第80話 ガーネット・ゼリー

 これは、海の呪いだろうか?


 あるのは、ただ、絶望のみ。


 もはや、この戦いの先に希望があるとは思えなかった。


 生まれて初めて、神を恨む。


 一体全体、どういうつもりで神は、人にこれほどの試練を与えたもうたのか?





「船酔いですね」



 あっさりと、アナベルは言った。


「なるほど……そうですか。これが、噂に聞く……まさか、これほどのものだとは……侮っておりました……」


 言いながらも、視界はぐらぐらと揺れる。胃はぎゅうぎゅうと痛む。頭はぐわんぐわんと鳴る。


 ――船に乗ったのは、生まれて初めてであった。


「ご気分が、お悪いでしょうね……?」


「……はい、ご迷惑をおかけして申し訳ないことでございますが、最悪です……」


 申し訳なさそうに問われ、ベッドに横になったまま、頷く。人様に心配をかけぬように「大丈夫」と装う余裕は、船に乗って一時間で捨てた。船酔いとは、人間らしい気遣いを棄てさせる、恐ろしき病であった。


 例えると、大きなヒキガエルを生きたまま五匹ほどうっかり丸呑みしてしまい、それが胃の中で楽しそうに跳びはねている。そんな気分であった。


「ペパーミントティーです。気分がすっとしますが、お飲みになれますか?……そのご様子では、戻してしまわれるかもしれませんね」


 昨夜、小舟に乗っていたアナベルの深い海を映したような瞳は気遣わし気に曇っていた。

 優しい顔立ちに優雅な物腰……アナベルは、そう、ウィリアム・ロブ卿の優美な気品を思い出させる。しかし、特筆すべき点はそこではない。


(眩い……)


 アナベルは、輝くような白銀の髪を持っているのだ。瞳の色こそ、赤でなく海色であるものの、


(尊い……)


 白銀の髪を見るだけであの人を思い出し、介抱してもらっている妄想が加速する。ヒキガエルを呑み込んだ胸はときめく。もはや、この恋患いは全身を侵している。別の合併症を発症させている危険すらある。


 それもこれも、例の『友人』特権のせいだ。


 ドーン公爵の手に向かって伸ばした手を横から掬い取ったウェイン卿の瞳は、嫉妬に怪しく光っていた、ように錯覚した。赤い瞳は、愛おしげに潤んで、わたしを見つめていた、ように錯覚した。手の甲に落とされた口づけには、情熱的な想いが込められていた、ように錯覚した。


 つまるところ、ウェイン卿が軽い気持ちで行う『友人』への日常茶飯事が、こっちのハートに火をつけまくってしまうのである。それどころか、思い出す度、至るところに飛び火。もう炎上、大炎上であった。


 これも一重に、世慣れぬ我が身の不徳と致すところ。ウェイン卿はご自身が放火魔になっていようとは、思いも寄らないに違いない。


 (……消火しよう。ハートを鍛えよう。不燃材に強化しよう)



「……何から何まで、お気遣い痛み入ります」


 妄想を振り払い、そろそろと起き上がると、アナベルが青いティーカップを差し出してくれる。

 ミントティーの爽やかな香りを吸い込むと、気分は少しだけマシになった。ヒキガエルは五匹から三匹程度に減った。


「いえいえ、もとはと言えば、うちのレオンが令嬢を拐かしてきたことが原因ですから。本当に、すみません。あり得ませんよねえ。人としてどうなんでしょうねえ」


「ひどい奴ですよねえ。間が抜けてますよねえ」


 途中から冷ややかに変わったアナベルの声の後、船室のドアの方から別の呆れ声が続く。


 白いエプロン姿の背の高い男性が、心配そうな顔してドアの外から銀のトレーを差し出していた。アナベルがドアの方まで歩いて行き、受け取る。


 この船には、他にも十数名の船員が乗っているらしい。

 アナベル以外の人は、わたしにあてがわれた船室の中に入っては来ない。バリアが張られているみたいに、彼らはドアのラインを越えないのだ。


 誘拐されて来たわたしを怯えさせまいと、気を遣ってくれているらしいと察せられた。

 ロウブリッターは素晴らしく気の利く執事であったが、その仲間達もまた、素晴らしい人格者であるらしかった。


 ドアの枠に体を預けたロウブリッター改めレオンは、アナベルともう一人の仲間からの冷ややかな眼差しを受け、苦虫を噛み潰しながら気遣わしげという器用な表情を浮かべている。


