第65話 優しい世界
――わたしの住む世界は、変わった。
あれほど手の届かない場所にいたブランシュと、ほとんどの時間を共に過ごしている。ランブラーも毎夕、王宮から屋敷に戻り、朝食と夕食は必ず一緒に摂る。ロブ卿も、度々屋敷を訪れ、食事を共にした。
使用人達まで、どういう訳か、人が変わったように優しい。
先日、ブランシュと二人で東屋で昼食を摂った。卵とサーモンと野菜がたっぷりの蕎麦粉のガレットと共に、林檎果汁のサイダー割りで喉を潤していると、料理長のモーリーがそろそろと横に立った。
「……あの、リリアーナお嬢様、今まで、本当に、申し訳ありませんでした……」
真っ青な顔に、瞳に涙を張って言い出したので、……何が? と仰天した。
「まあ、どうしたの?……なぜ、謝るの? 貴方のお料理はずっと、特別美味しいわ。毎日ずっと、どんなスープを作ってくれたのか楽しみだったもの。特にオニオンスープなんて絶品じゃない? あの……、良かったら、また作ってね」
「……お……お嬢様……っ!!」
どういう訳か、モーリーは泣き崩れた。
それからというもの毎日、三食のうち一回は必ずオニオンスープが出る。しかも、焼いたバゲットととろりと溶けた熱々のチーズ入りの最高に美味なオニオングラタンスープにグレードアップしていたりする。
わたしは今、小さい頃から、憧れ続けた世界そのものにいた。
突然、優しい世界に放り込まれたようで、楽しくて、幸せ……
などと呑気に浮かれている場合では、――ない。
(……問題があるのだ。この上なく、大きな問題が)
ほぼ毎日、屋敷に入り浸り、ブランシュを崇め奉っていた、あのノワゼット公爵が、
――今日もまた、屋敷に来ないのである。
屋根裏の窓から、夢に酔うように眺め見ていた、煌びやかな光を纏う馬車と騎馬の一群。騎馬の一つには、たいていウェイン卿の姿があって、そこだけが一際、輝いて見えた。
今にも現れるのではと、いつも門の方を気にしていたが、一向に現れないまま、一週間以上が経過している。
……これは、もしかしなくとも、原因は、自分であると思われた。
あの夜、ロブ卿に付き添われ、あの場を離れた後、ブランシュ、ランブラー、ノワゼット公爵と騎士達の間で、何が話されたのか、わたしは知らない。
折りを見て、おそるおそる、ブランシュとランブラーに尋ねてみた。
ブランシュは、ふふっと天使のように優しく瞳を細めて、美しい微笑を浮かべた。
『大丈夫、リリアーナは何も心配しなくていわ。存分に思い知らせましょうね』
ランブラーは、ふっと美しく笑って、遠い目をした。
『人は、挫折を味わってこそ成長し、優しくなれる。上に立つ人間は優しくないとね。……ってことで、もうちょっと放置でいいんじゃない?』
よく、分からなかった。
しかし、察することはできる。
おそらく、きっと、ノワゼット公爵は、
――激怒しているのだ、このわたしに。
部屋で一人、頭を抱えると、うう……と情けない声が漏れた。
わたしだって、あんなことをぶちまけた以上、もう二度と、合わせる顔などないと分かっている。ウェイン卿も、もうこんな顔、二度と見たくないと思っているに相違なかった。
わたしは真相を知りながら、証拠を隠滅し、ウェイン卿に偽装まで頼んだ。
公爵と第二騎士団を謀ったのだ。怒りを買って、至極当然である。
これはもう間違いなく、わたしのいる屋敷になど、寄り付きたくもない、と思われている。今頃きっと、リリアーナ・ロンサールを合法的に排除する準備に取り掛かっているに違いない。
公爵閣下を謀り、証拠を隠滅した罪……良くて王都追放。通常の流れならば牢獄行き。あるいは国外追放……。考えたくはないが、島流し……程度の可能性は視野に入れ、覚悟と準備をしておくべきであると思われた。
長椅子に腰掛け、本の頁をぺらりと捲る。『無人島で生き残る方法100――身に付けるべき知識と持参すべき道具』。来るべき日のために集中しなければと思うのに、文字はただ視界を滑るだけで、少しも頭に入ってこなかった。
ウミガメを捕獲する方法が書かれた箇所から、少しも先に進まぬまま、何度も、はあ……とお腹の底から大きな嘆息が落ちる。
あの時の、ウェイン卿の落胆したような様子を思い出さない時はない。
――何もかも知っているような口を利いて、何様のつもりだと思われたに決まっている。
(……できるなら、最後の幕引きは、そっと綺麗に、済ませたかった)
屋根裏で独りぼっちでも、あの人を想うと、束の間、世界は輝いた。
――だけど、それすらも、もうできない。
あんな滅茶苦茶に終わらせてしまったのだ。
この先どうなるにしても、想う度、蘇るのは苦い記憶だけ。
氷みたいな赤い瞳は、気紛れに優しい光を宿した。
