第24話 ガーデンパーティーー02
ウェイン卿の声を聞いて、わたしは瞬いた。
――……ブルソール、国務卿閣下……って言った?
国務卿――国王陛下に意見することを許された諮問機関、枢密院のトップ。
陛下に次ぐ、この国の最高権力者。
そして、ノワゼット公爵の政敵である、毒蛇公爵……?
――この方が……?
新聞のぼやけた写真でしか知らない。
会えるはずのない歴史上の人物が目の前に現れたようで、まるで現実味がなかった。
獲物を狙う蛇のような榛の眼。突き出した頬骨。とがった顎と耳。
ホワイトタイの正装に流したサッシュに並ぶ、数えきれないほどの勲章。
少し曲がった腰を支える、黒っぽい杖。
小さく細い身体から発される、圧倒されるような気迫。
ブルソール国務卿の背後には、国務卿専属の証、紫の制服姿の騎士たちが控えていた。
その風体の異様さに、思わず目を奪われる。
ひきずりそうなほど裾の長い紫の制服を着た騎士達は、奇妙な白仮面で顔を覆っていた。
口の部分が嘴のように突き出した、紫の文様が描かれた仮面。その姿は騎士というより、物語に出てくる魔術師のようだ。
その騎士たちと並んで、燕尾服を着た大柄な若い男性の姿があった。
彼らの上で揺れる、枝葉の陰影。
その光景は、奇異な迫力があった。
明るいガーデンパーティーという現実から、まるで違う世界に入り込んでしまったみたいな――。
瞬きながら立ち竦むわたしの方へ、ブルソール国務卿が、すうーっと音もなく近付いて来る。それは本当に、鎌首をもたげた蛇が移動する姿を彷彿とさせた。
わたしの前でぴたりと止まると、杖がすいっと上がる。
皺だらけの手、黒い杖はまるで魔法使いの――
――肩に力がかかった。ぐらりと視界が揺れて、隣に引き寄せられる。
黒い制服の腕が目の前に伸びてきて、杖の先を受け止めた。
ようやく、夢から醒めたようにはっとする。
わたしの肩に杖先が触れるのを、ウェイン卿の腕に庇われたらしい。
「――閣下? 何の真似です?」
ぎょっとするほど低い声が隣から聞こえて、ふり仰ぐ。
右袖で杖先を受けとめたウェイン卿の横顔は氷の怒りを湛えていた。赤い虹彩はゆらりと揺れる。
一方で、目の前のブルソール国務卿の顏はまったく平然としたものだった。
蛇のような目が眇められ、不穏に光る。
まるで、獲物をわざと怒らせようとして、それに成功したことを喜んでいるかのように――。
「礼儀を知らん卑しい騎士の連れは、やはり礼儀を知らんと見える。この儂に平伏せんとは、人の形をした置き物かどうか確かめようと思ってな――」
言われて、またまたはっとする。
全くもっていくらなんでも、平伏を忘れるなんて。
慌てて、スカートの端を摘まんで右足を下げ、頭を低く下げる。
「ご挨拶が遅れましたことお詫び申し上げます。リリアーナ・ロンサールと申します。お目にかかれて、光悦至極に存じます。ブルソール国務卿閣下」
ブルソール国務卿は、ふっと冷たく口端をわずかに上げ、杖を下げた。
それに合わせてウェイン卿も、不機嫌そうに瞳を眇めたまま腕を下ろす。
国務卿の瞳が、獲物を値踏みするように細められる。射すくめられるような視線を感じて、緊張で肩に力がこもった。
「……ロンサール? ……ほう? あの魔女だとか噂されとったロンサール伯爵家の妹の方か。……なかなかどうして、噂と違って姉に劣らず上質な駒ではないか」
ウェイン卿のいる方から、地を這うような声が発せられた。
「……わたしの婚約者に、失礼な言動はやめていただきたい。国務卿閣下」
久しぶりの冷然さは、やはりキレッキレであった。
氷の声を出させたら、わたしの婚約者の右に出る者はいないと思う。
しかし、流石なことにブルソール国務卿にはちっとも効いていない。
薄い唇をほとんど動かさずに、冷たく嘲るように国務卿は口を開く。
「婚約者だと? 誰の? まさか、爵位も持たぬ、たかが騎士爵の?」
ぴくっ、と隣でウェイン卿がわずかに身動いだ。
国務卿は嘲りをたっぷり染み込ませた静かな声で続ける。
「これはこれは……ロンサール伯爵は乱心したと見える。上質の駒は、姉と同じように公爵か辺境伯あたりに売り飛ばせば良いものを。無爵の騎士などに叩き売ろうとは、正気の沙汰とは思えん」
……なーんか、いやーな予感がした。
おそるおそるちらっと視線だけでふり仰ぐと、ウェイン卿の瞳に、ぼうっと赤い陽炎が宿っていた。
ぱちっ、と近くで何かが爆ぜるような音がする。
――……ん? なんかこの状況、なにげにまずくない?
