第50話 海底で朝食を
十二年ぶりに足を踏み入れた、幼い頃に『海底』と呼んでいた東棟のホールは少しも変わっていなかった。
東側にとられた白枠の大きな掃き出し窓、蔦模様の飾りのついた青い壁アクアマリン色のシャンデリア、マーブル模様の白大理石の床を見回す。
あの日と同じように『海底』には朝日が燦々と降り注いでいた。
あの朝の優しい情景と、もう会えない人達の顔が昨日のことのように思い出されて、懐かしさが込み上げる。
青いモザイクタイルの食卓に先に着いていたブランシュは、立ち上がってわたし達を出迎えてくれた。
ミントグリーンの上品なマーメイドラインのドレスを身に纏ったブランシュは、幼い頃に憧れた、人魚姫のように美しい。けれど、その面持ちは不安そうだった。
「おはよう、リリアーナ。……あの、アランが、これからは、リリアーナと普通の姉妹のように過ごせるかもしれないって言うの。それって……」
ブランシュの空と海の混じり合うような優しい瞳が、わたしの顔を覗き込んでいる。
「はい、お姉様。今まで、本当にごめんなさい……」
「……リリアーナ。嬉しいわ……」
ブランシュはうっすらと涙を浮かべ、優しく微笑み、上品な仕草でわたしの手をそっと握った。
――まるで、五歳のあの日の、幸せな朝に戻れたような気がした。
「それから今日は、他にも珍しい人を連れて来ているんだ。いや、帰っていると言った方がいいかな?」
公爵が指し示した席に目をやると、そこに座っていたのは、八つ上の従兄――
――ランブラー・ロンサールだった。
その姿を見るのは、十三歳の時に挨拶して以来、四年ぶりのことだ。
頭を抱えるように左手を額に添え、何やら苦悩しているように見える。
「まあ……」
唐突な再会には驚いたが、まずは挨拶を述べる。
ランブラーは右手をちょっと掲げて、「ああ……」と挨拶を返しただけで、また物思いにふけるように頭を抱えてしまった。
――何か、よほど思い悩んでいるらしい。
見ると、ランブラーの周りや出入り口を固めるように、ノワゼット公爵直属の黒い騎士たちが、ずらりと並んでいた。ざっと見ただけで三十人はいるように見える。
屋敷の中で、これほど沢山の騎士を見たのは初めてだ。
物々しい雰囲気が醸し出されていたが、見知った騎士達と視線が合うと、ラッド卿は会釈で、オデイエ卿はウィンクで、キャリエール卿は笑顔で手を振ってくれる。
「まあ、とりあえず、気の滅入る話は後にして、朝食にしようじゃないか」
公爵がそう声をかけたので、ブランシュとわたしも席に着く。
使用人達が、次々と料理を運んでくる。
バター付きトーストに焼き立てのクロワッサン、同じく焼き立てのペイストリーの数々、ブロッコリーとベーコンのキッシュ、焼きトマト、スモークサーモンの乗った野菜サラダ、数種類のチーズ盛り合わせ、ハムやパテ、カリカリに焼いたベーコン、トリュフ入りオムレツ、半熟茹で卵、フルーツサラダ、ヨーグルト……。
どれもこれも、涎が出そうなほど美味しそうである。
『妙なほど、にやついていました』
以前、盗み聞いたウェイン卿の台詞を思い出しはっとして唇をきりっと結ぶ。
(やっぱり、帽子を被っといて、良かった……)
だらしなく潤んだ瞳を、人様に見られずに済んだ。
いつかの夜のように、いや、それ以上に、食堂の周りには、ぐるりと騎士たちが並んでいた。
しかし、今朝、その厳しい視線は主にランブラーに注がれている。
ウェイン卿の方をちらりと見ると、ぱちっと目が合った。途端にふわっと微笑を浮かべるので、心臓が口から飛び出しかけ、思わずフォークを取り落としそうになる。
……本当にもう、心臓に悪いのだ。
