第49話 朝の散歩道

 春の始まりを告げる可憐な花々が咲く庭には、早朝のさわやかな風が吹き抜け、心地よい。


 丁寧に刈り込まれたイチイの生け垣に囲まれた白い砂利道を、公爵と並んで歩く。


 ――周りには、誰もいなかった。


 公爵が人払いをしたのだろう。


 公爵は穏やかな顔つきで、わたしを見た。朝日を浴びて、亜麻色の髪がきらきらと輝く。ブランシュとお似合いの、美しい人だな、と思う。


「レディ・リリアーナ。僕は、ブランシュを心から愛しています。だから、ブランシュの敵は僕にとっても敵です。ですが、もし味方なら……僕にとっても味方です。……貴女はブランシュの味方ですか?」


 わたしは、ゆるゆると頷く。


「わたくしは、それだけは神にかけて誓えます。心から、ブランシュを愛しています。姉の幸せを願わなかったことは、一度もありません」


 これだけは、嘘偽ることなどできない。


 ブランシュは、いつだって、この人生の希望だった。ブランシュがいなかったら、わたしはもっと真っ暗な闇の中にいただろう。


 公爵は、柔らかく目を細め、頷く。


「……僕は、なぜ貴女がいつも顔を隠しているのか、ずっと不思議でした。ブランシュもわからないと言っていた。だから、僕は一般に信じられているように、レディ・リリアーナは幼い頃に重い病気にかかり、顔にできた傷跡を隠している、という説を信じていました」


 公爵は、淡々と話し始めた。

 その口調は優しく、昨夕、垣間見た冷淡さはもうない。


「しかし、昨日、貴女の顔を初めて見て、その説が間違っていることを知りました。貴女の顔に傷はなかったし、隠すべき理由も見当たらなかった。それどころか……」


 公爵は手を上げ、驚いた、という仕草をした。


「それについて、昨夜、考え続けていました。そうしたら、ひとつ、思い出したことがあります。

 ……貴方の父上、先代のロンサール伯爵は、金髪碧眼の、ブランシュと面影の似た方でした。

 妻のキャサリン夫人が亡くなられた時、思い出すと悲しみが増すと、夫人が描かれた肖像画や写真を全て焼き捨てた、と聞いています」


 どきり、と左胸が鳴る。


「しかし、わたしは昔、貴女の母上であるロンサール伯爵夫人にお会いしたことがあるのです。あれは、王宮での茶会でしたか……大変、美しい方だったように記憶しています。あの頃、わたしはまだほんの子どもでしたが」


 わたしの心臓は、今にも壊れそうな音を立て拍動し始めた。


 いつか、こんな日が来るだろうと、思っていた。


 ――今日が、その日なのだ。

 

「その帽子を、取っていただけますか?」


 公爵はあくまでも優しく、ゆっくりと言う。

 わたしは俯き、言われるがまま、震える手で帽子を外す。


 公爵はわたしの闇のような髪と瞳を確かめるように眺めてから、続けた。


「ずいぶん昔のことですから、瞳の色までは覚えていません。しかし、キャサリン夫人はたしか、先代ロンサール伯爵やブランシュと同じ……蜂蜜のような、明るい金色の髪をしていたように思うのです」


 目を瞑り、開くと視界がじわりとぼやけた。指先がすうっと冷える感覚がして、自分でも血の気が失せてゆくのがわかる。

 

 公爵がわたしの顔を気遣わしげに覗き込む。


「大丈夫ですか? 顔色が良くない。さあ、ここに座って」


 公爵の手に促されるまま、ベンチに腰掛けて、わたしは口を開いた。


 わたしは、世間を知らない。


 けれど、新聞にはこの国の貴族社会がどれほど血統を重んじ、醜聞を嫌うかについて、毎日毎日、詳細に綴られていた。

 だからこそ父は、わたしを閉じ込め、決してこの髪を人に見せるな、と命じたのだ。


 口から出てきたのは、自分でも驚くほど、弱々しく震える声だった。


「公爵様、わたくしの存在が、ブランシュにとって、伯爵家にとって汚名となることは分かっています。ですから、わたくしはここを去るつもりです。もっと早く、そうしておくべきでした。姉のことをどうか――」


