第38話 百聞は一見に如かず (レクター・ウェイン視点)

 右手はしっかりと男の胸倉を地面に押さえつけている。

 男は喉の奥から空気が漏れるような呻き声を上げた。


 リリアーナの視線が自身の手元に注がれているのを感じ、掴んでいた手を離すと、男は激しく咳き込み始めた。


 しばらくは立ち上がれないだろう、と男を一瞥してから、リリアーナの方に向き直る。



「……一体、どういうことですか?」


 自分で思うよりもずっと低い声が出た。


 いつも通り黒いフードを目深に被ったリリアーナは男が息をしているのを見て、ほっとしたように頬を緩めてから、こちらに向かって頭を下げる。


「ウェイン卿。ご無沙汰しております。お元気でお過ごしでしたか?」


 黒いドレスの端をつまみ上げ、非の打ち所のない優雅な挨拶をして見せる。背景と状況にこれ程そぐわないものはあるまいと思われた。


「はい。お陰様で……いや、そんなことはどうでもいいです。いったいなぜ、貴女が、ここで、この男に絡まれているんですか?」


「その……、いろいろと、事情がございまして……」


 自分の気迫に押されて、リリアーナがたじろぐのが分かったが、引く訳にはいかない。


(せいぜい図書館に行っている程度だと思っていた外出先が、まさかクルチザン地区だと……?)


 王都で最も治安の悪い場所。

 表通りはそれなりに賑わっているが、一歩路地を入った裏通りは、いわゆる貧民窟。犯罪の巣だ。


 ――こんな場所を……伯爵令嬢が騎士も連れずにうろつくなど、あり得ない。


 破落戸の百人程度なら瞬殺できるオデイエですら、ここでは男の騎士と組ませている。

 騎士の護衛付きだったとしても、彼女のような人が足を踏み入れて良い場所ではなかった。


「あのう……わたしから、状況の説明をさせていただいても?」


 手を挙げたのは、リリアーナの隣に立つ、胸元が大きく開いた派手な赤いドレス姿の娼婦らしき女だった。

 この地区の女に共通する、同じような厚化粧を施した顔は、誰も彼も同じように見える。


「そもそもですね。その酔っぱらいはこのわたしにしつこく絡んできた店の客でして、腕を引っ張られそうになったところを、こちらのお嬢さんが止めに入ってくださいました。

 すると、『邪魔すんじゃねえよ、代わりにお前でもいいんだぜ』というベタな台詞を吐いて、お嬢さんの腕を掴もうとするので、周りの野次馬どもが止めに入ろうとしたところに、騎士様が風のように現れて、その男をのされたのでございます」


「……なるほど……」


 リリアーナは、そうです、そうです、と言わんばかりにこくこくと頷いている。

 周りを見渡すと、確かに止めに入ろうとしていたと思われる男達が、その手の持っていき場を失い、宙ぶらりんの両手を持て余していた。


 ひとり、ふたり、その男たちがパチパチと手を合わせて拍手を始める。

 他の野次馬や先ほどの赤いドレスの娼婦、しまいにはリリアーナまでが、口元ににっこりと笑みを浮かべて拍手をしはじめた。


「やるなあ! にいちゃん!」

「もっとお高く留まってると思ってたが、いいとこあるじゃねえか!」

「いやー、いいもん見せてもらった!」

「よっ! 王宮騎士さん!男前だね!」


 掛け声までが聞こえてきて、いたたまれなさが最高潮に達したころ、騒ぎを聞きつけた治安隊の兵士が二人駆けつけてきた。


 この制服を見るなり、胸の前に右腕を掲げ最敬礼をする兵士二人に、まだ地面に這いつくばって、はあはあと肩で息をしている男を投げつけるように引き渡す。


「ノワゼット公爵縁者に対する狼藉だ。国家反逆罪で取り調べておけ」


「「はっ!! 承知しました!!」」


 二人の兵士に引き立てられ、破落戸は瞠目して騒ぎ出す。


こっ……っ! えっ! ちが、ちがう!! おれは、おれは、ただの、ごく普通の、平凡な、」


 男は取り乱し、逃れようとするが、治安隊兵士に両脇をしっかりと抱えられていた。


「変態なんだあああああああああぁぁぁぁぁぁっ!」


 断末魔の如き絶叫を残し、男は連れられて行った。



 §



「……それで?」


 男の背中を見送ってから、改めてリリアーナの方を見やる。


 いつの間にか野次馬たちはいなくなり、その場にはさっきの赤いドレスの娼婦とリリアーナだけが残った。


 自身の発した声は想定よりも冷たく響いた。

 水をうったように、辺りの空気が張り詰める。


「あの……危ないところを助けていただき、ありがとうございました」


 リリアーナは、おっとりした声音で礼を言った。まず間違いなく、微塵も危ないと思っていない。


「そんなことはどうでも良いです。なぜ、貴女が、ここに? 共は? 馬車は?」


「こちらに私用がございまして、一人で参りました。徒歩で、でございます」


 ……質問の答えは返ってきたが、どれ一つとして、納得できるものはなかった。


 令嬢が一人で出歩くことの非常識さ、この界隈の治安の悪さ、どういった事態に巻き込まれる危険があるかについて、はっきり説明せねば、と口を開きかけた。


 その時、フードを目深に被ったリリアーナの視線が俺の背後に、ちらと向けられた。



 ――なんだ……?