ランブラーは食欲がないらしく、朝食の皿に全く手をつけていなかった。
しかし、疲労を滲ませていても、その容姿はロンサール家の血を色濃く受け継ぎ、ブランシュと面影が似て、美しい。
仕立ての良い白シャツに、濃いグレーのベストを合わせ、すらりと長い腕を曲げ、黄金色の前髪が影を落とす白皙の顔を支える物憂げな姿は、巷の女性達の憧れを具現化したようである。
ランブラーと少し離れた席で朝食を摂っているのは、ランブラーと同じ王宮政務官のウィリアム・ロブ卿。
黒髪に黒曜石のような瞳の、知的な雰囲気。こちらもランブラーとタイプは違えど、負けず劣らず美しい方だった。黒の上下に身を包み、ランブラーより頭半分ほど背が高い。
こちらも疲労の色が濃く、朝食には礼儀上仕方なく、という風にほんの少し手をつけているだけ。その所作の隅々から、高貴な優美さが醸し出されていた。
先程、ご挨拶したところ、わたしの悪評を知っているだろうに、丁重な挨拶を返してくれた。初対面ながら、大西洋の如く広く、マリアナ海溝の如く底抜けに深い心をお持ちであることは間違いないと思われる。
ノワゼット公爵はブランシュと斜めに向かい合って座り、以前と同じく、機智に富んだ話題で食卓を和ませようとしている。
ブランシュが明るい声でそれに応え、わたしも控えめに相槌を打つ。
カトラリーが触れた白磁の皿から、かたかたと硬質な音が響く。
ランブラーとウィリアム・ロブ卿は終始、ほとんど口を開かず、心ここにあらずという感じだ。
朝食の後、一体、何が始まるのか……。
わたしには、少し、心当たりがあった。
§
食後の紅茶を淹れたメイドが一礼したのち、下がる。
使用人は全員下がり、食堂にいるのは、ノワゼット公爵、ブランシュ、ランブラー、ウィリアム・ロブ卿、ずらりと並ぶ第二騎士団の騎士達、そして、わたしだ。
「さて」
ノワゼット公爵が、すっと背筋を伸ばし、低い声を発すると、その場がしん、と水を打ったように静まった。
「話をしようか」
公爵の顔は笑っていたが、ブランシュに向けるものや、先ほど庭園でわたしに向けてくれたものとは違う、氷の微笑を浮かべていた。
「レディ・リリアーナとブランシュには……女性にはあまり聞かせたくない話なんだが、これは君たちにも関係ある話なんだ。だから、聞いてくれるかい? しかし、気分が悪くなりそうだったら、いつでも言ってほしい。部屋に戻って休んで構わないからね。騎士に送らせよう」
ノワゼット公爵は、優しい瞳でブランシュとわたしを代わる代わる眺めた。
可憐に小首を傾げたブランシュが、砂糖菓子のように柔らかく微笑んで答える。
「わたくしは、大丈夫ですわ」
公爵が、隣に座るブランシュの美しい手をそっと握った。
わたしも控えめに答えた。
「わたくしも、大丈夫です」
公爵がにっこり頷いた。
「さあ、では、ランブラー・ロンサール伯爵。一体どういうことなのか、説明してくれるかい?」
そう言った公爵の顔は、また氷の彫像と化していた。
ランブラーは苛立ちを隠そうともせず、金の前髪の下に覗く眉間に深い皺を刻み、口を開く。
「どういうことかって……? どういうことかって? こっちが知りたいくらいですよ。
僕はとにかく、何度も言いましたけど、あの日、マルラン男爵夫人から手紙をもらったんです。とても大事な話があるから『花のさえずり』に来てくれって。
命に関わる重要な問題だから誰にも言わずに、必ず一人で来てほしいとかなんとか書いてあって、最後にこの手紙は燃やしてくれ、と書いてありました。
だから、迷いましたけど、行かないわけにも行かないでしょう? あのベスビアス夫人の妹なんですから。
