第81話 エンチャンティドの悪魔

「令嬢、こんな感じでいかがです?」


 うきうきと明るい口調で問いかけられる。

頭上では、逞しい腕の持ち主達が、てきぱきと帆布を張ってくれている。


 頬を撫でるのは爽やかな風。海辺に棲む鳥たちが青い空に弧を描く。空と海は、肌まで青く染めてしまいそうに真っ青。深呼吸すると潮の香りが胸を満たす。穏やかな波が船の周りに白い飛沫を立て、陽光を弾いて煌めいていた。


 メイデイランドに入港するとばかり思っていた船は、港に程近い、深さのある入り江に錨を降ろしていた。小舟を利用して数人が陸に上がり、必要な物資を調達してくる。出航準備に時間がかかるのも頷ける。



「完璧です」


 見上げて言うと、揃って嬉しそうに笑う。


「海の日差しは強いですから」


「この船に居られる間は、我々が責任を持って、太陽からだってお守りしますからね」


「……ありがとうございます」


 この船の人達は、やたらと親切であった。


 食事、眠る、食事、眠るを何度か繰り返すと、船酔いは次第に治まった。凪いだ湾内に入ってしばらくすると、すっかり元気になった。


 神様、恨んじゃってごめんなさい。三半規管、大事です、と天に向かって謝罪した。


 船室は清潔で、窓もあれば、洗面台やシャワーまでついている。きっと良い部屋をわたしに使わせてくれているのだ。

 だがしかし、一週間も閉じ籠るには狭かった。


 何か手伝わせてほしい、と頼むとレオンとアナベルは戸惑いを見せた。でもなあ……という風であったが、重ねて頼むと、あっさりと許して貰い、昨日から、キッチンで食事の準備を手伝わせてもらっている。


『……伯爵令嬢……つってませんでした……?』


 汚れた食器とシンクを磨き上げ、窓と照明を拭き上げ、パン生地を捏ね上げていると、エプロン姿の紅茶色の髪の男性――プファウというらしい――から困惑気味に問われたが、色々と事情がございまして、と言うと、『なるほど、誰しも事情はありますもんねー』とあっけらかんと笑った。



 今日はなかなか気持ちの良い晴天じゃないか?と誰かが言い出して、甲板で昼食を摂ることが決まった。食堂から甲板に大きなテーブルが運ばれ、真っ白なテーブルクロスがかけられる。

 さっき作ったばかりのホワイトアスパラとルッコラと胡桃のサラダ、真イワシの香草焼き、玉ねぎとサワークリームがたっぷりのフラムクーヘン、オレンジのタルトが並ぶ。


「さ、令嬢、こちらにどうぞ」


 引いてくれた椅子には、ふかふかのクッション。

 至れり尽くせり、とはこのことであった。

 どうやら、わたしを客人として楽しませようとしてくれているらしいと気付くのに、あまり時間はかからなかった。


 礼を言って腰かけると、白いシャツの袖を捲った逞しい腕が炭酸水をグラスに注いでくれる。


 レオンもそうだが、彼らはみな引き締まった体型をしている。肩幅広く、袖を捲った腕は筋肉質。身なりは清潔に整えられている。普段は甲板を掃除したりキッチンでパンなど焼いているが、見に纏う空気は船乗りっぽくない。


(身なりきっちり、体力あって、逞しくて、基本的には女性に対して優しい)


 こういった生態の人達を、近頃、間近に見た記憶がある。


 まるで――



「すみませんね。皆、こうやって誰かに感謝されるのが久しぶりなんで、浮かれちゃって」


 隣の席では、アナベルが柔らかく微笑む。白銀の髪が陽光を浴びて煌めき、眩い。


「いいえ、こんなにも親切にしていただいて、感激しています」


 言うと、また、彼らの顔はぱあっと輝く。

 全員が席に着き、食事が始まると口々に料理を誉めてくれる。


(……いい人達だ……)


 しかし、謎は深まるばかり。こんなに善い人達が、何ゆえ、宝石泥棒などという悪事を働き、こそこそと隠れ生きているのだろう……?



「……鴉がいる」


 目の前に座る、食事中のためエプロンを外しているプファウが低い声で呟くので、視線を辿り見上げると、船のマストのずっと上の方に鴉が一羽、止まっていた。


「本当だな……」


 アナベルの相槌が苦々しく聞こえて、不思議に思う。全員がマストの上を見上げて、微かに眉をひそめていた。


「……船に鴉が止まるなんて、珍しいな」

「……まあ、陸が近いからなぁ」

「追っ払うか?」

「そうだなあ……」


 不思議に思って、尋ねてみる。


「皆様は、鴉がお嫌いですか?」


 アナベルと反対隣に座るレオンが、肘をついてホワイトアスパラにフォークを突き刺しながら口を開く。その気怠げな食べ方に、完全無欠執事ロウブリッターの面影は皆無であった。一年も成り済ますのは、大変だったんじゃないだろうか。