冷たかった声は、ほんの時折、温かい言葉を紡いだ。
傷付けると思っていた強い手は、歩き疲れたわたしの手を引いた。
――何も知らないままでいた方が、ずっとずっと良かったのに。
§
翌日。
ランブラーが、わたしの客人と言う人を屋敷に連れ帰った。
「お会いできて光栄です。レディ・リリアーナ」
「わたくしこそ、お会いできて光栄です。グラミス伯爵様」
ロンサール伯爵邸の応接室にて、目の前のソファに腰掛けるのは、以前、この命を助けていただいた恩人であるコーネリア・グラミス伯爵夫人の夫である、グラミス伯爵だった。
丁寧に整えられた白髪交じりの頭の下には、気品漂う優しい顔立ち。『春の日差しのような人』とコーネリア夫人が言っていた通りの温和な人柄が、一見するだけで伺い知れた。
「夫人とお知り合いだったとはね。グラミス伯爵が王宮の政務室にいらして、リリアーナに会ってみたいと仰るから、驚いたよ」
わたしの隣に座るランブラーが、ティーカップを持ち上げながら穏やかに笑って言った。
「以前、わたしの妻と息子が、レディ・リリアーナにとてもお世話になったそうで。その節は、本当にありがとう。貴女がいなければ、今頃、わたしはどうなっていたかわからない。ぜひ一度、会ってお礼申し上げたいと思っていました。ロンサール伯爵に無理を言って押しかけたりして、すまないね」
「まあ、いいえ。あの時は、色々と事情がございまして、助けていただいたのは、わたくしの方でした。わたくしこそ、改めてお礼申し上げたいと思っておりました」
グラミス伯爵は、ふふっと穏やかに笑った。おそらく人生の悲喜を乗り越える度に刻まれた年輪が、優しい皺を刻む。
「ポールは、わたしの養子にすることにしました。いずれ、跡を継がせるつもりです。妻も貴女に会いたがっている。また、我が家にもぜひ、いらしてください」
「はい。とても光栄で、嬉しいです。ありがとうございます」
グラミス伯爵の幸福そうな様子が嬉しくて、笑ってお礼を述べると、グラミス伯爵は柔らかく目を細めた。
「そうして笑われると、お母上にそっくりだ。うちの別邸はバーガンディ地方にあります。貴女のお母上のご実家の近くでしたから、キャサリン夫人が、まだほんのこれくらいの小さい頃から、交流がありました」
グラミス伯爵はソファーの背もたれくらいの高さで片手を止めて、当時の母の身長を示して見せた。
どきり、と胸が鳴り、思わず隣に視線を送る。 ランブラーは涼しい顔で、優美な仕草でティーカップに口を付けていた。
グラミス伯爵は、にこにこしながら、先を続ける。
「姉君のレディ・ブランシュは前伯爵のピエールによく似ていらっしゃるが、レディ・リリアーナはキャサリン夫人似ですな」
「あの……そうですか……?」
もう早く、この話は終わって欲しかった。
グラミス伯爵は古参の貴族で、交友関係も広い。両親を知っていて、何ら不思議はなかった。迂闊だった。
――気付くだろうか? もう、気付かれただろうか? 両親ともに金髪なのに、わたしの髪は黒いことを。
ランブラーとブランシュには、もう隠れなくていいと言われたけれど、やっぱり、帽子を被るべきだったのだ。わたしの心臓はばくばくと鼓動を早めた。
もう一度、隣をちらと見ると、ランブラーはまったく意に介さない風に、涼しく微笑んでいる。
「ええ。レディ・リリアーナはキャサリン夫人を思い出させる。お母上も貴女のように、美しい黒髪をしていらしたから」
………………?
「………え?」
ぽかん、とするわたしを前に、グラミス伯爵は、ひとしきり『キャサリン』の思い出話を繰り広げた。
明るく気さくな性格で、いつも親しい友人達に囲まれていた。ピアノを弾くのが得意で、冬祭りのパーティーで披露した歌声も素晴らしかった。思い浮かぶのは笑顔ばかり、怒り顔や悲しい顔を人前では見せない人。
グラミス伯爵から聞く『キャサリン』の人柄は、素晴らしいものだった。
しかし、どう考えても、人違いであった。
キャサリンは、よくある名だ。グラミス伯爵のよく知る『キャサリン』は、母の実家があったバーガンディ地方に住んでいた、母とは別の『キャサリン』であると思われた。
―――母の髪は、間違いなく、金色であったのだから。
ひとしきり歓談したあと――わたしはほとんど相槌を打つだけであったが――、ではまた近いうちに、と言って馬車に乗り込むグラミス伯爵と別れの挨拶を交わした。
エントランス階段の上で正門に向かう馬車を見送りながら、ランブラーは顎に手を当てて、小さく呟いた。
「………やっぱりねぇ」
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