第60話 絵心(レクター・ウェイン視点)

 かりかり。

 紙の上をペンが走る音が、ロンサール邸の静かな図書室に響く。


「…………」


 屋敷に戻ったリリアーナは、メイドにお茶の用意だけ頼むと、図書室に足を向けた。

 白い紙を一枚、ぴらりと文机の上に広げ、手に取ったペンを頬に当て、何か考え込む素振りを見せた後、手を動かしはじめた。

 それっきり無言のまま、かれこれ半時間ほどが経つ。


 紅茶を淹れ終わったメイドは、気を遣ったのかすぐに図書室を出て行った。湯気の揺れる青い薔薇模様のカップが、皿の上でかちりと硬質な音を立てる。


「――令嬢? 思いついたこと、というのは? 一体……」


 そっと静かに問いかけると、リリアーナは顏を上げる。よほど真剣に書いているのだろう、頬はほんのり上気している。


「お待たせしてごめんなさい。描き上げたら、ちゃんと説明いたしますから」


 申し訳なさそうに眉尻を下げられて、俺は慌てて首を振る。


「いえ! 俺のことは気になさらず。こうしてゆっくりするのも、悪くありません」


 実際、リリアーナが何かに熱中する様は、見ていて飽きない。細い眉をぎゅっと寄せ、薔薇色の唇はぎゅっと閉じている。はっきり言って、とても愛らしい。ずっと眺めていたい。ほんの少しくらい謎の行動があろうと、それが何だ。


 それからは邪魔しないよう、黙って見守ることにした。

 ほどなくして、リリアーナはペンを置いた。満足げに息を吐くと、俺に天使の笑みを向ける。


「完成ですか?」


 穏やかに問うと、リリアーナは大きく頷いた。


「はい! 完璧です! いかがです!?」


 ぱんぱかぱーん! と効果音が響きそうな勢いで、リリアーナは紙の上下を両手で握って、俺の目の前に広げた。


「…………っ…………これは……!?」


 絶句した俺に、キラキラした瞳が問いかけてくる――「いかがです?」と。


「……え、ええっっと……?」


 人物画である。

 楕円形の中に、目と眉と口と鼻。楕円形の上に髪の毛。両脇に耳らしきもの。


 そしてそれは、非常に残念なことに、誠に言い難いことではあるが……お世辞にも……子どもの落書き……的な?


 へ――で始まる二文字が浮かび、否! と即時、内心で振り払う。

 こういう時は、己を顧みるのだ。

 俺は……芸術への造形など無に等しい。絵画史への理解も足りない。そんな絵心の何かも知らぬ己に、芸術の優劣をジャッジする資格があるだろうか、いや、ない。人の作品に対して批判的な態度を取るなど、もっての外じゃないか。


「ええと――」


「さきほどお会いした、マーク・エッケナーさんの似顔絵です! いかがです?」


 思い切り目を細め、俺は彼女に優しく微笑みかける。


「ああ、なるほど」


 ――うん。


 ……うん?


 ここで一度、半生を振り返ってみよう。

 性格のひん曲がった兄たちに生贄の如く差し出され、十二で戦場に出た。そこから続く、剣の道。『変わり者騎士』『人と置き物の区別がつかない』そう評される人生。


 ――それ故か……?


 ――婚約者が、デートを中断し描いた他の男の似顔絵(しかも上手くない)を見せられた際の正しい反応の仕方が、……分からない。


 目の前では、命よりも大切な婚約者が、一言も聞き漏らすまいという勢いで俺を見上げている。零れ落ちそうな大きな瞳は、期待に満ち満ちて煌めく。


「……え、ええと……う上手く、特徴を捉えて、いらっしゃいますね……非常に……その、崇高な……芸術のきざはしを、まさに今、駆け上らんとする、ペガサスのように、繊細でいてダイナミックな、ファンタジーを感じます。はい」


 言っている自分でも意味が分からない。途端、リリアーナは目をまあるく見開いて、似顔絵から離した左手で口元を覆った。ぎくり、と額と掌に冷たい汗が滲む。


「まあ……っ!」


 ひやり、と背中が冷える。しまった――「才能がおありです。ルノワールも真っ青でしょう」くらいのことは爽やかに言ってのけるべきだった。


「そっ、そうですかね? 絵心はないのですが、一生懸命描きました。特にこの、耳の感じですとか、眦の雰囲気もちょっと苦労したんですけれど」


 しかし、頬に手を当てたリリアーナは嬉しそうである。良かった。ほっとした。外さなかったらしい。うん、良かった。はい――


 ――それが何!?