「令嬢は、鴉が嫌いじゃありませんか?」


「……どちらかというと、好き…でしょうか。わたくしの髪は鴉とそっくりですから、親近感を抱いております」


 目の前のプファウがふっと優しく笑う。


「令嬢がそう仰るなら、放っておきましょう」


 そうだな、と皆が頷いたのを見て、アナベルがわたしに向かって柔らかく笑う。


「令嬢は……、ご存じありませんか?『エンチャンティドの悪魔』の話」


「……エンチャンティドの悪魔、でございますか……?」


 ――聞いたことはないが、それは、とても恐ろし気で、とても――


 ――興味深い。


 怖いけど知りたい。怖がりだけど、聞きたい。後悔すると分かっていても、寝る前に怖そうな小説をちょい読みしてしまう。この説明できぬ矛盾欲求は、一体何なのであろうか。


 わたしの瞳の輝きに気付いたアナベルが、苦笑めいた微笑を向ける。


「お聞きになりたいですか?」


「はい!」



「ある国の、森の奥に棲むという悪魔の話です―――

『エンチャンティドの悪魔』と呼ばれる彼は、元々は、神々の国に棲む一柱でした」


「ある時、禁忌を犯して、神々の国を追放され、地上に墜とされて魔物となった。

 それから、数百年、数千年もの間、何人も立ち入らない、深い森の奥に独りで棲む悪魔」


「見た目は老人。高い頬骨に上に光る鋭い眼は、情け容赦ない猛禽類のよう。

 その瞳に宿るのは、ただ、人を苦しめたいという欲求のみ。

 漆黒のローブを身に纏う体の周りには、黒い瘴気が蠢いているとか」


 交互に口を開く彼らの語り口は、なかなか堂に入っていた。

 こう言った怪談の類いは、語り口のオドロオドロしさが重要であることは間違いない。いわゆる、「あ! クマの赤ちゃん!」を「悪魔の赤ちゃん」と思わせる巧みな話術。そうした意味で、彼らは素晴らしい語り手であった。


「……まあ、怖そうなお話ですね……!」


 うんうん、と皆は満足げに頷いた。


 主人公の悪魔は、夢で会った老人と外見が少し似ている気がするが、瞳に宿るものは違う。あの老人の瞳に宿っていたのは、慈しみ深い思い遣りだった。


 プファウが、アナベルの後を引き取って続けた。


「まあ、古い民話の類です。神々ですら手を焼くほどの、強力な魔力を持つ悪魔は、朝食のパンを選ぶついでに、気紛れに呪いをかける相手を選びます。

 幸福に暮らす人の上に使い魔を送り込み、黒く長い爪の伸びた指を一本、軽く動かすだけ。

 呪われた人間は、たちまち、生き地獄に陥る」


「……まあまあ……!」


「時には、欲に駆られた人間の耳元で囁くそうですよ。

 戦争を起こし、多くの血を流し、国を滅ぼした独裁者の後ろには、人々の悲鳴を何よりも好む『エンチャンティドの悪魔』の影がちらつくと云われるとか、云われないとか」


「まあ! 本当に、史上最恐に怖い悪魔の物語でございますね」


「ふふ、そうでしょう?」


 アナベルは、柔らかく微笑んだ。


 レオンが、海の向こうのずっと遠くに視線を向けて、続けた。


「俺が生まれた町では、小さい頃から、大人からずっと話し聞かされてました。

 遅くまで起きていたり、悪戯をしたり、悪いこと……誰かを傷付けたりしたら、『エンチャンティドの悪魔』が来るぞって」


「その『エンチャンティドの悪魔』の使い魔っていうのが、鴉なんです。悪魔が呪いをかける時には、必ず頭上を鴉が飛び交う」


「なるほど……そうでしたか」


 見上げると、マストの上の鴉はつぶらな瞳でこちらを見下ろしている。笑いかけると、可愛らしく首をかしげた。


「それで、なんとなく、人間が勝手に作った民話のせいで嫌われる罪のない鴉には悪いけど、苦手意識が植え付けられちゃって」


 彼らの声は笑っているみたいに明るかった。


 だけど、レオンが小さい頃の話をしたとき、彼らの瞳は、ほんの一瞬、寂しそうに揺らいで見えた。


 そのまま、彼らは少し黙ってしまう。ナイフとフォークが立てる音が、潮騒と混じる。話しかけるのは何となく躊躇われたから、そっとしておくことにした。



 聞いたばかりの『エンチャンティドの悪魔』に思いを巡らせる。


 神々の国を追われ、数千年もの間、深い森の奥に独りで棲んでいた悪魔。



(どうして、幸福に暮らす人々を呪ったんだろう?)



