第59話 時計店ー02
「――リリーさんの正体は、伯爵令嬢様でしたか。しかも、ご高名なレクター・ウェイン卿とご婚約とは……おめでとうございます」
ウェイン卿と握手を交わした手を見やり、マーク・エッケナー氏は満足そうに息を吐きながら頭を下げた。
ご両親は「後は若い人だけでごゆっくりね」と仰って、奥に下がってしまわれた。「すごいすごい」と褒め讃えられたウェイン卿の耳は、今もまだうっすら紅潮している。
「ありがとうございます。その節は、ご親切にありがとうございました。あの……身分を偽っていた上、逃げ出してしまって申し訳ありません」
頭を深く下げながら、わたしはつい空想してしまう。
今年のはじめ頃、屋敷を出ようと考えたわたしは、職業斡旋所のドアを叩いた。あの些細な出来事は、思えば人生の分岐点だった。
――もしも、あの時、怖気づいて逃げ出していなければ……。
親切なマーク・エッケナー氏はわたしに、ご実家の時計店を紹介してくれたかもしれない。そうしたら、当時のわたしは迷うことなく屋敷を出ていた。今頃、陽春を思わせる老夫婦の下で働かせてもらっていただろう。
あの頃のウェイン卿は、わたしに対して超のつく無関心だったし、毒入り夕食事件よりも前のことだから、そうしていたら、ウェイン卿とわたしの人生が交わることは、もうなかった。
町娘となったわたしは、ウェイン卿の写真が載る新聞を手に取って『王宮騎士様、素敵ねえ……雲の上の人だけど』と溜め息を落としていたのだ、きっと。
そうして叶わなかった恋は、季節の移ろいに押し流され、いつか遠く淡く、色褪せていたのだろうか――。
――まずい。
とレクター・ウェインは内心で頭を抱えていた。
目の前に座る、凡庸な男をさりげなく上目遣いで確認する。中肉中背。榛色の髪と瞳。猫のような吊り目と片足を少し引き摺って歩く癖がある他は、どこといって特徴のない男。身のこなしは無駄と隙が多く、才気に恵まれた様子もない。
生真面目さだけが取り柄の労働者階級――といったところか。
マーク・エッケナー。
リリアーナがフードを下ろして挨拶した途端、魅入られたように顏を上気させたので、軽く牽制してやろうと睨みつけた。てっきり、鼠のように怯えるだろうと思い、実際、最初はそう見えたのに――
――まずい。軽いジャブを打ったら、ボディブローとスピンキックをもろに浴びた心地、とでも説明すればいいだろうか。
『真面目な善人』か……。しかも、一家揃って。これは、とてもじゃないが太刀打ちできない。攻撃すればするほど、怪我を負うのは自分の方だ。
横目でリリアーナを見やると、大きな瞳を煌めかせている。その横顔は、何か考え込て上の空でいるようにも見えて、もしや――と不安が大波となって胸に押し寄せる。
――「やっぱり、ここで働いとけば良かった」……と思っている?
