第92話 恋を忍び合う


 集中……集中……


 息を静かに吸って、吐いて、整える。


 生れてから一度も、王都から出たことなんてない。風光明媚と名高い南部地方なんて、一生行けないと思っていた。


 窓から覗く紺碧の水平線は、ずっと遠くで、空の色と混じる。眼下には、どこまでも続く大地の緑の稜線。間近に見える村は、黄褐色の石造りの小さな家々が、ラベンダーの咲く細い路地を挟んで、ひしめき合う。まるで、おとぎ話の挿絵のよう。


 それが、目の前にあるんだから。


 集中できないはずはない。



 王都に戻る馬車の中、斜めに向かい合って二人きり。



 ――この顔は、ちゃんと平静だろうか?



 抱き締められた腕は、強く逞しかった。痩身に見えた胸は頼もしくて、ずっと囚われていたかった。汗の香りは男の人のもので、固く大きな掌で触れられると、痺れるほど心地好くて、それから……


(って、集中!)


 駄目だ……こんな邪念を抱いていることを悟られたら、気味の悪い思いをさせてしまう。

 食欲を失くさせ、悪夢に魘され、不眠に陥らせる可能性すらある。

 これほどの恩を受けておきながら、仇で返すとはこのこと。


 ――景色を、楽しむのだ。


 五感の全てを、景色に集中するのだ。さすれば、この煩悩も払われるに違いない。



 

「あの」


「はい」


 顔を向けると、綺麗な赤い瞳と目が合う。鼓動は高鳴る。視界が潤みかけて、己を叱咤して平静を装う。たぶんきっと、装えているはず。


 ウェイン卿は、軽く咳払いしてから、話し始める。


「令嬢は、欲しいものは、おありですか?」


「……欲しいもの、でございますか?」


 今日はずっと、こんな取り留めのない質問が繰り返されていた。


 好きな色、好きな季節、好きな花、好きな食べ物。


(気を、遣ってくれているんだなぁ……)


 会話を弾ませるべきだ、と真剣に考えるのであるが、「思い付きませんので、考えておきます」的な答えしか浮かばぬ不甲斐なさ。


 人はそれを、コミュ障と呼ぶ。


「欲しいもの……そうでございますね。特に……思い付きませんので、考えておきます。ウェイン卿は、何か、ございますか?」


 秘技、質問返しで、コミュ障なりに、何とか会話を持たせようと努力はしてみる。


「……そうですね……あります」


「……まあ! 差し支えなければ、教えていただけますか?」


 自分にも用意できるものなら、差し上げたい……だけど、わたしに用意できるようなもの、もう持っているに決まっている。

 ウェイン卿は、何故だか少し、寂しそうに眼を伏せる。


「令嬢が……くださいますか?」


 真剣な声の響きに、こちらも真剣な顔になる。


「……あの、もし、わたくしでもご用意できるものでしたら、もちろんです!」


 言うと、ウェイン卿は微笑んだ。だけど、その笑みもまた、寂しそうに見えた。


「……例えば、……その、……ハンカチ、でも?」


「……ハンカチ……でございますか?」


「はい、わたしにも、くださいますか?」


 ウェイン卿は、思い詰めた様な眼差しでこちらを見た。

 

(……欲しい物が、ハンカチ……? )


 確かに、女性から男性に贈る品の定番である。無事を祈って刺繍を施し、贈る風習まであるくらいだ。

 比較的安価であり、何枚あっても困るものでもない。場所を取らず、本当はいらなくても引き出しの奥に突っ込んでおくこともできる。 

「何も要りません」と言うのも失礼だと思われた……?


「はい。もちろん。ウェイン卿がそう仰るなら、用意させていただきますが……」


 ウェイン卿は、ふわっと微笑んだ。その顔の寂しさが、消えてはいないけれど少しだけ薄れていて、ほっとする。


「ありがとうございます。……一生、大切に致します」


「いいえ、とんでもございません」


(……一生?……大切にする? ハンカチを?)