それで……それで、時間通りに行ってみたら、マルラン男爵夫人はベッドの上で、口から泡を吹いて倒れていました。僕は、介抱しようとしたんです。だけどそこに、治安隊の連中が駆けつけてきた。
僕は……僕は、罠にかけられたんだと思いました。それで、その場を離れたんです」
「まあ……」
ブランシュが目を見開き、ほっそりした指先で口元を押えた。
ノワゼット公爵がブランシュを励ますように、もう一方の手をそっと握る。
「しかし、第三騎士団がマルラン男爵の屋敷の夫人の部屋を捜索したところ、君宛の書きかけの恋文が沢山出てきた。
当然、君たち二人が道ならぬ恋に落ち、別れ話が拗れて、君が夫人を毒殺しようと試みた。というのが、この事件の最も有力な見方だ」
「だから、それは間違いだって、何度も言ってるでしょう!」
ランブラーが苦悩が滲む端麗な顔を上げ、叫ぶ。
「 夫のマルラン男爵は、温厚で善良な男で、事件の日は一日王宮に詰めていた。今回の件で君に怒り狂っている。
まあ、当然だろう。夫人を寝取られた上に、殺害されかけているんだから。
国王陛下に訴えて、君を絞首刑にするつもりだ。王妃殿下の侍女、ベスビアス夫人も同じように訴えているらしい」
ランブラーは、苦しそうに頭を抱えた。
「本当に、違います。マルラン男爵夫人から手紙をもらったのは、あれが最初でしたし、そりゃ、たまに王宮やパーティーで会った時に挨拶くらいはしましたけど、本当に、それだけです」
わたしは、ランブラーが気の毒で、堪らなくなった。
言葉を交わしたのは一度きりで、実際は血の繋がりもないけれど、わたしにとって彼はやはり大事な従兄だった。
公爵は鳶色の瞳を眇め、大きく息を吐いた。
「しかも……昨日、うちの騎士たちが『花のさえずり』の近辺で聞き込みをしていて、わかったことがある。ここしばらくの間に、あの辺りで三人の女性の行方がわからなくなっている。ストロベリーブロンドの髪とグリーンの瞳を持った女性たちがね。……まさか、君が関わっているのではないだろうね?」
「まさか!!」
ランブラーが驚愕に目を見開き、叫ぶように言った。
「そんな、そんなこと、僕がする筈ないでしょう!」
ウィリアム・ロブ卿が、思い詰めた眼差しで、横から口を挟む。
「僭越ながら、わたしは以前から、ロンサール伯爵と共に仕事をさせていただいています。その立場から言わせていただくと、伯爵がそのようなことをなさるなど、絶対にありえません」
公爵は一度黙ったが、言いにくそうに続けた。
「しかし、第一騎士団の連中から聞いたところによると……君は時折、逢引き宿なる場所に、出入りしていたようだね。君の写真を見せると、覚えていた人がいたそうだよ。君は、目立つからね」
公爵は、わたしとブランシュに気遣いながら続けた。
「それなら一体、何のために、そんな場所に出入りしていたんだ?」
公爵は、もうちっとも笑っていなかった。
鳶色の瞳は、獲物を追い詰める鷹の如く、研ぎ澄まされている。居並ぶ騎士達の発する、無言の圧力もすごい。
ランブラーは、顔を真っ赤にして俯いている。
「それは……、言えません」
「……いい加減にしたまえ」
公爵が氷のような声で告げる。
「事は、君ひとりが罰を受けて済む問題じゃない。ここにいるブランシュや、リリアーナにも汚名を着せることになる」
ランブラーは、顔を真っ赤にしたまま、俯き黙っていた。
「……実際のところ、僕だって、君が女性を誘拐したり、殺害したりするような男だとは思っていない。だから今日はこうして、無理をして王宮の牢から出し、君をここに連れてきた。しかし、真実を言わないなら、救いようがないじゃないか」
ランブラーは、目を瞑って沈黙した。
「それでも……言えません」
そして、絞り出すようにそう繰り返した。
