第47話 太陽の下(トマス・カマユー視点)

 ――あれから、一週間。


 色づいた葉は、最近の冷え込みであらかた落ちてしまった。落ち葉で柔らかくなった地面を踏みしめ、あの日と同じように欅の幹に片手を突いて、俺はよくよく考える。


 ――なんでこうなった?

 

 アナベルと二人でここに立っていたのは、つい先週のことだ――。


 白銀の髪と長い睫毛が、柔らかな木漏れ日の下で煌めいていた。

 欅に手をついて、俺は問い詰めた。女性(しかもアナベル)に対してあんな態度を取ることに多少の躊躇いはあったが、仕事だから割り切って問い詰めた――するとどうだ。なんとあの、いつもツンと澄ましたアナベルの瞳が揺らいだのだ。


 うわあ――と俺は思った。

 なにしろ、さんざん振り回された挙句、絶対零度であしらわれ続けていた身である。

 しかし、あの瞬間、とりつく島もないアナベルの瞳に浮かんでいたのは、明らかな狼狽。――俺は選択を迫られた。


 ――優しい口調で話し合うべき? もしくは、さらに追及するべき?


 これまでの自身の翻弄されっぷりが頭を過り――後者だ、と俺は即決した。

 どっちにしろ、アナベルがロンサール家の人々を大事に思っていることは間違いない。敵の敵は味方だが、味方の味方も味方であることは言うまでもない。


 最終的にはすべて丸く収まらせ、アナベルが困った羽目に陥っているなら解決してやろう。軽く優位に立った気分ですらあった。


 ――そうして、アナベルは俺を少しは見直すだろう。今後は塩対応を改めるかもしれない。


 まあ、その結果――


『私、捕まる気もローゼンダールの騎士になる気もありませんので、これっきりです。短い間でしたがお世話になりました』


 いっそ晴れやかな笑みを浮かべて、アナベルは去った。


 片手を欅の幹にやり、もう片手で俺は頭を抱える。


「………えーと……つまり………」


 あれは……?



 ――――今生の別れ!?



 クラッときて思わず肘をつくと、どっしりと欅が身体を支えてくれる。


 ――いいや、考えろ!


 向こうは別れの言葉らしきものを口にしたが、こっちは呆気にとられ、アホ面晒しているだけだった。


 要約するとたぶん、こうだ。


 あるところに、美しい亡国の騎士がおりました。

 二年半に渡る逃亡生活の末、流れ着いたのはここ、ロンサール伯爵邸でございます。

 そこでロンサール伯爵という外身も中身も完璧な天上人に恋に落ち、全てを承知した上で受け入れてくれる心優しい令嬢の侍女として、第二の人生を穏やかに歩き始めたところでした。


 そこに現れたのが、勘違い男。時々いるのだよ。悪気ないのを良いことに、いらんことしまくって引っ掻き回し、周りを不幸にする――すなわち、俺みたいな奴のことである。


 やたらと付き纏ってくる、勘違い騎士。

 逃亡者の心細さ故か何だか、その辺りの心情はさっぱり計り知れないが、つい流され一線を越えてしまったものの、何しろ恨み深い相手。嫌いである。顔も見たくない。


 冷たく拒んでいたら、ブチ切れた男はいかにもストーカーらしく追い詰めてきました。

 哀れにも穏やかな日々は終止符を打ち、再び逃亡の日々に戻るほか、道はなくなったのでございます……。



 耐え切れず、がくりと落ち葉の上に片膝をつく。まったく、俺ときたら――


「――最っ低……っ!」


 救いようがない。欅の幹に額を打ち付ける。ごちんと鈍い音が鳴った。


 ――よし、消えよう。


 俗世を離れ人と交わらず余生を過ごした方が、世の為人の為になる。いよいよ出家……いや、だめだ―――――


 抱えた頭を振る。……とてもじゃないが、このままには、しておけない。


「…………ずっと、逃げている?」


 そんな馬鹿な――。

 終戦直後の血気逸っていた時期ならともかく、あれから二年と半年。

 今頃になって捕まえたハイドランジアの騎士に、このローゼンダールが重い刑を科す……? いやない、と俺は首を振る。


 ――ガリカ谷、ゲシュメット峠、ツヴェリ河畔……戦時中に自分が身を置いた場所を思い出す。

 いずれの戦場でも、剣を交えたハイドランジアの騎士が特に卑劣だったことはない。そりゃ戦争だから色々あるけど、お互い様だ。

 そうして、うちの陛下は情け深いのだ――うちの団長の従兄だなんて信じられないくらい――。

 ドゥフト=ボルケ地方は併合したが、ハイドランジアは自治権を失っていない。終戦時にいた捕虜たちには、すでに恩赦が与えられた。


 どの戦線にいたかは知らないが、アナベルが逃げ回る必要なんてあるのか……?