 どうしてか、あの日の気持ちを思い出した。


 あれは、わたしがまだ、恋に落ちる前のこと。



 ――あの日、図書館に出掛けると、街はお祭り騒ぎだった。


(……あーあ、しまったなあ)


 街の中心部に近付くと、家々の戸口には国旗が掲揚されていた。いつも通る石畳の道には、これからパーティーでも始まるみたいに舞う紙吹雪。


(……今日がそうだって知っていたら、来たりしなかった。)


 それは、戦争の後始末を終え、王都への帰還を果たした王宮騎士団の凱旋パレードが開かれる日だった。


 ドアを大きく開けた菓子屋、パン屋、レストランは、店先に台を並べて、こぞって軽食を売る。

 カップに入った色とりどりの砂糖菓子。キャラメル味のポップコーン。粉砂糖がたっぷりかかった揚げパン。冷製ニシンやサーモンのサンドイッチ。バターをたっぷり挟んだプレッツェル。ふわふわコットンキャンディ。きらきら飴細工。宝石みたいな小さなタルト。


 アイシングで白獅子、黒鷹、青い竜がそれぞれ描かれ、リボンが通されたレープクーヘンまであった。子ども達が、憧れの騎士団のレープクーヘンを買ってもらって、嬉しそうに顔を輝かせて首から下げる。


 街は、息をするだけで涎がでそうな良い香りに包まれていて、人でいっぱいで、みんな、手を叩いて、肩を組んで、歌って、嬉しそうに笑っていた。


 春の花みたいな色のドレスに身を包む、わたしと同じくらいの歳に見える少女達の明るい色の髪には、もっと明るい色のリボンや花の髪飾り。

 咲き誇る花壇の縁に並んで腰掛けて、真ん中に座る子のポップコーンに両脇に座る少女達が手を伸ばす。どの騎士様が一番好みのタイプかって話をして、笑って、光をまとっていた。少女たちの可愛い爪には、お揃いのチェリーピンクのマニキュアが塗られていた。



(みんな、幸せそうで、戦争が終わって、良かった良かった。なによりなにより)



『王宮を出発したらしい! もうすぐこっちを通るぞ!』


 誰かが嬉しそうな声で叫ぶと、辺りは歓声に包まれた。皆、わたしの知らない同じ歌を歌い出した。


(だけど、しまったなあ……)


 わたしは図書館に行くのを止めて、屋敷に引き返した。



 ――凱旋パレードは、見なかった。



 林の手前の坂道を登りながら、後ろを振り返った。その日はよく晴れていて、街の方角の明るい水色の空には、羽毛みたいな雲が散っていた。お祝いの凧がいくつも空を舞っていて、とても綺麗だった。喧騒は、もう聞こえなかった。


 林の小径を行きながら、街の人が歌っていた歌を、口ずさんでみた。


 林はいつも通り静かで、下手な歌声はひどく大きく響いた。どうしてか、無性に泣きたくなったから、歌うのは、やっぱり止めた。


 胸の内に黒い靄みたいなものが生まれて、みるみる大きく広がり始めたから、歌うのを止める代わりに、自分に向かって、言い聞かせた。


「……絶対に、絶対に、幸せそうに笑ってる人を、妬んだり、しない。」


 そんなことをしたら、もっと惨めになると、わかっていた。


 転ばないように、目を見開いて、足元のブナの根っこだけを見た。歌は大きく響いたのに、言い聞かせる声は自分でも驚くほど、小さかった。

 

「……幸せそうに笑ってるからって、その人が本当に幸せか、心にどんな悩みを抱えているかなんて、分からないんだから……」


 だから、人には親切にするのだ。偶然に隣り合った人の幸福を願うのだ。


「……人の不幸を、願ったり、しない」


 人の不幸は、わたしを幸せにはしない。そう錯覚させるだけ。その錯覚は麻薬みたいに心を痺れさせる。もっと、もっとと欲しがらせる。やがていつか、錯覚が見せる夢から醒めた時、残っているのは、惨めな自分。



 屋敷の門に辿り着くまで、何度も何度も、繰り返した。



 それから少しして、糸が絡まった鴉を助けていたウェイン卿に恋をした。


 不思議なことに、その途端、消しても消しても、胸に底に燻り続けていた黒い靄は、跡形もなく消え去った。恋の輝きはシンプルにすごい。例え永遠の片思いであっても、せめて恋する相手に少しでも恥ずかしくない人間でありたいと、心の底から願わせてくれる。



 凱旋パレード、見ときゃ良かった……!と心から悔やんだ。

 あの日、ウェイン卿は正装用の制服を着ていたらしい。髪は、ピシッと整えられていたらしい。きっと、気絶するほど素敵だった。

 いつか、過去に戻れる乗り物が発明されることがあったら、絶対にあの日に戻る。この目に焼き付けたい。



 あの時、この胸に立ちこめた黒い靄の正体を、わたしは知っている。


 あれはきっと、『エンチャンティドの悪魔』を突き動かしたのと同じもの。



 マストの上で首を傾げる、もしかしたらもしかして、悪魔の使い魔かもしれない鴉を見上げて、思う。


「……もし、『エンチャンティドの悪魔』が本当にいたとしたら、きっと、」


 突然、呟き出したわたしに、皆の視線が向く。



「――とても、寂しかったでしょうね」



 どれだけ悪いことをした悪魔にだって、一生に一度くらい、孤独を癒してあげられる人が、現れてくれたらいい。



「………そうかもしれませんねぇ」


 アナベルがそっと微笑んで、相槌を打ってくれた。


 しばらく、皆黙って食べていた。


「……これからは、鴉にも優しくするかなぁ……?」


 プファウがぽつりと呟くと、レオンが、まあそうだな、と小さく応えた。






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