自身の人となりと、目の前に座る男を比較してみる。
片や、常春のような優しい両親の元に生まれ育った朴訥な男。
片や、木枯らす北風のような親兄弟の元で育ち、これまでの人生のほとんどを戦場に費やした、性根が荒みきった男。
リリアーナは、どちらの人間の隣に『幸福な未来』を想像するだろうか――もし自分なら、間違いなく前者を選ぶ。
「僕の方こそ、あの時は失礼しました。無礼な態度を取って、お恥ずかしい……ずっと気になっていて、いや、お幸せそうで、何よりです」
照れくさそうに、ふんわりした頭髪の後ろを掻き、マーク・エッケナーはへらっと鼻の下を伸ばして続ける。
「……えーと、だから、その、また、お会いできて、良かったです」
熱っぽく見つめられ、マークは眩しそうに瞬きを繰り返している。リリアーナがうふふ、と天使の微笑を浮かべると、その凡庸な顔は紅潮した。
「エッケナーさん、あのう、つかぬことを伺っても構いませんか?」
もちろんです――とマークは顔を輝かせる。「それでは」とリリアーナは前のめりに顔を寄せた。
「もしあの時、職業斡旋所で、わたしが雇って欲しいとお願いしていたら、助けてくださいました?」
「ええっ!?」
と素っ頓狂な声を上げたのは、もちろん俺である。
――何故、そんなことを!? 「やっぱりここで働きたい」とでも!? などと、強気に突っ込めるはずもない。あぐあぐと口だけ動かし呼気を逃す。
何度も言うが、リリアーナの希望を退ける術を俺は持たない。理由はやはりただ一つ、嫌われたくないからである。
「もちろんです。我々、職業斡旋人はその為にいるのです。令嬢がそう望まれたなら、全力でお助けしましたとも!」
マークは大きく頷いて言う。嬉しそうに、リリアーナは頬を染めた。
「ふふ……すごく変に思われるかもしれませんけれど、わたくし、ずっと市井で働くことが夢だったんです。こちらって本当、その頃に夢見ていた通りのお店ですわ。趣があって、とても素敵なお店なんですもの。ずっと昔から、この通りにありますの?」
苦労知らずで朴訥な男、マーク・エッケナーの榛色の瞳が、誇らしげに瞬く。
「いや、そう言っていただけると、嬉しいです。ここ、すごく素敵な場所でしょう? 父の父の代から、ここで店を開いてます。こんな場所に引き取ってもらえた僕は、本当、幸せ者ですよ」
まあ、とリリアーナが微かな声をあげた。マーク・エッケナーは何でもないことのように続ける。
「――僕はもともと、海難事故の生き残りの孤児なんです。ほんの子どもの頃、棒っ切れにつかまって海に浮いてたんですよ。親切な漁船に助けられて、それからは孤児院に」
ストマックブローまで浴びた気分である。こいつ、真面目な善人のくせに、苦労知らずの人生じゃない……? そんな馬鹿な……と内心で頭を抱える。
「まあ……わたくしも最近、落水事故に遭いました。それはもう、大変でしたの。水がすごく冷たくて……運河でも大変でしたのに、海だなんて! よくご無事でしたねぇ……さぞ、冷たかったでしょうね?」
気の毒そうに、リリアーナはしんみりと声を潜める。落水事故仲間であるマーク・エッケナーに親近感を覚えたのか、向ける眼差しは潤んでいる。
見つめ合うふたり。
会話に割って入りたい。
何か良いエピソードはないかと記憶の引き出しを引っ掻き回してみるが、そもそも……『溺れる』ってどうやったらできるんだろう? 人体にはそもそも浮力が働くからして……溺れる……途方もなく難しそうだ。
マーク・エッケナーは気恥ずかしそうに、平凡な顔を綻ばせる。
「ええ、まったくラッキーな男でしょう? もっとも、僕が浮かんでいたのは南部の海で、季節は夏でした。これだけははっきり言っておきますけど、溺れるなら絶対、夏にすべきですよ」
この場が辛気臭く沈まないように気を遣ってか、マーク・エッケナーは陰のある過去を、冗談めかして笑い飛ばす。リリアーナは興味津々の体で、前のめりである。
「わたくし、ほとんど王都から出たことがありませんけれど、南部の街はいくつか行ったことがございます。ええと、ジュランビル、ブーゲンビル、それから……ストランド。南部はいいところですよね。王都よりもずっと温暖で」
「僕がいたのは、ほら、脱獄不可能で有名なシャトー・グリフ島のある、あの辺りですよ」
「行ったことはございませんが、シャトー・グリフ島の辺りも、景色が綺麗なんでしょうね。きっと、離れ難くなると思いますわ。だって南部って、すごく居心地が良いですもの。どこか、お勧めの見所はございまして?」