 ディクソン公爵邸で見たノア・シュノー、かつてこの屋敷にいた老執事の姿が脳裏を過る。……あの二人は、間諜だろうか?

 間諜ならば、罪が重くなるかもしれない……、仲間のために逃げているのか……?


 ――そうだとしても……。



 アナベルを、自由の身にしたい。


 令嬢と笑い合っている時ですら、海色の瞳にはどこか陰りがあった。


 ――アナベルの瞳を陰らせる原因を、晴らすのだ。

 

 とことん報われなかったが、俺にとって、これは運命の恋だった。

 向こうはそうでなくとも、俺は一生忘れない。

 今後、永遠に人生が交わることがなくとも、好きな子には笑っていてほしい。


 こうなったら意地でも、アナベルを心から幸せそうに笑わせてみせる。そして、「幸せになれよ」と男らしく送り出してやる。……さらに欲を言えば、アナベルの記憶の中で、「ちょっとは良いとこある奴だったなー」――程度の男に昇格したい。


 

 しかし、騎士爵では、陛下に直接頼める立場にない――有力な貴族に頼み、恩赦の歎願を出してもらう。

 ノワゼット公爵……、ロンサール伯爵にも頼もう。その後は枢密院での会議に諮ることになる。手続きに時間はかかるかもしれないが、恩赦を得ることは、そう困難ではないはず。


 アナベルと、ついでにその仲間達が――太陽の下を笑って生きていけるようにする。




 ――とは、決めたものの……。


 その為には探し出して、所属と事情を聞き出さねばならない。

 ハイドランジアの騎士名鑑でアナベルの名を探したがなかった。「アナベル」は偽名らしい。その上、相手はもう二年以上も逃げ隠れている隠遁のプロ。


 俺より小さな歩幅、筋力だって俺の方がある筈なのに、追いつけなかった。おそらく簡単には見つけられない。


 ――『レディ・ブランシュの懸賞金の件、ディクソン公爵邸に潜入して調べていました』


 ロンサール姉妹の為に、一味で調べている……? ロウブリッターやアナベルが、令嬢に心酔しているのは本当らしい。

 ということは、解決するまでのしばらくの間は、この王都に留まっている可能性が高い。


「……見つけてみせるから……アナベル……今度は逃げるなよ」


 ――もう一度会って、ちゃんと話を聞くから。



 去り行く後ろ姿が過り、切なさが胸に膨らんで、大きく吐いた息は白く濁っていた。冬が近いのだ。ずいぶん、冷えるようになった。

 欅を見上げると、少ない葉が寂しさを醸す枝の隙間に、灰色の空が見えた。


 似た空の下で見たものを、思い出す――ハイドランジアの王都が沈んだ日、残党狩りの最中に少年を見つけた。


 肩上で揃えられた髪は灰茶色の泥がこびりつき、乾いた粘土細工のようにひび割れて固まっていた。小さな背中は泥まみれで、一目見た瞬間、もう死んでいるか、もしくは石膏で出来た人形が流れ着いたかだろうと思った。ところが、その人形は小刻みに震えていて、白い息を吐いたのだ。


 ――生きてるのかよ、と俺は思った。


 生きている、面倒くさい。


 ――また大事な剣が汚れてしまう。返り血で制服も。そのままにしておくと錆びるから、手入れしなくちゃならない。まったく、面倒なことだ――。


 あの頃の世界は、怒りと絶望に支配されていた。空も大地も木々も水も、目に見える全てに色がなく、現実は腐り落ちてゆくようだった。二年も戦場にいたら、誰しもそうなる。


 若い衛兵か何かだろうか。なんでもいい、あの城の生き残りならしょうがない。手早く済まそう、と柄に手を掛けた。

 そうして、振り返ったその目を見た瞬間――俺は我に返ったのだ。


 何をやってる。

 こんな風に、震えている人間を斬るのか? 


 ――そんな馬鹿な。俺は、そんなことはしない。俺は、そんな人間じゃなかった。

 

 一刻も早く、家に帰りたい。飯食って風呂に入って、ぐっすり寝る。色のある世界に戻れ。世界は本当に、苦しみだけではち切れそうか? 思い出せ――他にも、たくさんの色があったろう?


 身体を埋め尽くしていた、濁った怒りは陽光を浴びた霧のように消えた。


 その後、気になって調べてみたが、あの少年が見つかったという報告はどこにも見つけられなかった。少なくともあの子は、無事に生き延びたのだろう――そう思いたい。


 いつの日か、あの少年と会っても俺はわからないだろう。顔かたちどころか、瞳の色すら今は思い出せない。あの辺りの記憶は輪郭が曖昧で、色がないのだ。だけど……



 ――あの子もどこかで、元気でいてくれるといい。





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