神様の棲む森
尾八原ジュージ
第1話
最後に寄ったコンビニから、どれくらい車を走らせただろうか。慣れない山道に冷や汗をかきながら、私はようやく大叔母の遺した家にたどり着いた。
庭の端に車を停めて外に出ると、とたんに蝉時雨が押し寄せてくる。
鬱蒼と生い茂る濃い緑に囲まれて、クリーム色の洋館が建っていた。大叔母がこだわって建てたもので、二十世紀初頭のアメリカ建築を参考にしたという。そう言われてみれば、建物の全面に建つ四本の白い柱はホワイトハウスを彷彿とさせる。二階建ての、一人で住むには広すぎる館だ。
前庭の芝生はきれいに刈り込まれ、白いテーブルセットの上にもゴミは落ちていない。大叔母が亡くなって半年以上が経っているのだから、きっと生前頼んでいたというお手伝いさんが手入れをしてくれたのだろう。
屋敷の後ろには森が広がっていた。この森が気に入って土地を買ったのだと、以前大叔母から聞いた覚えがある。木々は伸び伸びと枝を広げ、微妙に違う緑色の膨大な重なりが点描のようで美しい。洋館はこの森に、強引に食い込むようにして建っていた。
東京と地続きの場所だというのに、ここはまるで別世界のようだ。
私は少しの間、美しい館を見上げたまま庭に佇んでいた。この中で大叔母が自らの命を絶ったことを考えると、やっぱり中に入ることに抵抗を覚えてしまう自分がいる。
それでも、私はどうしてもここに住みたかった。大叔母の暮らした家で、彼女と同じように絵を描いて暮らすことは、私にとって抗いがたい魅力を持っていた。
車からボストンバッグと、大きなトランクを取り出す。玄関の鍵を開けると、むっとする空気が私の顔に押し寄せた。
封じ込められていた熱気を受けて、今が夏の盛りなのだということを、私は改めて思い出す。都心より標高が高く、森の木々に囲まれた庭は、都会の夏とは比べ物にならないほど過ごしやすかったのだ。
靴のまま中に入ると、そこは広い廊下だった。玄関の上の飾り窓から入る光が、木目の美しい床に反射している。外の森に合わせたような深い緑色の壁紙。吹き抜けになった天井からは、大正ガラスのランプシェードが垂れさがっている。奥に二階への階段があり、その横にドアがひとつ見えた。
ここに来る前、私は何度も見取り図と洋館の写真を見ていたが、やっぱり実物はまるで違う。私は溜息をもらしていた。やっぱり、ここを相続できてよかった。
廊下の左にはふたつ、右にはひとつドアがある。私は右のドアの前に立ち、深く深く息を吸い込んだ。一番最初、まだ日のあるうちにこの部屋を開けなければ、もうずっと開けることができない――そんな気がしていた。
時計の針は午後四時半を差している。夏の日没は遅いとはいえ、油断しているとすぐに日暮れがやってくるだろう。
「……よしっ」
細かな蔦の装飾のついたドアを開け、私は部屋の中に入った。
広い空間だった。二階までぶち抜きの高い天井から、換気扇の大きなファンがぶら下がっている。部屋の奥にはまだ白いキャンバスが無造作に積み重ねられ、イーゼルがいくつも壁に立てかけられていた。隅っこに押し付けられるように、質素なベッドがひとつ置かれている。その横に小さなサイドテーブル、そして観音開きの、黒くて重そうな箪笥が一棹あった。箪笥の横には、高いところの窓や換気扇の整備に使われていたらしい脚立が畳まれている。
絵を描くスペースと、家具が置かれているスペースを分けるように壁が一部分せり出し、そこから天然木の太い鴨居が伸びている。古びて黒くなった木の表面に一ヵ所、削れて色が明るくなっているところがあり、私はその辺りをなるべく見ないようにした。窓際に大きな背もたれのついた木の椅子がぽつんと置かれ、あとはほとんどものがない。大叔母が亡くなったときは、あの椅子の上に新品のスケッチブックと鉛筆が置かれていたと聞いたけれど、それらの小物は片付けられてしまったらしかった。
建物のおよそ半分が、このアトリエに割かれている。現代美術の大家として名を成した大叔母は、晩年のほとんどをこの部屋で過ごした。そして今年の一月、当時75歳だった彼女が自ら命を絶ったのも、このアトリエだったのだ。
私はサイドテーブルの引き出しを開け、そこが空であることを確認してから、今度は箪笥を開けた。防虫剤の臭いが鼻をつく。何着か下がっている服の間に、私は見覚えのあるピンク色の、薄いロングドレスを見つけた。
「うわ、『盛夏』の服だ」
そう言いながらハンガーを外してドレスを手に取ったとき、ドレスの裾がどこかに当たったのだろう、床にぱさりと何かが落ちた。
封筒だった。表に「塔子ちゃんへ」と書かれている。私宛てだ。
私は手紙を拾い上げながら、絵を描いている大叔母の、どこか魔法使いめいた顔を思い出していた。
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