 目を合わせて微笑んだが、何度見ても、ウェイン卿の微笑の破壊力は凄まじい。

 顔から恋心がだだ漏れていそうで心配になり、急いで窓の外に視線を逸らす。

 小さな嘆息が聞こえた気がした。


 しばらくの沈黙の後、ウェイン卿はまた、口を開く。


「……もし、令嬢に欲しいものが出来たら、わたしに教えていただけますか?」


「……はい?」


「ハンカチのお礼に、わたしが差し上げます」


「いいえ! とんでもありません! もう十分、お世話になりすぎております。ハンカチは、そのお礼ですから、お礼のお礼になってしまいます」


 ウェイン卿は、また寂しそうな微笑を浮かべた。


「では、お礼のお礼のお礼に、また何かお願いしますから」


「……はあ、いえ、でも、」


 思い詰めたような眼差しが、突き刺さる。


「わたしは武骨で、令嬢に何を差し上げれば喜んでいただけるか、分かりません。ですから、教えてください」


 完全なる、殺し文句であった。


「……んっ、はい、なるほど。承知しました」


(危なかった……! 今のはほんと、危なかった……!)


 思えば、同性の友人ですら、ついこの前、初めてできたばかり。


 はじめての異性の『友人』が、よりにもよって、ウェイン卿。


(『男友達』が、こういうことを言うものだとは、完全なる想定外……!)


 墓場まで持って行くと固く塗り固めた決心がなければ、危うく「貴方様のお心が欲しいです」と口走ってしまうところであった。


(この旅、危険だ)


 ――気を引き締めてかかろう。

 

「では……考えておきます」


「はい」


 さっきから、こういう続かぬ会話の連続であった。繰り返すうち、おそらく、あまりのコミュ障ぶりに呆れたウェイン卿の表情は陰りゆく。しかし、物憂げなその顔もまた、太陽の如く眩しい。また、慌てて窓の外を見る。




「……ロブ卿は、……どんな話で、貴女を、笑わせますか?」


 海岸線に気を送って集中していると、ウェイン卿が微かに小さく、呟くような声が聞こえた。


「……はい? ロブ卿……? でございますか?」


 ウェイン卿は、はっとした様子で、いや、くだらないことを……と咳交じりに呟く。風邪をひいているのか、今日はやけに咳をしている。きっと、過労だ。わたしを探してくれていて、休めなかったに違いない。申し訳なさがこみ上げる。


(それにしても、昨日から、ロブ卿のことをやたらと尋ねられる。一体、どうして……?)


 ……そこで、ピンときた。


 これは、もしかすると、もしかして、ウェイン卿ときたら、


(……ロブ卿と、お友達になりたがっている……!?)


 ロブ卿は魅力的な人だ。誰に対しても、分け隔てなく親切で穏やか。ウェイン卿が親しくなりたいと思っても、無理はない。


「ロブ卿……、ええと、そうですね。何を話しているか、と申しますと……」


 これは、今までの場繋ぎ的な軽い質問とはわけが違う。ロブ卿と仲良くなりたいウェイン卿のお役に立てるよう、真剣に考える。


「えーと、好きな本の話ですとか、王立図書館の新刊の話ですとか、あとは……けれど、どれも、わたくしに合わせてくださっているのだと思います。ロブ卿は博識で話題が豊富な素晴らしい方ですので、会話をリードしてくださいます。あまり、深く考えずとも、会話が弾みますから」


 ですから、ウェイン卿も、何も心配いりませんよ、という応援の気持ちを込める。


 赤い瞳が、ゆらり、と揺らいだ。そこに映る感情を読み取る前に、すっと視線は外されてしまう。


「……そうですか」


「はい……、あの、それに比べて、わたくしは……上手く話せなくて、申し訳ありません」


 ウェイン卿はこちらを向いて、驚いたように目を見張った。


「はあ? いいえ!」


「先ほどから、気を遣って話し掛けていただいているのに、つまらない返答しか出来ず……あの、自分のことを話すのは、あまり、慣れておりませんので……」


 ウェイン卿は、そっと微笑んだ。その微笑みは柔らかく、寂しそうでない。


「それは、わたしもです」


「そうですか?」


「はい。そうですね。自分のことを話すのは、苦手です」


「では……試しに」


 少し考えて、質問を返してみる。


「ウェイン卿の、お好きな花は何ですか?」


 ウェイン卿はちょっとびっくりしたような表情を浮かべて、しかし、律儀にもしばらく考え込む様子を見せた。


「……思い付きませんので、考えておきます」


 困ったように眉尻を下げる顔。素敵なものを見た。心が跳ねる。


「そうですよねえ。だって、花はどれも美しく可憐で、ひとつだけ選ぶなんて、難しいです。花は人が生まれるよりもずっと昔、昆虫たちに花粉を運んでもらうため、彼らを魅了するべく、あの美しい姿に進化したそうです。健気で、逞しいです。たかが生まれて十七年のわたくしは、どの花にも魅了されるだけ。優劣をつける術もありません」


