第79話 リボン(レクター・ウェイン視点)

 消えたのがロウブリッターであることは、すぐに知れた。


 捜索した執事の私室は、髪の毛一本の痕跡すら残さず、もぬけの殻。



 ロウブリッターの名を聞いたパルマンティエ夫人は、藍色の瞳を瞬かせた。


『ロウブリッターと言いますと、あのストランドのお屋敷で家令をしておったロウブリッターでございますか? 彼でしたら、一年も前に引退し、ストランドで葡萄の栽培を趣味に静かに余生を送っております。 つい先日も、ストランドの小間物屋でばったり会って、世間話を致しましたので、間違いございません』


『ロウブリッターの人相は、白髭を蓄えた、背筋の通った背の高い七十過ぎの老人か?』


 騎士の問いかけに、パルマンティエ夫人は首を横に振った。


『いいえ! ストランドにいるロウブリッターは、年はそんなものですが、小太りで丸眼鏡をかけ、どちらかと言うと小ぢんまりした人の良い老人です。髭も生やしてはおりません』




 §




 目の前に広がるのは、ただ、水のある景色だった。

 葦が生い茂る川べり。河口の向こうは海。背後には、木々が鬱蒼と茂る森。


 辺りに、人の気配は皆無。



「ここも、外れか……?」


「地下水道に続く隠し通路を見つけたまでは良かったけど……」


 キャリエールの声は、疲労と焦りを滲ませ、風の中に消える。


 一見、異常なく見えた涸れ井戸の底は、底から一メートルほど上がった部分を押すと、扉のように動いた。現れたのは、ちょうど人が通れる大きさに切り取られた穴。覗き込んだ先に見えたのは、漆黒の地下水道跡だった。ようやく見つけた手掛かり、見えた希望に気は逸った。


 ところが、いざ入ってみると、地下水道跡は、想像以上に入り組んでいた。急ぎ取り寄せたものの、古すぎてほとんど役に立たない地図と、方位磁針とランプの明かりだけを頼りに、再び人海戦術で探し回っている。


 半日探し回り、いくつもの出口から顔を出したが、手がかりは掴めぬまま。


 リリアーナが消えてから、もう丸一日近くが経とうとしていた。



(……早く、早く、見つけないと)


 ――どんな目に遭わされているか、わからない。


 真っ暗な海を前に、噛み締めすぎた唇から血の味が滲む。


 ――苦しい目に遭わされ、絶望しているかも知れない。


(……早く、一刻も早く…!)


 心も体も黒く染めてしまいそうなほど、海は暗く冷たく、救いもなく、ただ目の前に果てしなく、広がっていた。




 カァ――ッ、カア―――ッ!


 背後から、闇を裂くような鳴き声が響く。


 振り返ると、夜色に染まった木の上で、羽を休める鴉の姿があった。ラッドが訝しげに呟く。


「……鴉が、こんな夜更けに鳴くとは……珍しいな」


「あ、あれ!」


 鴉が止まる枝の下、キャリエールが指し示した先に、リボンのようなものが、風に靡いている。


 駆け上りランプで照らすと、淡緑色のリボンが木の枝に丁寧に結ばれていた。

 黒いドレスの胸元にいつも結ばれていたリボンを思い出す。

 その結び方から、リリアーナが結んだのだと、一目見てわかった。



 ―― 生きている。



 吐息が零れると、指先に血が巡り出した。


 そっと触れる。


 これを結ぶ余裕があるということは、酷い目にはあっていないのだろうか?

 怪我をしては、いないだろうか?

 泣いては、いないだろうか?


「ようやく……手掛かり、発見ですね」


「ここが当たりってことは、……ここからは船か……?」


 ラッドが呟く声を聞いて、昨夜から、何度も押し寄せては退けてを繰り返している絶望が、再び押し寄せる。船で大海に出られたら……


 ――どうやって、貴女を探せばいい?