 などと言えないのが、惚れた弱みである。

 えへへ、と互いに目を細めて頷き合う。まいっか、今日も世界は美しいし。


「それでですねぇ――」


 とリリアーナは似顔絵を机に置いた。両手をぱちんと軽く合わせてから、文机に置かれた本に手を伸ばす。

 どうやら、続きがあったらしい――ほっとして息をつく。


 栞を挟んだ部分を、細い指がぺらりと開く。その項には、様々なタイプの人間の顔があった。そして、その顔の上を埋め尽くす、点と線、説明書き。


「…………これは? 顔相学……ですか?」


 はい、と謎多き天使は頷く。


「最近、読み込んでおりましたの。社交界で、人の顏を早く覚えられるようにと思いまして。――まあ、それでですね、このページにありますように、ここをこうして、こうすると……」


 小さな手に握ったペンで、さきほどのマーク・エッケナーの似顔絵に、今度は迷いなく線を書き足してゆく。


「……とても、よく似ていらっしゃると、思われませんか?」


 さっきよりも頬をふっくらさせた、マーク・エッケナーの似顔絵。

 ふんわりしたくせ髪。つんと尖った眦。耳の形。


「図書館でに初めてお会いしたとき、わたし、知り合いの誰かにそっくりだと思いました。でも、自分には屋敷の外に知り合いなんていない。いないはず――そう思ってしまって、咄嗟には思い出せませんでした。それで、シュークリームとそっくりだなんて……」


 失礼ですよねえ――と彼女は恥ずかしそうに笑ってから続ける。その横で瞬きもせず、俺は本と絵をせわしなく見比べる。


 まさか――――。


「その後も、ずっと思い出せませんでしたの。でも、ディクソン公爵様に何度かお会いするうち『やっぱり誰かに似ている』と思いました。

 はっきり確信したのは、歌劇場でディクソン公爵様の横顔を拝見した時ですわ。耳の形がそっくりでしょう? 近いうちにマークさんともう一度お会いして、確かめたかったんです。ウェイン卿がご一緒してくださって、良かった。知らない場所に一人で行くのは、やっぱり不安ですもの」


 何でもないことのように言いながら、彼女は顔相学の本を手に取って、遺伝が影響する特徴についてのページを指し示す。


「ほら、指の形も。お気づきになりました? マーク・エッケナーさんとディクソン公爵様、ブルソール国務卿閣下の親指。こんな風でしたでしょう? 特徴的で、そっくりでしたよねぇ……」


 自分の鼓動が、早まるのを感じる。まさか、そんなことが、有り得るだろうか? いや、いくら何でも……。


「……いや、気付きませんでした」


 正直に言うと、リリアーナは、はにかんだように続ける。


「わたし、冬から社交界に出るにあたって『貴族名鑑』を読み込んでおります。でも、十二年もの空白期間は長くて、なかなか覚えられません。それに『貴族名鑑』って、すごく眠たくなるんです。不眠症のお薬みたい」


 冗談めかしてリリアーナが言うから、俺は少し頬を緩ませる。


「俺だって、貴族の名前や顔なんか、ほとんど覚えていません。だいたい行き当たりばったりで、なんとかなります」


「あら……そうですか?」

「そうです」


 ふふ、と軽く笑い合う。


「まあそれで、解ったことがあります。貴族の皆さまって、たいてい決まったお家柄の方とご結婚されるんですのね。

 特に侯爵以上の家格の方は、その傾向が顕著でした。結婚相手はほとんどと言って良い程、古くから縁のある家系から選んでいます。

 その結果、お相手とは何らかの親戚関係にあるんです。もちろん、近親婚はずいぶん前に法律で禁止されていますから、あくまでも従兄弟や又従兄弟といった関係に限られますけれど」


 自身も伯爵令嬢であるのに、まるで他人事のように、リリアーナは言う。


「ええ、貴族階級は、何よりも血統を重んじます。令嬢と俺の婚約を認めてくださったロンサール伯爵や、コーネリア夫人と再婚されてポールを養子にされたグラミス伯爵などは、まったくもって稀有な例ですよ」