 ウェイン卿は、ふわりと嬉しそうに笑った。


「なるほど」


「季節だって、色だって、食べ物だって、どれにもそれぞれ際立って良いところがあり、なかなか選べません。……あの、というのは言い訳で、わたくしは、今まで人からそういう質問をされたことがありませんでしたので、考えておりませんでした。次にお会いするときまでに、決めておきます」


 ウェイン卿は、春風のように爽やかに微笑んでから、また口を開いた。



「あの時……」


「はい?」


 咳払いの後、ウェイン卿はまた思い詰めたような顔をした。


「あの時、最初に、この馬車に令嬢をお乗せしたとき……、令嬢は、わたしに話しかけてくださったでしょう?」


「ああ、はい。そんなこともございましたね」


「わたしは……返事をしませんでした」


「ああ、はい……」


「あの時、何をお尋ねになられたか、もう一度、教えてはいただけませんか?」


 赤い瞳は、真剣な眼差しを向ける。


「ああ、はい……あの時は……」


 ――『えっと……、あの……あ! そういえば、新聞で拝見しましたが、正騎士の皆様は不思議なお力をお使いになれるそうですね。通常では考えられないようなお力が、お出しになれるとか?』


 ……今思い返しても、初対面で、おまけに命を狙われている相手に言うセリフとして、適当ではない気がする。コミュ障のコミュ障らしさが滲み出ており、哀愁すら漂う。


「……今更……、申し上げるほどのことではございませんので……お忘れください」


 ウェイン卿は、眉根を強く寄せた。


「ですが……お聞きしたいのです。お願いします」


「ああ、はい……ええっと、でも」


 キャンドルに火を灯してくれた、オデイエ卿の指先を思い出す。


「……あの時の質問の答えは、もう、別の方に教えていただきましたので」


 言った途端、ウェイン卿の瞳は揺らいだ。


「……もう、……他の人に、聞いた?」


「……はい」


(……なんで、そんなにびっくりしているんだろ?)


「……なるほど……だ、いえ、いつ?」


「……ええっと、あの、屋敷で、夜会を催した日ですが……」


「……夜会の日、というと、……そうですか、なるほど……」


 どうしてか、ウェイン卿は目を伏せる。


「……あの、そんなわけで、わたくしは、お喋りが得意ではありませんので、どうぞ、あまりお気遣いありませんように。景色だけで、十分楽しませていただいておりますから」


 これ以上、気を遣わせるのは忍びない。


 しばらく黙ってから、ウェイン卿は目を伏せたまま、わかりました、と応えた。



 外の景色に視線を移す。



 ――ウェイン卿の顔を、潤んだ瞳でずっと見つめていても許される。そんな女性は、どんな人だろう?


(……いいなぁ……)


 景色なんか、ちっとも見たくない。


(……こんなわたしじゃ、なかったら、良かったなぁ……)


 もっと気が強くて、人の言いなりになって、流されるばかりじゃなくて。


 いくら屋根裏に閉じ込められていたって、もっと頑張って、努力して、ごく普通の令嬢の嗜みを身につけておけば良かった。


 もっと早く、ブランシュに助けてって言っていれば良かった。

 勇気を出して、ランブラーに会いに行っておけば良かった。


 魔女って噂、もっと前に、王都中に広まる前に、立ち上がって、否定して、打ち消しとけば良かった。


(……そうしたら)


 ――ウェイン卿を好きでいても、迷惑をかけない、そんな女性になれていただろうか?


(……いいなあ……)


 馬車で向かい合って、潤んだ瞳で見つめて、好きって気持ちを隠さないで、へらへら笑って、しょうもないことを話しかけて、そんなことが笑って許してもらえるような、そんな女性に、生まれたかった。


 ――ずっとずっと、前を向いて、見つめていたい。


(……そんな人に、なりたかったなぁ……)



 視界を滑る景色は、少し滲んで、水の膜の向こうに揺らぐ。





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