 キャリエールが、訝しげに口を開いた。


「これ結んだの、きっと令嬢ですよね? どうして、ここに結んだんでしょう?」


 ラッドが答える。


「無事を知らせようとしたのか……?」


「そうかも……。でも、あの令嬢は、割と見かけによらないこと、するような気がしませんか?」


 その場にいる騎士全員が、同意の意を示して深く頷く。


 あの弱々しくすら見える、淑やかな見かけ。おっとりした喋り方。

 しかし、その行動はいつだって、思いもよらないものだった。


 その時、ふと閃く。


「この辺り、沖の方は波が高く流れも早い。小舟では無理だ。おそらく、それなりの大きさ。……今朝、パルマンティエ夫人が突然、屋敷に現れたことで、ロウブリッターの計画が狂ったのだとしたら、出航の準備をする時間が、充分にあったと思うか?」


「……ないだろうな。大海に漕ぎ出すには、食糧の他、大量の真水、他にも準備が必要だ」


「それなら、どこか近くで、寄港するはずだ」


 ラッドが満点の星空を見上げた。


「あの令嬢なら、星座から方角くらい読みそうじゃないか?」


 キャリエールが、方位磁針を取り出す。


 リリアーナのリボンが結ばれている木の枝は、南西を指していた。


「……ジュランビルか、もしくは、メイデイランドの港の方角かな……?」


 顔を見合わせ頷くと同時に、枝の上の鴉が羽音を立てて飛び立った。


「……あの鴉、……メイデイランドの方角に飛んで行きましたね……まあ、ただの偶然でしょうけど……」


 キャリエールが、ぽつりと呟く。


 漆黒の森に溶けてゆく鴉を見やりながら、昔、ほんの気紛れに鴉に絡まった糸を切った日を、ふと思い出した。



 §



『……ですから、お気持ちはありがたいのですけれど、わたくし、今はそういう気持ちになれませんので、』


『はっ、はい! も、も、もちろん! あ、貴女が、その気になってくださるまで、待つ所存です!!』


 その日、ロンサール伯爵邸応接室のテーブルの上にあったのは、白、ピンク、青、黄のどでかい四つの花束。


『どのお色がお好みか、解りかねましてっ!』


 汚れを知らない少年のように顔を真っ赤に染めたアラン・ノワゼット公爵が、持参したものである。


 花束を挟み向こう側。ソファにゆったりと腰掛け、婉然と微笑む国一番の美女、ブランシュ・ロンサール伯爵令嬢は、目の前に座る『今世紀最高の軍師』に向けて、冷やかな眼差しを注ぐ。


 傾国の佳人と称されるその整った顔には、はっきりと書いてあった。


『こいつ、アホのストーカーだわ……』と。



 ――全くの、同感であった。




「まあ、公爵さまったら! 本当にお上手ですのね」


「貴女ときたら、罪な人だ。どれほど美しい花や宝石ですら、貴女の華やかさの前では、ただの引き立て役となり果てる」


「まあ! ふふふ」


 王宮の夜会。多くの着飾った女性に囲まれているのは、アラン・ノワゼット公爵。二十代独身。最上級高位貴族。自称、顔面偏差値も高いらしい。戦後、英雄扱いされ凱旋帰国してからというもの、戦時中の抑圧の反動からか、浮かれまくっていた。


 二年もの間、将来有望な独身貴族の多くが戦争に駆り出され、王都を離れていた。戻った途端、こうなるのは、本人も予想の範疇だったらしい。


 微笑みかければ、豪奢に着飾った女性達は頬を染めた。おだてれば、甘い声で笑った。手を取ると、瞳を潤ませた。腰に手を回せば、くたりとしなだれかかった。耳元で囁けば、全てを差し出した。