おそるおそる、顔を上げる。何か言うべき?
まあるくおさまるように、うまいこと何か考えて、……えーと……?
しかし残念なことに、わたしの社交力レベルは三歳児に達するかどうかも微妙なとこであった。
「――これはこれは、ブルソール国務卿閣下。ご機嫌麗しゅう」
優しい声が、背後から届く。
振り返ると、両肘の上に器用に皿を乗せ、両手にグラスを持ったランブラーが、一服の絵画と見紛うほど眩しい笑みを浮かべて立っていた。
我が従兄ときたら、ギャルソンとしても充分に生計を立てられそうだ。
途端に場の空気が和らいだ気がして、わたしはほっと息をつく。
ブルソール国務卿は興ざめしたような視線をランブラーに向けた。
その僅かな表情の変化から、ウェイン卿に対するほど、ランブラーを敵視していないようだと察す。
「……ロンサール伯爵。君の乱心ぶりについて、心配しておったところだ」
「おや、左様でしたか」
麗しい笑みを浮かべ、ランブラーは柔らかく頷く。
国務卿は視線をランブラーからウェイン卿に移し、瞳を眇めた。
「ここにいる儂の甥である公爵、ヒューバート・ディクソンの側室に貰ってやっても良いぞ。それが血にまみれた手柄をいくつ用意しようと無駄なあがき。どうせ爵位は得られん。その見るも汚らわしい卑しい紅眼、まったくぞっとする――」
はっ、と唾棄するように息を吐いてから、国務卿は続ける。
「――そんな異形にやるよりは、この儂と縁を持てるよう尽力したほうが、ずっと君とロンサール家の為になると思うがね」
隣のウェイン卿がぎりっと奥歯を噛んだ気配が伝わって来て、わたしはまたハラハラする。
しかし、ランブラーはゆったりと美しい笑みを深めた。
「国務卿閣下、いつもながら多大なお心遣い、感謝の言葉もありません。ああ、ちょうど、そこの泉の淵に腰掛けて休憩するところでした。――ご一緒に、いかがです?」
ランブラーが肘の上に皿を乗せながら器用にも優美な仕草でグラスを差し出すと、ブルソール国務卿は、鼻白んだようにふんっと鼻を鳴らした。
「結構。卑しい生き物と同じ空気を吸っては、身体が腐る。これで失礼する」
「そうですか、失礼いたしました。よい一日を――ブルソール国務卿閣下、ディクソン公爵閣下」
肘に皿を乗せたまま、器用に麗しい礼をするランブラーに一瞥を投げかけると、国務卿一行は歩き出す。ウェイン卿のことは目に入らないとでも言いたげに、もう一瞥もしなかった。
見送りのために再び頭を下げると、国務卿からディクソン公爵と呼ばれた若い男性が、目の前で立ち止まった。
そろっと視線を上げると、じとりと睨まれている。
――この人がディクソン公爵……? ということはこの人が、ノワゼット公爵が『豚のディクソン』と呼んでいた、あの……?