 リリアーナはにっこりと頷く。


「ブルソール公爵家とディクソン公爵家も、縁が深くていっらしゃいます。しかも両家は、建国時代から続く名家でしょう? 何百年もの間に、何度も婚姻を結んでおられますよね?」


「なるほど……血の繋がりがある相手との婚姻を繰り返している場合、普通は薄れてゆくような遺伝情報が、より濃く受け継がれる……?」


 リリアーナは自身の細い体を見下ろした。


「ええ。様々な遺伝子が混じり合うことで、この複雑で多様性ある身体が生み出されるのでしょう? 両親の遺伝子が似ていたら……身体的な類似点が、多くなるのではないかしら? 例えば、髪の色や、虹彩の色――。ディクソン公爵様、ブルソール国務卿閣下、それから、マーク・エッケナーさん、この三人の虹彩の色は、そっくりでしょう? はしばみ、ヘーゼル、……『どんぐり』とも言いますけれど、いずれにしろ、同じ色ですわ」


「……いや、しかし、榛色の虹彩は珍しくもない……偶然の一致という可能性も……」


 自問自答するように言いながら、そうだろうか――と思う。猫のような尖った眦。ふんわりしたヘーゼルのくせ毛。鼻や耳、指の形。


 街ですれ違う、全く初めて見る赤の他人に対して、『ああ、あの二人は兄弟だろうな』とか『あれは親子だろう』と感じることは、誰にでもあるだろう。

 それと同じ感覚を、マーク・エッケナーとヒューバート・ディクソンに抱いている自身に気づき、どきりとする。


 ブルソール公爵家とディクソン公爵家に、濃く受け継がれる遺伝情報。

 それによって現れる身体的特徴を、庶民であるマーク・エッケナーが持っている……?


 それから――とリリアーナは地図帳を書棚から抜き出した。


「マークさんは幼い頃、海に浮かんでいたところを助けられたと仰いました。海難事故だったと。けれど、本当にそうでしょうか? ブルソール公爵領と王都を行き来する際、通る道はきっと、南部のミュラー山脈のあたりでしょう?」


 国土の南部が載った頁を開き、ブルソール公爵領と王都の間を指でなぞって繋ぐ。


「これは、突拍子もない考えですけれど……リドル川の源水は、ミュラー山脈の湧き水です。山中で上流に落ちた少年が、河口まで流されたとしたら……?」


 例えば――と想像してみる。


 山中を刺客に追われ逃げ惑ううち、足を滑らせた幼い彼は、川に落ちた。 

 小さな彼は板切れか何か、浮遊物にしがみつく――。あの辺りは高低差が大きい。急流に乗った身体は、夜のうちに一気に河口まで流される。河口の外は、南部海域の激しい潮流。そこから更に流され……――通常なら、そんな長時間、子どもが水に浸かっていたら低体温になる。

 しかし、幸いなことに季節は夏の終わり。水温が高かった。早朝、漁船に発見されたとしたら……?


 ――しかし、では何故、海辺の孤児院にいる彼を、誰も迎えに行かなかった?


 襲撃は山上で起こり、凄惨な現場だったという。

 駆けつけた人々は、必死で山中を捜索したに違いない。けれど、関連付けて探すには、海は離れすぎていた――――


 ………誰も、海辺の町など、探そうともしなかった?



 ヒューバート・ディクソン公爵の言葉が、脳裏を過る。


 ――『僕が選ばれたのは……親戚の中で一番、似ていたからだ』


 まさか――


 似顔絵に視線を戻す。口内に渇きを覚えながら、俺は口を開いた。



「………レイモンドが、生きている……?」



 もし、万が一、そうなら――。ある考えが目まぐるしく脳裏を駆け巡る。

 孫が生きていたと知れば、ブルソール――あの毒蛇はどうする? 

 国王に次ぐ権力を持つ男でも、老いには逆らえない。おそらく先はそう長くない。


 後継者になるのは、誰だ?