リリアーナとマークはこの短時間ですっかり打ち解け、和気藹々と会話を弾ませている。
「ええまったく、煙突掃除の親方と王都にやって来た時は、びっくりしたのを覚えてます。なんて寒々しく狭っ苦しい街なんだって。だけど、僕はほんの子どもでしたから、南部にいた頃より以前の記憶はないんです。僕のホームタウンは、まるっきり王都なんですよ」
聞き捨てならない単語が含まれていて、俺は顔を上げて、エッケナーの顏をまじまじと見た。
「……煙突掃除? 君は、元クライミング・ボーイなのか?」
リリアーナが気の毒そうに声を落とす。
「まあ……それは、大変なご苦労をされましたのね……」
煙突掃除徒弟組合。
徒弟制度と言えば耳障りは良いが、孤児院から身寄りのない幼児を金で買い取り、奴隷のように働かせている。身体の小さな子どもを使った煙突掃除は、大昔から行われてきた習慣だ。
幼い頃から狭い煙道に登らされ、肺に煤を吸い続けるせいで、多くのクライミング・ボーイは成人するより前に命を落とす。
近頃になってようやく、一部の若手貴族――ノワゼット公爵やロンサール伯爵もだ――がクライミング・ボーイの労働環境改善を訴えている。しかし、古くから生活に根ざした意識と習慣を、人々に変えさせることは難しい。
悲壮感をちらとも滲ませず、マークはにこりと笑って軽く肩を竦めた。
「でも、僕って本当、ラッキーなんです。クライミング・ボーイが人道的に問題視され始めると、僕の親方は、子どもを欲しがっていた今の両親に僕を預けてくれました。お陰様で、周囲の人たちに支えられて、恵まれた人生を過ごしています」
不幸な生い立ちをものともせず、平凡な男は、胸を張ってそう言った。
リリアーナは潤んだ瞳でマークの顏をじっと見て、感銘を受けたようにほうっと息を吐く。どこか上の空な口調で、そっと呟いた。
「……ねえ、エッケナーさん。あなたのような方と一緒にいられる人は、お幸せでしょうねえ……」
見送ってくれようとするエッケナー家の人々に丁重に礼を述べ、リリアーナと店の外へ出た。
「――早速、アナベルを探しましょうか?」
平静を装うと、ちゃんといつも通りの声が出る。
リリアーナが小さな頭を傾げると、黒髪がさらりと流れる。
「エッケナー時計店の皆さん、善い人たちでしたね」
「ええそうですね」
手短に返事をして、俺は先を急ぐ。一刻も早く、この陽だまりのような場所から立去りたかった。
「――では、次はアナベルを」
眉を寄せたリリアーナは、なにか考え込む素振りで、じっと道端のセージが風に揺れるのを見ている。右手の人差し指で顎先に触れるのは、考え事をするときの癖らしい。
――人生の分岐点に、思いを馳せているのかもしれない。
俺の手を取らずとも、救いの手は他にも差し出されていたと、彼女は気づいてしまっただろうか。
レンガ色の商店街を往く人々が、リリアーナの顔を見ては、びっくりしたように目を見開いて立ち止まる。頬を染めて、ちらちらと眺め見ながら、後ろ髪を引かれるように歩き去ってゆく。
黒髪に陽射しが当たって、天使の輪のようにきらきら煌めいていた。
フードを被りましょう――と手を伸ばそうとして、やめた。
澄んだ風が吹いて、外套から覗く紺色のスカートが揺れる。陽だまりのような、光を放つ婚約者――どこにいても、彼女の周りは光で溢れる。俺の隣でなくとも、彼女は幸福になれる。
――もし、失ったら。
それは想像だけで、俺を打ちのめした。
誇らしくてたまらないのに、誰の目にも触れさせたくない。不安定で複雑で、重たい感情――抱えきれなくなって、俺はゆっくりと吐き出す。
「令嬢――俺は……令嬢が、屋敷にいてくださって、エッケナー時計店で働いておられなくて、良かった……」
あら、とリリアーナは驚いたように俺を見上げる。長い睫毛をぱちりと瞬いて、ふわりと笑う。
「わたしも先ほど、まったく同じことを考えておりました。以心伝心ですね! あの時、怖気づいて良かった。今にして思えば、最良の選択です」
「え……? そ、そうですか?」
「はい、当たり前です。わたし、人生で今より幸せなことって、ありませんもの――」
あっさりとそう言って、リリアーナは俺に向かって明るく笑いかける。
「――ところで、ね、ウェイン卿。予定を少し、変更しても構いませんか?」
その視線が注がれるだけで、世界に光が満ちてゆく。頬を緩めて、俺は手を差し出す。
「なにもかも、令嬢のお望みのままに」
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