、お疲れさん。訊かれたことに、上手に答えられたな。偉かったぞ。ご褒美に選ばせてやろう」
まだ触れてもいないのに、
「……わ、悪かった……ゆ、許し――」
「見ての通り、俺たちは急いでいる。仲間がピンチ……かも、しれないかもしれないんだ。おっさんは本当にラッキーだ。手早く済ませよう」
「頼む、お前らのことは、黙っておくから――」
「無闇に赤いものが飛び散ったり、泣き叫んで近隣に迷惑をかけるのは、互いに望むところじゃない。二択にしよう。一、首の骨を折られて即死。二、浴槽に突っ込まれて溺死。さ、どっちにする?」
指を二本立てる。どっちもそう悪くない提案だと思うのに、側近は血走った目を見開き、「ひい……っ」と全身を強張らせた。
「た、頼む……っ!? 金輪際、足を洗う! 王都を離れて、ひっそり暮らす! だ、だから……っ!」
「一、を選べば楽に終われる。二、の場合はほんの数分長生きできる。でもまあ、おすすめは一だ。ここにいる誰しもにとって、一番、手っ取り早い」
にっこり笑う。終わりに気付いたのか、男の身体はがくがくと震え始めた。
その様子があまりにも哀れっぽいので、ふと心配になる。弱いもの苛めを嫌うアナベルが、止めに入って来るんじゃないかと思ったが、興味なさそうに涼しい顔でオウミと喋っている。
「でさ、船に戻る前に『ブルームーン』寄ってっていい? 俺さぁ、
「生はないだろうけど、コンポートがあるんじゃない? チーズケーキとかに入ってるやつ」
アナベルの正義感の強さは折り紙つきだが、この男はその対象に値しないらしい。
念のため、神経を研ぎ澄ます。ドアの外は静まり返り、人の気配はない。
これなら、少しくらい音を立てても平気だろう。
目の前の男は、ガタガタ震えているばっかりで返事をしない。折角、選ばせてやったのに。俺は面倒になってくる。
「俺はどっちかって言うと、甘いものより酒のあてが恋しくなるけどなぁ」
オウミたちの会話に横から加わりながら、男の首に手を伸ばす。とっとと折ってしまおう。
見開かれた男の目は真っ赤に滲み、まるで柘榴の色だ――――その時、
コツコツ、
――誰もいないはずの外側から、ドアがノックされた。
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