「そう言や、グラハム・ドーンはどうしたんだ? 今日も来てないのか? 僕に負けないくらい浮き名を流してたのに、最近はさっぱりじゃないか」


 護衛として傍らに立つ、アルフレッド・キャリエールが答えた。


「昨年、新星の如くデビューした絶世の美女を一途に追っかけてるらしいですよ。」


「へえ! らしくない!」


 グラスを傾けながら、公爵はくくっと笑った。


「ロンサール伯爵家の娘だっけ? すごい美人らしいね。僕も一度、お目にかかりたいもんだ」


「……公爵? デビュー間もない純粋なご令嬢に手を出されてはいけません。お遊びの恋は、互いに了解済みの遊び馴れたお相手とするものです」


 同じく護衛として控えていたトマス・カマユーに諭され、公爵は軽く笑った。


「わかってるって。あのグラハム・ドーンを射止めたっていう美女の顔を一度拝んでみたいだけだ」


「今日、来てるはずですよ。ほら、あの人だかりの辺りじゃないですか?」


 カマユーに示され、公爵が視線を向ける。



 公爵の手から、するりとグラスが抜け落ちた。


 手を伸ばし、落下の途中に拾う。グラスは割れなかったが、中を満たしていたシャンパンは公爵の服を濡らした。


「……名前、なんだっけ……?」


「………は?」


 濡れた衣服など意に介さず、そう呟いたアラン・ノワゼット公爵は、その日その瞬間、恋に落ちたらしい。





「お花はいただきますが、こちらはお返しいたします。ノワゼット公爵閣下」


 ブランシュ・ロンサールは、大粒のサファイアが嵌め込まれた首飾りをずいっと突き返した。


「いっ、いえっ! これは、僕のほんの、気持ちですから!! あ、貴女のお美しい瞳に、よくお似合いになるだろうと思いまして!」


「いいえ、お花だけ、頂戴いたします。宝石は、いただけません」


「何も! 何も見返りを要求しようなどとは思ってもおりません。ただ、僕の想いを知っていただき! 受け取っていただけるだけで!」


「ですから、それが気味が悪いんですの。公爵様」


 だんだんとブランシュ・ロンサールの整った顔は引き攣り、瞳は冷ややかさを増す。台詞にも容赦が無くなってきた。


 こうなっては、自称、稀代の色男も形なしであると思われた。


「で、では! 何か、欲しいものを教えて下さい! 僕がご用意します! させてください!」


 ノワゼット公爵は、もはや形振り構わず、必死であった。

 自身より先に、ブランシュ・ロンサールと出会っていたグラハム・ドーン公爵が、共にドーン公爵領内狩猟場に赴く約束を取り付けたと、聞き及んだせいである。


「……特にございません」


「では! やはりこれを!」


「いりません」


「では! 何か欲しいものを!」


 堂々巡りであった。ブランシュ・ロンサールの額に、青筋が立ち始めた。


「……では……白い鴉を」


『白い鴉』


 言わずと知れた、存在しないことを証明できないもの代名詞。それを探せと命じられれば、居るか居ないか分からないけど、たぶん居ないものを永遠に探し続けなければならない。


 まともな男であれば、はっきりフラれたと自覚する場面であるが、残念ながらこの時、ノワゼット公爵は、まともではなかった。恋に狂っていた。


 ブランシュ・ロンサールは瞳を眇め、ノワゼット公爵は顔を輝かせ、護衛として立つ騎士達は、色を失くした。


(((……それ、絶対、俺たちに探させるじゃん……っ!)))


 その場にいた全ての黒い騎士が、真剣に転職を考え始めた時、応接室の窓の向こうから、泣き喚く鴉の声が聞こえてきた。


 はっきり言って、このメビウスの輪と化した部屋から出たかった。


『騒がしいので、何とかしてきます』


 そう言って、庭に出た。


 釣糸が羽に絡まり、飛べなくなった鴉は、暴れ狂って鳴いていた。


 近付いて捕らえ、小刀で糸を切った。


 鴉は何度か羽ばたくと、空に向かって飛び立った。




 幸いにも、ブランシュ・ロンサールは『白い鴉』をすぐに取り下げたらしい。色を失くした騎士達を哀れに思ったのだろう。


『皆さんも大変ですわね……』と騎士達を労い、その場に残っていたカマユー、アイル、エルガーの三人は、ブランシュ・ロンサールに心酔する運びとなった。



 絶対に無理だろ、と第二騎士団の誰もが思っていたが、ノワゼット公爵の恋は、それから一年半ほど後、奇跡が起きて実ることになる。




 メイデイランドの方角、闇に溶けた鴉の姿は、もう見えなかった。



 けれど、思い出す。



 ――あの日、見上げた空は、抜けるように高かった。




 あの時、あの屋敷の中、まだ見ぬ彼女は、そこにいたのだ。



 貴女も、あの空を見ただろうか?



 ―― 必ず、見つけてみせるから。



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