第68話 絡まった糸、ほどける


「それは……つまり……?」


「はい。リリアーナ様は間違いなく、ロンサール伯爵様のご息女でございます。

 私だけでなく、当時この屋敷にいた、どの使用人にお尋ねいただいても、同じ返事を致すでしょう。私共にとっては、あまりにも当然のことで、先程、伯爵様にお聞きするまで、まさか今日までリリアーナ様が誤って信じておいでとは、夢にも思いませんでした」


 唖然と固まるわたしに向かって、パルマンティエ夫人は続けた。


「ハイドランジアと紛争が始まった時、私共は皆、旦那様が無事にお戻りにはなられないことを、何となく察しておりました。旦那様はずっと、一日も早くキャサリン様の元に行くことを願っておられましたから」


「わたしのせいで……お母様は亡くなったから……」


「いいえ。前の伯爵様は、誰かをお恨みになっていたわけではございません。ただ、夢の中に居られたかっただけ。

 リリアーナ様のことも、閉じ込めるくらいならいっそ、寄宿学校に送られてはどうかと、当時の使用人の中には進言した者もおりましたが、手放そうとはなさらなかった。

 きっと、心の奥底では、大切に思われていたのだと思いますよ。

 リリアーナ様を遠ざけられたのは、ただ、キャサリン様に瓜二つのリリアーナ様をご覧になるのが、お辛かったからでしょう。旦那様は、肖像画も何もかも、そう言って焼いてしまわれましたから……」


 たった一度限りの抱擁は、優しくて暖かったことを思い出す。


 ――なぜ、あの時、妻の望みを叶えてしまったのか?


 ――どちらを選ぶことが、正しかったのか?


 その思いが、ずっと父を苦しめていたのだろうか。


「ですから、遠く離れたストランドに前伯爵様の訃報が届いた時、わたくしとミズ・ヴィオレは、ほっと致しました。これで、旦那様はようやく安らぎを得られた、と。

 後を継がれた新しい伯爵様は、有能でお優しい方だと伝え聞いておりました。てっきり、リリアーナ様の不遇を囲う暮らしも終わり、幸せにお暮らしに違いない、と信じ切っておりましたから」


「いや、それは本当に、僕が悪かった。ちょっと、こっちはこっちで色々と誤解があったもんだから……」


 ランブラーが申し訳なさそうに眉尻を下げるので、慌てて首を横に振る。


「いいえ。そもそも、わたしが勝手に、見たものをそうだと思い込んで勘違いして、誰にも打ち明けなかったせいですから」


 頭がぼんやりして、すべてを理解するのには、時間が必要だった。


 あの時、ランブラーを呼び止め、助けを求めることもできた。

 ブランシュに、折りを見て打ち明けることもできた。


 それを「しない」と選択したのは、自分自身だ。


 どちらにしても確かなことは、わたしの存在が、父から母を奪った、ということで――


 わたしの顔を見て、ランブラーは口を開いた。


「リリアーナが何を考えているか、なんとなくわかるけど、僕は悪いけど、伯父上に同情する気にはなれない」


 きっぱりとランブラーが言い切って、わたしを優しく抱きしめた。

 その口ぶりから、ランブラーが伯爵家に寄り付かなかった理由は、父にあるのではないか、と思えた。


「伯父上のことは、もう済んだことだ。大事なことは、君が間違いなく伯爵家の娘で、僕の従妹で、誰からどんな中傷も受ける謂れがないってことが、はっきりしたってことだよ」


 ランブラーが、わたしの頭を優しく撫でながら言った。


 ううっと嗚咽が漏れ聞こえたので隣を見やって、仰天した。

 ブランシュが、顔を覆ってハンカチをびしょびしょに濡らしていた。


「リリアーナ……。わたし、他の人から聞いたことを真に受けて、何も知ろうとしなくて、貴女に嫌われたと思い込んで。貴女にばかり、辛い思いをさせたわ。本当にごめんなさい。悪い姉だったわ……」


 ブランシュに言われて、わたしは驚いて顔を上げた。いつも、どんなときも、明るく笑っていた姉。


「それは、わたしの方だわ。ブランシュ、いつも優しくしてくれたのに、今まで、ひどい態度をとって、傷つけて、ごめんなさい」


 ブランシュのほっそりした体に腕を回す。


 さっき、その細く小さな体で、自身よりもずっと大きな公爵と騎士達に怯まず、堂々と物を言うブランシュを見て、わかった。



 ―― ブランシュは、ずっと独りで戦っていたのだ。

 


 心が壊れた虚ろな父。引き籠る妹。母は亡くなり、頼りにできる使用人達は次々に居なくなった。


 ブランシュは独りきりで、この大きな屋敷を女主人として支え、生き馬の目を抜く社交界に君臨するまでになった。


 美しく、優しいだけでは、いられなかったに違いない。


「ブランシュ、わたし、ブランシュの傍に近付けたらいいのにって、ずっと夢に見ていたわ」


「それは、わたしもだわ。これからは、ずっと一緒にいましょう」


 わたしが今まで孤独の中で耐えられたのは、ブランシュがいたからだ。ブランシュは悪評立つ妹を追い出すことだって出来たのに、決して見捨てなかった。


「だけど、これが現実になったのは、公爵様のお陰だわ。ずっと願っても叶わなかったことが、ブランシュが公爵様と婚約して、わたしが毒を入れたと勘違いされたおかげで、こういう結果になったんだもの。