不機嫌そうなヘーゼルの瞳と視線が合う。
ディクソン公爵が何か言いたげに口を開きかけると、ウェイン卿がさっと遮るように間に立った。わたしの身体はディクソン公爵の視界から隠されてしまう。
ディクソン公爵はランブラーとウェイン卿を代わる代わる睨み付けながら、口を開いた。
「――あまり調子に乗るなよ、堕落した色狂い伯爵と腐敗した悪徳騎士ふぜいが……!」
――…………。
ラスボスの側近に相応しい捨て台詞を残し、ブルソール国務卿の後を追い、ディクソン公爵は大きな身体をどすどすと揺らしながら去って行く。
「…………」
「…………」
「…………」
立ち去る彼らの背中を呆然と見送りながら、今起こった竜巻のような出来事を、わたしは脳内で整理する。
ウェイン卿が慌てた様子で、わたしの背に手を当てた。
わたしを見るランブラーの顔はひどく心配そうに陰っている。
「令嬢、大丈夫ですか――!?」
「リリアーナ、怖かったろう? 国務卿がこんなところにいるとは思わなかった。普段はほんと、中央宮から動かない人なのに」
わたしは、ぼんやりと応える。
――ほんとうに、さすがに驚いた。
「お従兄さま、ウェイン卿……あの方……」
二人の眉が、心配そうに寄る。
「はい」
「どうした?」
一行の消えて行った方角を見つめて、わたしは続ける。
「あの方です……」
大きな身体だった。ふわふわで――
「「え?」」
内心の動揺を鎮めながら、わたしは一気に言った。
「図書館で、わたしに『公開演習に来るな』と仰ったのは、今、国務卿閣下の後ろにおられた、ディクソン公爵様です。あの、ふわふわの――シュークリームとそっくりの!!」
ランブラーとウェイン卿は、揃ってはっとしたように目を見開いた。
「…………なに?……シュー……?」
「…………クリー……ム?……だって?」
§
「それで……ふっ、豚のディクソンが、なんだってまた、リリアーナに、ふっ、そんなことを? ふっ」
「さあ、くっ、さっぱり、ふっ、わかりません」
「なにか、ふっ、企みが、あるんですかね? ふっ」
場所は宮殿右ファザードの内、ノワゼット公爵の執務室。
あのあと、エイレーネの泉からは早々に場所を移した。
煌びやかな金枠の天鵞絨張りのソファに腰掛け、王宮の美しい侍女様が淹れてくれた珍しいお茶を囲んでいる。
ノワゼット公爵、ランブラー、ウェイン卿の三人は片手で口元を覆って俯き、肩を震わせている。
壁際に控えるラッド卿やオデイエ卿、キャリエール卿まで、ツボにはまって同様である。
むうっと眉を寄せ、口を尖らせて、わたしは毅然と口を開いた。
「……さきほど、シュークリームと口走ってしまったのは、ついうっかりです。人様のことをそんな風に形容するものではありませんでした。お忘れください」
「いやー、無理」
ノワゼット公爵が言う。そして、またみんなで笑いだす。
「シュークリーム! シュークリーム! 言われてみたらそっくり! なんっで気付かなかったんだろう? 豚と呼んでた自分のセンスを呪うよ。リリアーナの観察眼、最高だね」
ノワゼット公爵が言うと、ランブラーも応える。
「ふわふわの髪にふんわりほっぺ! シュークリーム!」
「ふっ、くっ」
ブランシュがティーカップを両手で持ち上げながら、白けた眼差しをツボにはまった人々に向ける。
「――ほうっておきなさい、リリアーナ。この人たち、ブルソール国務卿とディクソン公爵に対して鬱憤が溜まってるのよ」
はあ、と溜め息をつく。
姉の言う通り、大人げない大人たちは放っておくことにする。
透き通るように薄い白磁の珍しい茶器は取っ手がなかった。それを両手で持ち上げて、珍しい調度品で溢れた執務室を眺める。
東洋から蒐集したものだろうか――ノワゼット公爵の執務室は、遠い異国の情緒に溢れていた。
ひとしきり笑って満足したのか、ランブラーが笑い疲れた風にお腹をさすってソファーに凭れ、口を開く。
「いや、それにしたってあの二人、ブルソール国務卿とディクソン公爵、今日はまた、いつも以上にキャラが濃かったなぁ……」
口をつけたお茶は、紅茶とは違う味わいだった。さわやかな口当たりの中にほんのり桃の風味が香る。
のんびり響いたランブラーの声に、公爵の後ろに控える騎士達は顔を顰める。
「キャラが濃いどころじゃありません!」
「最っ低なんです! これまで何度陥れられたか……!」
「あれはほんと、人でなしのくずです」
騎士たちも相当、鬱憤が溜まっているらしかった。オデイエ卿とキャリエール卿、ラッド卿の眉は最初に会った頃のように寄っている。犬猿の仲、という言葉を思い出す。
ランブラーが少し気の毒そうに眉尻を下げて、事情を知らないわたしに向かって囁く。
「あれさ、なんでかは知らないけど、ブルソール国務卿は騎士団を……中でも特に第二騎士団を毛嫌いしてる風なんだよ」
「へえー。どうしてです?」
首を傾げたわたしに、ノワゼット公爵が苦り切った顔で応える。
「さっぱりわからない。僕が団長になった時には、もうあんな感じだった。とにかく、やることなすこと、何もかも気に入らないらしい。ムシが好かないってやつなんだろ?