 言い知れぬ嫌な予感がして、振り返る。


 そこには、たった今、出てきたばかりの建物があった。



 ―――『黒薔薇館』


 赤地に黒の文字と蔦模様で縁どられた、色鮮やかな独特な看板。


 ご丁寧にも、一仕事終えた感漂う女が二階の窓辺に腰かけ、気怠げに煙管をくゆらせている。


 間違いなく、一目見て、『あれ』だった。



 ――朝、娼館から、男が、一人で、出てきました。



 それを目撃した場合、何を想像するか――?


 ――答えは明々白々 である。



 瞬間、どうしてか足元がぐらりと揺らぐほどの衝撃を受けた。



「いや、違います」


「……はい?」


「これは、仕事で」


「……はい」


「本当に、仕事で」


「……はい」


 我ながらもはや、何を言っても言い訳にしか聞こえない。


『百聞は一見に如かず』という諺がある。

 現場を見られた以上、百個言い訳しても無駄ですよー、という意味にもとれる。



 リリアーナが訝し気に首を傾げているが、何か言い募れば言い募るほど、余計に泥沼に嵌っていく感覚に襲われ、頭を抱えて座り込みたい衝動を抑えるので精一杯だった。


 背に氷のような冷たい汗が伝うのを感じたその時――



「レディ・リリアーナ?」



 声の方を向くと、そこにルイーズ・オデイエとアルフレッド・キャリエールの二人が立っていた。

 気のせいか、後光が差して見える。



 かつてこれほど、この二人を頼もしく思ったことはなかった。



 §



「では、皆様は、お仕事で……」


「そうなんですよ! だけど、ぜんっぜん、進展なくて。クサクサしてたら、まさか、こんなとこで令嬢と会えるなんて! 幻覚かと思っちゃいました!」


 オデイエがにこにこ満面の笑みを浮かべながら、リリアーナの右手を両手でとって撫でまわしている。


「まあ……それは……大変でございますね……」


 リリアーナの頬は強張り、見るからに狼狽していた。

 オデイエはリリアーナの姿を認めるなり、


「本物!?」


 と叫び、いきなりリリアーナに抱きついた。

 唖然とするリリアーナの顔をフードの下から覗き込み、


「やだ、本物だわ! やだ、会いたいと思ってたら、ほんとに会えちゃった!」


 歓声を上げながら、ひとしきり抱き絞めた。


「……あ、あのう……?」


 硬直して、されるがままのリリアーナが、訳が分からない、という声を出す。


 離れようとしないオデイエをキャリエールと協力して引き剥がし、別の聞き込みを終えて合流したラッドと共に、セシリアの件や、事件の捜査でここにいることを簡単に説明し、現在に至る。


「セシリア様のこと、安心いたしました。でも、これからはきっと大丈夫ですね。……支えてくださる方が、いらっしゃいますもの」


 ラッドの方を向き、微笑んでいる。


「はい、まあ……」


 はにかんだ笑顔で答えるラッドの耳が、ほんのり赤い。何やら通じ合っている二人の様子に、何故かむっとする。


「それで、令嬢はどうしてこちらに?」


 ラッドが尋ねる。


「はい。わたくしは、こちらに知人を訪ねてまいりまして――」


 言いかけたところに、存在を忘れかけていた、さっきの赤いドレスの娼婦が声をかけた。


「お嬢さん、そろそろ行かないと、ホープが待ちくたびれてますよ?」


「まあ……! そうでしたね。皆様、どうぞお気をつけて。ご進展をお祈りしております。ウェイン卿、先程はありがとうございました。それでは、失礼いたします」


 リリアーナは深々と礼をすると、ドレスの裾をひらりと優美に翻し、歩み去りかけた。



「…………」

「…………」

「…………」

「…………えっ? いやいや、だめですよ! その娼……じゃなくて、女性とお知り合いだったんですか!? ホープって誰です!? と、とりあえず、俺たちも一緒に行きますから! いいですよね?」


 言葉を失う四人の中で、一番先に我に返ったキャリエールが、慌てて止めた。


 リリアーナが、仰天、という風に振り返る。


「……い、今から? 皆様も? ご一緒に?ですか?」


 コクリ、と騎士が揃って頷く。


 何をそんなに驚いているんだろう?



「あの……他にも、人が……おりますが?」


 リリアーナの声はどうしてか微かに震えている。

 むしろ、最も気になるのは、その他の人である。


(ホープというのは、……男の名前のようじゃないか……?)


 愕然としている様子のリリアーナの横で、赤いドレスの女が、嫣然と真っ赤な唇を開いた。


「いいじゃないですか。来たいって言うなら来てもらえば。どうぞ、騎士様をご招待するようなところではございませんが、それでもよろしかったら、ご一緒に」




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