「大丈夫ですか? 令嬢、顔が真っ青ですよ」


「大丈夫なわけないだろ。誘拐犯」


「……しょうがないだろ。成り行き上、そうするしかなかったんだって。」


「お前なぁ……腕が落ちすぎ」


 呆れ顔のエプロン男性に返す言葉をぐっと呑み込んだ様子で、無造作に伸びたアッシュグレーの髪をかきあげる。青みがかった灰色の瞳。ロウブリッターそのままの高身長であるが、若い。声や雰囲気までも、全くの別人。

 扮装を解いたのを見た時は、自分の置かれた状況を忘れるほど驚いた。



「ところで、あの……わたくしは、いつ、船を降りられますか?」


 呑み込んだカエルを追い出す、もっとも手っ取り早い方法が、陸に上がることであるのは間違いない。


 レオン、アナベル、エプロン男性の三人は、途端にバツが悪そうに眉尻を下げる。


「早く降ろして差し上げたいのはやまやまなんですが……」


「メイデイランドには、今日中には着けそうです。ですが……」


「こっちの事情で申し訳ありませんが、荷を積み込んで、出航の準備を整えるのに時間がかかります。一週間以内には……」


「なるほど……一週間……」


 半日でこれである。

 一週間は長かった。気が遠くなる。それに……


(……心配、してるだろうなぁ……)


 ブランシュとランブラーのことが気にかかった。あの状況で行方をくらまして、心配してくれていないわけがない。

 食事はちゃんと出来ているだろうか?

 ちゃんと、眠れているだろうか?



 じわりと視界が霞むと、三人はぎよっと目を見開いた。


「ですが、できるだけ急ぎます!」


「今は波が高いですが、メイデイランドの辺りは湾になっていますから! 凪いでいるはずです! そうしたら、たぶん、きっと、船酔いも治まる……はず!」


「令嬢の船酔いが治まらなければ、別の方法も考えましょう!」


 瞬きして乾かしながらミントティーを一口飲むと、心は凪いだ。


「はい。お気遣いありがとうございます。わたくしも船酔いを克服できるように努めます」


 三人はほっと息をつく。


「満腹もよくありませんが、空腹も酔いをひどくします。何か、召し上がれますか?」


 空腹が良くないと聞き、内心で頷いた。昨夜の夜会では、やらかすまい、という緊張のあまり、何も口にできなかった。固形物を口にしたのは、ロブ卿にいただいたマカロンが最後だ。


 夜会の後で何か頼もうと思っていたのに、色々あって、胸がいっぱいで、すっかり忘れていた。


 アナベルが指し示した先には、パンやスープの他、綺麗な赤い色のゼリーがあった。


「……ありがとうございます」


 視界をぐらぐらさせながら、ゼリーに手を伸ばす。


 ひと匙、掬うとふるりと震えた。丸窓から差し込む陽光が、スプーンの上で震えるそれを透かす。

 その煌めきは、アルマンディン・ガーネットを思わせる。

 また、あの瞳を思い出し、また、胸が苦しくなって、また、溜め息が溢れそうになり、急いで口に運ぶ。

 舌の上で、煌めく宝石は濃厚な甘酸っぱいクランベリーになって、溶ける。


 冷たく甘いものが食道を通って胃にたどり着くと、カエル達は少しだけ大人しくなった。


「他に召し上がりたいものがあったら、仰ってください。持ってきますから」


 ドアの外にいる、エプロン姿の名も知らぬ栗色の髪の男性が気遣わし気に言う。アナベルが海色の瞳を優しく細めた。


「召し上がったら、眠ってください。船酔いには食事と睡眠が重要です。すぐに降ろして差し上げられずに申し訳ない。出航の準備が終わり次第、必ず、すぐに解放するとお約束します」


 感謝の言葉を述べて頷くと、アナベルは柔らかく頷き、レオンやエプロン男性と共に船室を後にした。



 閉じられた木のドアを見やり、湧き上がる疑問はひとつ。



 ―― 宝石泥棒らしからぬ、この親切な人たちは、一体、何者なんだろう……?








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