国務卿の立場を利用して、悉く邪魔してくる」
「あらまあ」
「ノワゼット公爵や第二騎士団に賜った勲章の数が少ないのは、国務卿が邪魔したせいでもあるんですよ。こっちは命かけてやってるのに、いちゃもんばっかつけてくる」
オデイエ卿が不満げに口を尖らせて言う。
ランブラーが片眉を上げてウェイン卿を見た。
「さっきのウェイン卿への態度は、確かに酷かったね。ウェイン卿、気にするなよ」
「してません」
ランブラーに応えたウェイン卿の赤い瞳は不機嫌そうに揺らいでいる。これ、完っ全に気にしていると思われた。
「ちなみに僕は、国務卿よりも実はディクスン公爵が苦手なんだよねー」
ランブラーが何でもない風に呟きながら、白桃の香るとても美味しいお茶をちょっと苦そうな顔で飲む。
「どうしてですか?」
問うと、従兄はひょいっと軽く肩を竦めてみせた。
「僕の顔を見る度に、今日みたいな感じの嫌味を吐き捨てて、ささーっといなくなるんだ。恨みを買った覚えはないし、なんでかは知らないけど、僕のことが癪に障るんだろ」
「まあ……、大変ですねぇ」
そういった謂れのない悪意を向けられると、魂の柔らかな部分が削りとられるように痛むものだ。
社交に長けていて全然平気そうに見えるランブラーでもやっぱり、そういった場面を耐えて踏み越えてきたんだろうと思う。
ああでも――、とランブラーはにっこり笑う。
「これからは何言われても、リリアーナのお陰でシュークリームにしか見えないから、大丈夫だ」
冗談ぽくおどけた従兄の口調に、ふふっと笑い合う。
顎先に触れながら、わたしは不思議に思うことを口にした。
「それじゃ図書館でのあれも、ランブラーの従妹だから、何かの嫌がらせのつもりだったんでしょうか?」
――『来週の騎士団公開演習には、来るな』
――だけど嫌がらせで、あんなこと言うかしら?
そうかもね、とランブラーは軽い感じで頷く。
優美な手つきで茶器をソーサーに戻しながら、ブランシュがおっとりと口を開く。
「ブルソール国務卿とディクソン公爵は揃って枢密顧問を務める、この国の中枢の大物よ。わたしやリリアーナが関わることはまずないはずよ。わたしも何度か挨拶したことがあるくらい。
たぶんだけど、ウェイン卿と一緒にいたからまとめて絡まれたのね。普段は令嬢の相手なんかしない、歯牙にもかけないってやつよ。それよりも――」
ブランシュの美しい碧い瞳が、きらりと氷の輝きを放つ。
「問題は、カメレオン侯爵の娘の方――マージョリー・ダーバーヴィルズ侯爵令嬢よ。このわたしが未だ討ち損ねている、天敵なのよねぇ」
うふ、と可憐な仕草で肩を竦めて、百獣の王は麗しく微笑んだ。
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