公爵が溜め息をつき、不快そうに眉根を寄せ、首を横に振る。
その時、ドアを激しく打ち鳴らす音が、食堂にまで届く。
ドンドンドン、という激しい音のあと、
「ランブラー・ロンサール伯爵! ここにいるのはわかっている!」
荒々しい怒号が響き、思わず肩がびくりと震える。
公爵が目で合図すると、ウェイン卿が数人の騎士を連れ、食堂の扉を開ける。
扉の向こうの廊下から、おそらく正面扉を無理に通ったと思われる第一騎士団の白い制服を着た騎士が三人、こちらへ進んでくるのが見えた。
「ロンサール伯爵はノワゼット公爵と会談中だ。伯爵の身柄は、第二騎士団で責任を持って預かる」
黒い制服の騎士が食堂のドアの前に立ちはだかるように立ち、ウェイン卿が睨みを利かせた低い声で告げる。
第一騎士団の白い騎士達は少し怯んだようにも見えたが、ランブラーを視界に入れると、果敢に入って来ようとした。
「勝手に連れ出しておきながら……そんな言い分が通ると思うか!?」
「第一騎士団団長、ドーン公爵閣下より、必ず連れ帰れ、との命令を受けている!」
「こっちで捕らえた容疑者だ、返してもらう。そこを退け! 邪魔だ!」
食堂に無理に押し入ろうとする第一騎士団の騎士と、阻止しようとする第二騎士団の騎士との間で、もみ合いのようなものが起き始める。
公爵は厳しい目をして、ブランシュの肩を守るように抱いた。ブランシュの瞳も不安そうに陰っている。
ウィリアム・ロブ卿は立ち上がり、眉を顰め、成り行きを見つめている。
血の気を失って真っ青になったランブラーは、両手で頭を抱えた。
打ちひしがれたその様子は、あまりに気の毒すぎて、胸が潰れそうだった。
――こうなったら、もうこうするしかない。
役不足であることは重々承知していたが、取り合えず、一旦この場を何とかしなければ。
ベールの付いた帽子を脱ぐ。
顔が露わになったわたしに気づいたブランシュの「まあ……!」と驚いたような声や、初めて見るのであろう黒い騎士の「えっ、嘘だろ!」とか「え、誰!?」とか叫ぶ声が聞こえた。
わたしは、意を決して、立ち上がった。
「わたくしでございます」
突然、口を開いたわたしに、食堂にいる全員の視線が集まる。
緊張のあまり、足が震えるのがわかったが、気の毒な従兄弟の為だと思って、自分を奮い立たせた。できるだけ、嫣然と毅然と見えますようにと願いながら、笑みを浮かべ口を開く。
「ランブラー・ロンサール伯爵と逢引き宿で会っていたのは、このわたくしでございます。
ですから、マルラン男爵夫人ではありえません。
ロンサール伯爵はわたくしの名誉のために、黙っていてくださいました。
ですが、もうこうなっては、申し上げるしかございませんわね。
騎士の皆様、ご足労いただき申し訳ありませんが、お戻りになって、そのように騎士団長様にお伝えください」
心臓は壊れそうに鳴っていたが、笑みを崩さず最後まで言い切った。
ぽかん、とわたしの顔を凝視していた屈強そうな第一騎士団の騎士達は、一分ほども口を開けていたが、
「は……あの……承知しました……」
「あの……レディ、申し訳ありませんでした……」
「こ……これは、と、とんだ失礼を……帰ります、今すぐ、とっとと帰ります……」
などと、しどろもどろに呟き、顔を赤く染め、何やら呆けた様子で、しずしずと下がって行った。
思った以上に、すんなり引き下がってくれたことには驚いたが、思惑通り、うまく行ったようである。
ほっと胸を撫で下ろして、顔を上げる。
そこには、『愕然』とした人々の顔があった。
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