 公爵様がいなかったら、ランブラーは屋敷に戻っていなくて、パルマンティエ夫人にこうしてお会いすることもなくて、わたしは今もきっと、顔を隠して屋根裏で暮らしてた」


 それから、ブランシュの優しい色の瞳を見つめて続けた。


「ブランシュだって、本当は、自分の気持ちをわかっているでしょう?」


 ブランシュの頬が赤くなり、唇をぎゅっと閉じた。公爵の方を見やってから、何かを決めたみたいに、意思の強さが宿る瞳を瞬いた。


「だけど、これだけは確かよ。リリアーナがアランを見ると、怖い思いをするなら、わたしはこの人をこの屋敷に入れない。この人の騎士だって、屋敷にも貴女にも近付けさせない。ここは貴女の家だもの。当然でしょう?」


 それを聞き、公爵が不安げに身じろぎするのがわかった。


「公爵様だって、ご自分がなさったことを考えれば、当然だとおわかりでしょう?」


 ブランシュに問われて、公爵は青ざめて頷いた。


「ああ、……もちろん……。だが、もし、機会を与えてもらえるなら――」


 消え入りそうな声で言い淀む公爵を遮って、ブランシュは口を開く。


「リリアーナ、貴女はわたしの為に、我慢しようとしていない?」


 ブランシュの碧い瞳は、わたしの目を真っ直ぐに見ていた。


「そうやって、人の為だけに生きなくてもいい。

 貴女の人生は、一度しかない、貴女だけのものよ。他の人に気を遣って、我慢なんてしなくていい。

 自分のしたいように、欲張って我が儘を言って、心から笑って生きたらいい。

 嫌なものは嫌だと言って、貴女を理不尽に傷付けようとする人がいたら、怒って、戦って、遠ざけたらいい。

 わたしが一緒に戦ってあげる。わたし達は家族なんだから、当然でしょう?」


「ブランシュ……」


「そのときは、僕も仲間に入れてよね」


 後ろで、ランブラーも微笑んだ。


「……できれば、僕も入れてもらえると嬉しいんだが……」


 ノワゼット公爵が、消え入りそうな声でそう呟く。


 ブランシュは、あの老人と同じことを言った。


『欲を張ったって、良かったんだよ』


 ずっとずっと、ひとりぼっちだと思っていた。


 ――誰も、助けてくれない。こんなわたしに、味方してくれる人なんていない。みんな、わたしが嫌いなんでしょう?それなら、もうずっと、独りでいい。



 だけど本当は、ずっと独りじゃなかったのかもしれない。



 想像してたよりもずっと、外の世界は柔らかくて、手を伸ばせば、助けてくれる手は沢山あって、足を踏み出した先は、優しいものでいっぱいだった。


 ブランシュは、優しく問うた。



「リリアーナの望みは何?」



 ――わたしの望みなら、ずっと前から、最初から、決まっている。



 毎日、屋根裏の窓から眺めていた。キラキラ煌めく光を纏う、わたしの希望と憧れ。


 絶対に叶う筈がないと、諦めていた望み。


「わたしの望みは――」



 いつか、世界一幸せな光に包まれる姉の傍に立って、言うのだ。



「ブランシュが、世界で一番、大好きな人と結婚する時、世界で一番、幸せになるブランシュの傍にいたいわ」



 ――『おめでとう、幸せにね』と。



 ブランシュの碧い瞳が潤んで揺らいだかと思うと、しなやかな腕が伸ばされて、わたしをぎゅっと抱きしめた。



 §



 公爵とブランシュを残して、他の者は部屋を出た。


 ノワゼット公爵は何があってもブランシュを諦めないだろうし、ブランシュだって公爵を愛している。


(何もかも、全部、元通りになる)


 

 部屋を出たウェイン卿ら騎士達に、そっと近付く。


 (早く、謝ってしまおう)


 彼らはきっと、これからも公爵に付き従って、この屋敷にやって来る。どうしても、顔を合わせる機会はあると思う。


 だけど……


(もう、近付いたりしない)


 彼らが毒事件の真相を知りたがっていると知りながら、わたしは真相を隠した。アリスタの為だったとはいえ、そんなこと、彼らには関係ないことだ。


 ――騙して、裏切ったのと同じこと。


 捨てると、忘れると、あの夜にもう、決めたから。


 ――これを最後にして、遠くから見るのも、もうやめる。



(最初に戻るだけ)


 最初から、近付きたいなんて、願いもしていなかった。

 この想いは、誰にも悟らせないまま、墓場まで持って行くと決めていた。


 ――だから、その通りになるだけだ。



「皆様、この度は、本当に申し訳ありませんでした」


 騎士達に向かって、頭を下げる。


「ええっ! いや、こっちが、こっちが悪かったです」


「そうです! 令嬢、本当に、ごめんなさい」


「本当に、申し訳なかった」


 キャリエール卿、オデイエ卿、ラッド卿の声が聞こえた。



(やっぱり、優しい人たちだったなぁ……)



「令嬢」


 ウェイン卿の声が聞こえた。


「令嬢を傷つけるような計画をして、不安を与えたこと、心から、お詫びします」

 

 初めて聞いた時の鳥肌が立つような冷たい声とは全然違う、低くて深みのある、とても素敵な声だった。


 この声を聞けることは、きっともうない。


 声の届く距離には、もう近付かない。


 だから、忘れないように覚えておこう。


「いいえ。……短い間でしたが、お世話になりました。これからも陰ながら、ご活躍をお祈りしております。どうか、末長く、お元気で」


 俯いたままそう言うと、ウェイン卿がそっと息を吐く音が聞こえた。




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