 よろしくお願いいたします、と言おうとしたところで、公爵は、わたしの両手を自身の両手で包んだ。


 なら、さっさと消えてくれ、と罵る声を覚悟したわたしの耳に、独り言のように、呟く声が届いた。


「ではやはり、理由はそれか……」


 これ以上、口を開くと、涙が零れ出てしまいそうだった。唇を引き結んで、こくりと頷くと、公爵は、明るい声で、笑った。


「はは、そうか、そうか! 良かった。これで、問題は一つ、解決した」


 驚いて顔を上げると、はずみで涙が一粒、ぽろりと零れた。公爵は晴れやかな目をして、わたしを見ていた。


「大丈夫。貴女をここから追い出したりしないし、閉じ込めたりもしない。これからは、貴女は貴女の生きたいように生きて、ブランシュと一緒にいればいい」


 耳に届いた信じられない言葉に、返す言葉を失って、公爵の顔を見た。

 公爵は優しく目を細め、穏やかな声で続けた。


「さっき言ったでしょう? これからは貴女の兄として、僕が貴女を守ります。貴女は、僕が命よりも大切にしているブランシュの妹なんだから。貴女は僕のことをよく知らないかも知れないが……。十七、八年も前のスキャンダルを持ち出して、この僕に大っぴらに喧嘩を売ろうとする人間は、この国には、まあ、まずいない」


 公爵の瞳は、いたら破滅させるからね、とでも言いたげに光ったが、すぐに、わたしを安心させる穏やかな色に戻った。


「さあ、もう大丈夫。第一、こんなことで令嬢を追い出したりしたら、あいつらに何を言われるか。昨夜だって、さんざん白眼視されたんだから」


 意味が分からず、ぽかんとするわたしに向かって、公爵はまた、ははっと明るく笑った。


「さあ、今からブランシュも一緒に朝食をとりましょう。くだらない面子の為に失われた姉妹の時間を取り戻さなければ」


 ――本当だろうか?


 本当に、五歳のあの日からずっと思い悩み、苦しんできたことが終わるのだろうか。


 ――そうだとしたら、


 もし、そうだとしたら、やはりあの林は魔法の森だったのかも知れない。


 夕暮れの中、ウェイン卿に手を引かれて木立を抜けた時、ずっと夢に見ていた孤独でない世界に、辿り着けたのだから。

 



「何を、しているんですか?」


 低く、怒りを含んだような声が響いた。


 どきりとして声の方を向くと、ウェイン卿が屋敷の方向に立ち、こちらを鋭い目つきで見ていた。


「……あー、見つかったか」


 公爵はそう言うと、安心させるように握っていた手をぱっと離し、立ち上がる。


 ウェイン卿は、途中の低い生け垣を軽々と乗り越え、直線でこちらに向かってくる。その瞳はいつもよりも一層、赤く煌めいて見えた。


「落ち着け、レクター。義兄として、令嬢の悩みを聞いていただけだから」


「兄として……? 悩み、ですか?」


 今日のウェイン卿の瞳は、まるでそれ自体が光を発しているかのように見える。陽の光の加減だろうか。


 その目は公爵を見据えていたが、ちらりとわたしの方へ視線を向けたかと思うと、ぴた、と固まったように立ち止まった。


 さきほど、頬に零してしまった一粒を慌てて掌で拭い、瞳に滲むものを瞬きで打ち消しながら立ち上がる。


「……公爵?」

 