 血統を何よりも重んじる高位貴族……現在のヒューバート・ディクソンは引退させられ、王都を追われる。代わって『ディクソン公爵』に据えられ、国務卿の後継者となるのは――


 ――あの、隙だらけで才気を感じさせない、平民育ちの人の善い男。


 人差し指で顎先を軽く叩きながら、リリアーナは小さなため息を一つ零した。


「もちろん、これは、ただの思いつきの域を出ません。マーク・エッケナーさんが、イコール『レイモンド』……。根拠はただ、外見が似ているってことだけですから、確率で言うと、高くてもせいぜい一割ってところです。シャトーグリフ島近くの海で、マーク・エッケナーさんが漁船に救助されたのが、『レイモンド』が消えた日の翌日であることを特定できれば、二割くらいにはなるでしょうか? いずれにしろ、それも証拠にはなり得ませんし――」


 しんみりと、涼やかな声は続ける。


「――百パーセントそうだと証明する方法を、何も思いつきません。煙突掃除徒弟組合に、お金と引き換えに子どもを渡すような孤児院が、エッケナーさんが発見時に身に着けていた衣類を大事に保管しているとは思えませんし……」


「……証明……」


 いや――と俺は考える。

 二割――それは少ないだろうか? 

 外見が酷似し、レイモンドが消えた翌日に保護された男児だとしたら。


 この国の中枢、ブルソール公爵家とディクソン公爵家の唯一の直系の可能性がある、ただそれだけで――


 ――始まるのは、争奪戦だ。


 権力を欲する貴族の誰もが、彼を掌中の駒にと望む。


 リリアーナは、気の毒そうな声で続ける。


「証明するために、記憶の照合が出来れば一番良いのですけれど。『レイモンド』しか知り得ないエピソードをエッケナーさんが知っていたら……けれど、エッケナーさんは、『子どもの頃のことは何も覚えていない』と仰っていましたから……」


「――令嬢……」


 申し訳なさを滲ませて声をかけると、リリアーナは全てを悟った笑みを浮かべる。


「ええ、わたしのことはお構いなく。ウェイン卿は、この件を優先されてください。アナベルを探すのは、また今度にいたしましょう。国務卿閣下は、もう二十年も肉親と離れ離れにされているのですもの。それってあまりにも、お気の毒です……」



 §



 ――どうかしら。


 とリリアーナは思った。

 ウェイン卿は、申し訳なさそうにこちらを振り返りながら、図書室を出て行く。笑って手を振ると、ほっとしたように微笑みかけられた。

 後ろ姿を見送りながら、長椅子に腰を下ろしてティーカップを持ち上げる。紅茶はすっかり冷めてしまった。

 ウェイン卿は、今からノワゼット公爵に報告に行くのだろうか。それとも、調査のために南部海岸に誰かを派遣するのかも。あるいは両方。


 アナベルを探すのは後回しになってしまったが、こうなっては仕方がない。

 それに……時間が経ち、冷静になってみると、何もしなくともアナベルに会える気がしてくる。

 彼女の性格を考えると、あれっきりというのはおかしい。彼女みたいな人は、後を濁したりしない。きちんと別れの挨拶をするために、もう一度会いに来てくれる。たぶんきっと。


 さて……



 ――あれは、どういうことかしら……。


 マーク・エッケナー氏の声が過る。


『南部にいた頃より以前の記憶はないんです』


 だけど、その前に、彼はこうも言ったじゃないの。


『僕、小さい頃から、王宮騎士に憧れていて……感激です!』


 あれには、少し矛盾を感じないだろうか? 

 いや、南部から王都に来たのも子どもの時だったろうから、なんとも言えないか。

 以前、ディクソン公爵が言っていた――『幼い頃は王宮騎士に憧れていたんだ。レイモンドと棒っ切れで騎士の真似事なんかしてね』という話と結び付けるのは、あまりに性急過ぎる。


 それから……彼は何故、ウェイン卿の顏を見て、あんなに緊張し怯えていたのだろう。

 ウェイン卿が用件を告げると、途端にリラックスしたように見えた。

 ……この疑問を、ウェイン卿に伝えるべきだったかしら?


「まさかねえ……考え過ぎだわ……」


 下手な似顔絵を見やりながら、ぽつりと呟く。


 わたしは、あの時、屋敷を逃げ出さなくて良かった。ここにいて良かったと心から思う。理由はウェイン卿のこともあるけれど、ブランシュとランブラーの傍に居られることも大きい。

 彼らがピンチに陥ったなら、わたしは何を置いても助けに行くだろう。命だって投げ出せる。これが、肉親の情というものなのだと思う。だから――



 ――マーク・エッケナー氏が、『レイモンド』の記憶を持ちながら、それを隠しているなんてこと、あるわけないわよね……。



 

 

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