待っている人がいる

青太郎

第1話

 暑かったので、葵は冷水で顔を濡らした。

冷水が顔全体から首へ、流れていく。

一部は床を、他は葵の衣類を雨のように濡らしていく。

拭くことはせずに、そのまま廊下を歩き、教室へ向かう。

遠くから聞こえる日暮の鳴き声が、葵の耳に妙にへばりついて、頭の中をぐるぐるとかき回していた。

息苦しいほどの暑さ、眩暈がするような日暮の鳴き声、葵の中で懐かしさにも似たもどかしさが生まれるには充分な世界だった。

誰一人としていない廊下の、硝子の窓からは橙色の光芒が差し込んでおり、照明がついていない廊下を照らしている。


戸も窓も、開けっ放しにされた教室の電気をつける。

等間隔に置かれた三四の机、白いカーテン、花瓶が置かれた教卓。

花瓶に生けられていたのは白い色をした、大人しい花だった。

葵は教室内で綺麗に整頓された机の中で、荷物が置いてある机へ真っすぐに向かった。

もちろん、葵自身の荷物だ。

鞄、それだけが無造作に、置かれている。

投げて、たまたまその席に置かれたかのようだ。

他の机の上には何も置かれていない。

何もない。

窓も教室の出入り口の戸も開けっ放しなので、風通しがよく、葵の髪を風が左から右へと優しく撫でていった。

ふと葵は窓の外に目をやる。

雲は夕日の色に染まっており、上空は風が強いのか、雲の流れが速い。

窓の下の方に目をやると、そこには校庭が広がっている。

教室内に流れ込んでくる風は葵の髪を撫でてくれるというのに、校庭には砂塵が舞っている。

台風の中の、海の波のようだった。

外の風の強さは、葵がここに留まるには充分な理由だった。

しかし、校庭には葵を待つ人物がいる。

葵が校舎から出てくることを待っている人物がいる。

それは葵自身もわかっていた。

校庭の人物と葵は、目があった気さえした。

気、だ。

実際はあっていないかもしれない。

遠く離れすぎていて、葵の目は一種の錯覚を起こしていたのだ。

その人物の口は動かない。

動いていないはずなのに、葵の脳内には直接声が響いている。

まるで日暮の鳴き声のように。

葵は表情を一つも変えることもなく、それから顔を背けるのだった。

葵にとってそれは、長い一生の中で蟻ほどの存在でしかなかった。


教室には風が緩く渦を巻く音のみが響いている。

「まだ、ここにいるの」

その風の音を打ち破った声があった。

高く、透き通ったそれは後ろの方から聞こえ、葵の脳を揺らした。

脳を揺らされ、葵の表情は驚きと、そして深い悲しみを含んだものへ変化していく。

風は吹き続けていたが、葵は水の中にでも入ったように、呼吸音のみが葵の耳に届いていた。

視界もぼやけ、前を見ているが見ていない、矛盾した感覚が葵の脳内に生じる。

後ろの人物は、彼女は、この場所では矛盾した存在であった。

「ここ以外には行けない、から」

葵は教室内に転がっている真実を、そのまま読み上げた。

これは真実である、可能性ではない。

何の変哲もないただの真実であり、葵にとってなんの感情も湧かない、モノであった。

「どこへでもいけるでしょ」

葵の後ろの彼女は窓の外を指さす。

葵はずっと何もない空間を見つめたままであった。

それでも彼女は、愛するゆいぐるみとおしゃべりをするように、話す。

「窓の外は校庭も、お店も、山も、道路も、家も、ある。あなたには見えないのね」

彼女は鈴のように笑った。

その笑いが葵には、ひどく嫌に感じられた。

目を細くして葵は時計を見る。

時間は、四時半を示していた。

「見えないね、悔しいけど」

後ろの彼女に吐き捨てるように葵は解答した。

葵の目には何も見えていないのだ。

窓の外を見ても葵の目に見えるのは、風が吹き荒れる校庭。

そして空。

「空は見える」

「どうしてかしら」

「見たいと思えたから」

「ふうん」

腹に力が入っていないような、鼻から発せられたような声だった。

「とりあえず」

葵の後ろの彼女はそう言って、葵の頭にタオルを乗せた。

「その濡れた顔、拭いたらもっといろいろ見えるんじゃない」

貰えるものは貰っておこうと、葵はそのタオルで顔を拭いた。

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