 ウェイン卿が、煌めく瞳で公爵を見やりながら、低い声を出す。


「本当だって。令嬢にも聞いてみろ」


 言われたウェイン卿が、こちらに物問いたげな目を向けた。


「はい。公爵様のおっしゃる通りでございます」


 ただならぬ雰囲気に、わたしも慌てて言った。


「……わかりました……」


 ウェイン卿が、渋々、といった風に頷くと、その瞳はいつもの落ち着いた赤い色に戻った。


 ――なんだったんだろう……? 今のは。


 ウェイン卿の視線はわたしに注がれたままだった。なんとなくどぎまぎしながら、朝の挨拶と昨日の礼を述べる。


 公爵は、ひどく機嫌が良さそうにわたしとウェイン卿を見比べ、鳶色の瞳を三日月型に細める。


「そうそう、令嬢にもうちの騎士をお付けします。外は危険が多いし、例の毒事件だって真相はいまだ闇の中ですから」


 わたしは驚いて、はっきりと口を開いた。


「ご配慮、痛み入ります。ですが、わたくしのような者には、過ぎたお心遣いかと存じます。わたくしのことは、どうぞお気遣いありませんように」


 ノワゼット公爵の騎士、とは、つまり王宮第二騎士団の騎士である。歴戦の勇士。国の英雄。そんな人を、このわたしに付けると言い出すなんて、おかしい。絶対におかしい。


 思い付く限り、最上の笑みを浮かべて言い切ると、公爵とウェイン卿は固まった、ように見えた。公爵がウェイン卿の顔をちらと見ながら口を開く。


「……でもなあ、令嬢は知らずにいた方が良いことだから、説明は省きますが、この世の中には意外と起こるものなんですよ、想定外の、良くない事態が。騎士なんかやってると、そういうのもよく目にする機会がある。

 令嬢のような方には、護衛騎士が必要です。逆に、今まで独りで無事だったのがおかしいくらいだ」


「……そうです。そもそも、この屋敷に専属の護衛騎士がいないのは、公爵がレディ・ブランシュに自分の配下以外の騎士を近付けたくないと言って、雇わせなかったのもあります。ですから、令嬢が遠慮されることはありません」


「そうそう。だって、心配だろう? 護衛騎士に守られてるうちに、令嬢が恋に落ちちゃうって話、よく聞くだろ? ねえ、レクター?」


 悪戯を思いついた子どものような満面の笑みを浮かべた公爵が、ウェイン卿を見やる。


「……いや、それはよく知りませんが、兎に角……、この屋敷には、手持無沙汰な第二騎士団うちの騎士がうろうろしていますから、令嬢の護衛くらい――」


 公爵とウェイン卿の仲の良い掛け合いのような話を聞きながら、考える。


 騎士……騎士の制服を身に纏う、目の前に立つウェイン卿の顔をそっと見上げてみる。

 赤い瞳と目が合うと、何か言いかけた途中で絶句したように口を開けたまま、ウェイン卿はなぜだか固まった。


 ……まばゆい。今日も今日とて、玲瓏と輝くご尊顔を直視し続けることにすぐに限界を感じ、ついと目を逸らす。


 ――駄目だ。絶対に、駄目だ。


 顔面の平静を装って、その顔を見られるのは、せいぜい二秒が限界。


 いや、ウェイン卿がわたしの護衛に付く訳ではなかろうが、他の騎士だって、やっぱり良くない。


 公爵が天上人なら、その配下の騎士もまた、天上人。違う星の下に生きる人たち。そもそも、同じ場所の空気を吸わせてもらうことが、おこがましい。



 ――何と言われても、ここは流されまい。



「過分なお心遣い、感謝いたします。ですが、わたくしにはやはり必要ありません。お気持ちだけ、ありがたく頂戴致します」


 できるだけ感じ良く断りの言葉を口にすると、ウェイン卿の下瞼が、昨夕のように、ふるっと震えたように見えた。


 公爵は眉尻を下げて困ったような表情を浮かべながら、ウェイン卿の顔を見やったかと思うと、くくくっと可笑しさを堪えるように笑った。


「まあいいや、令嬢もいきなり色々言われても困るだろう。副団長、後で説得しときなさい」


 公爵に命じられた途端、愕然とした表情を浮かべ、恨みがましいような視線を公爵送るウェイン卿の顔を見返して、公爵は、ははっと嬉しそうに笑った。


「とりあえず、朝食に行こう。連れてきてくれたか?」


「はい」


「わかった。令嬢、さ、行きましょう」


 

 はい、と答え、再び帽子を被り、ベールで顔を隠した。


 十二年も、こうして生きてきた。

 突然、もう好きに生きて良い、と言われても、俄かには「はい、そうですか」と信じ難い。当然ながら、様子を見るべきであろう。


 そして、促されるまま、食堂に向かった。



 一体、誰を連れてきたのだろう? と思いながら。





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