ドラクルージュ・リプレイ:「月下の私闘」

@kani_uni

ある一夜のこと。

──永遠の夜。その象徴たるは紅く輝く頭上の月。

 其はドラクの眼。すべてを見下ろし、すべての民を見守る穏やかなる眼差し。

 されど雨雲が時に月を隠すように、主の眼の行き届かぬ場所も生まれよう。

 なれば騎士よ、高潔なる血を受け継ぐ者たちよ。汝らが主の眼となるべし。

 陰を見、この夜を照らす灯火とならんことを──





 ドラク領、辺境。深い森に覆われたこの地には幾ばくかの集落が点在し、それらを繋ぐ道が細々と木々の合間を縫うように作られていた。村に住む者のための道ではない。彼らのほとんどは村で生まれ、そして村で死んでいく。この道を使うのはたくましい行商人か稀に現れる旅人だ。集落に近づくほどに確かなものになる道を今宵小柄な馬に乗り進むのは、くすんだ金の髪の騎士、ラファールであった。

 ”尊厳卿”ラファール・オールダム・フォン・ローゼンブルク。20ほどの若い青年に見えるこの騎士はしかし、70の年を騎士として過ごしてきた。戦いに明け暮れていた若き彼は野心に駆られ、出会った騎士に取り入り、自らもその地位を授かった。しかし彼がまた同時に得たものは燃え盛る戦や闘争ではなく、遠い宿命であった。“いずれ来たる大乱“の予言……いつか訪れる戦いの定め。その時に振るう刃を研がんと、彼は遍歴として旅立った。人々を守らねばならぬ、そのためには人々を識る必要がある、そう考えたのである。かくして世を巡り続ける騎士は、まだ見ぬひとの心を探求する旅路にあった。

 荒れていた道はやがて平坦になっていた。二叉に分かれた路上の轍の跡は深く、人の暮らす村が近くにあるのだろう。覗き込めば確かに、一方の道の先には門のようなものが見えた。彼は思案した。この辺りの村の様相はどこも似たようなものだ。小さな土地に身を寄せ合うように人々が細々と暮らしている。平穏ではあるが取り立てて気にかかるようなものはない。このまま道をゆこうと決意した尊厳卿が馬の鼻先を森の奥に向けたその時、慌てたような足音がし、その持ち主が馬の眼前に飛び込んだ。


「あぁっき、騎士様! 前をお邪魔する無礼をお許しください! だけど、どうか話を聞いてくださいませ!」


 息せき切って現れたのは簡素な服を着た男であった。その言葉の通り騎士を前にせども身なりに構う余裕などなく、ともかくも現れたこの騎士を逃してなるものかという気迫が凄まじい。尊厳卿は緩やかな霧が渦巻くような灰色の瞳を一瞬輝かし、争いごとかと問うと、その男はそうなのです、と答えた。


「騎士様にとっては些細なものでしょうが、争いが起きようとしています」


 男の答えに、未だ「その時」ではないかと尊厳卿は小さく安堵の息を吐いた。確かにこの男は切羽詰まった様子ではあるが、森は変わらず静けさを保っている。しかし慌てる民を放っておく訳にもいかぬ、騎士は微笑みかけながら詳細を促した。男はその微笑みに一瞬惹かれたように呆けたが、すぐに気を取り戻し声を荒げた。


人狼ヴルコラクが村に現れたのです! 彼はあろうことか、騎士様に、私の村におられますあの尊い方に! 決闘を申し込みました!」

「決闘ですか? 異端にしては、また義に殉じた行いを。いかなる事情があってのことかは存じませんが……」

「人狼はあの方の罪を告発しました。正義を示すと。ですが、あの方がそんな悪い方のはずがありません!」

「正義と。そう言うのですね。その身に正義があり、騎士を糾弾すると。」

「あの方が……戦われるのであれば私もこのように取り乱したりいたしません。

 ですが、あの方は……剣を持つ素振りすら見せません。きっとお優しいから、村を守るために人狼に身を捧げるおつもりなんです!」


 人狼の牙に倒れる騎士を想像したのか、男は突然わっと泣き出した。年甲斐もなく子供のように泣く様を見るにも、その騎士とやらは相当に慕われているようだ。尊厳卿は下馬しその幻想の馬を還すと、右手をそっと男の肩に乗せた。


「落ち着きなさい、無垢なる民よ。其方がその騎士を信ずるかぎり、彼の方は一人ではありません。無実を想うならば、其方が気を確かにせず、どうするのです」

 

 男はしばらく声を上げて泣いていたが、尊厳卿の言葉に頷き少しずつ気を取り戻していく。……決闘を受けるという騎士の罪が如何なるものか、それをさておき。尊厳卿の興味を引いたのは「自らに正義がある」と主張する異端のことだ。

 彼の知る限り、異端は「正義」の剣を掲げることはまずない。何故なら「正義」は騎士の領分そのものであるとされ、古から築かれてきた彼らの神域で異端などが吠えられるとは到底考えられぬからだ。


 (まともに思考のできぬ狂った異端か、それとも……)

 

 「ああ、私ときたら騎士様の前でなんて恥ずかしい……」


 男は顔を拭い、赤くなった鼻を擦った。

 

 「ええ、ええ。あの方は無実です。ですからどうか、騎士様のお助けを…あの方に剣を取るようにどうか説得なさってください」


 男は尊厳卿の様子に気を配るほどの余裕はない。村にいるという騎士のことが頭をまるきり占めているのだろう。尊厳卿はしばしの間の後、小さく頷き男に微笑みかけた。


 「いいでしょう、この遍歴の身でよければ、貴方がたにこの剣を貸します」


 その答えに村人は表情を輝かせる。早口で礼を繰り返しながら村へと続く道を手で示し、尊厳卿に先立って歩み始めた。


 「……世界はまだ知らぬことばかり。これもまた、いつかの戦いの糧となるだろう」


 尊厳卿は小さくひとりごち、男の後を追った。二叉の分かれ目に植えられた樹上から様子を見ていた梟が、相槌を打つようにホウと短く鳴いた。







 招かれた村は他に違わず、こぢんまりとした農村であった。家屋、畑、そして小さな農場。だが本来ならばそこで穏やかに過ごしているだろう民の姿は見えず、その代わりに村の門の側、一人の青年が立っていた。青年の瞳は金色に輝き、口元に覗く牙からただならぬ存在であるのがみてとれる。その飢えたような有様は騎士であるらば「乾きかけている」ようにすら見える……恐らくこの青年が人狼ヴルコラクであるのだろう。先導する男が彼を見つけその存在に敵意と恐怖の眼差しを向けたものの、青年は動じる様子は見せぬ。

 尊厳卿は目を細め、


「……貴方が、その。」

 

 その声に人狼も気がついたようだ。なにものだ、と誰何する。旅人が騎士であることは、その佇まいからすぐに気づいたのだろう。村の中へ向けていた殺意とまではいかずとも警戒を顕にし、己よりも小柄な旅人を睨め付ける。尊厳卿は不安げな村人を身振りで立ち去らせると、その人狼を前にして一礼した。


「これは非礼を。我が名はラファール、しがない旅の騎士。……何分、旅の身でありますので、この地には詳しくないのです。差し出がましい願いとは思いますが、どうか案内を頼めますか」

「騎士だと? こんな辺鄙なとこを旅するとはよほどの暇人か、それとも、俺を追ってきた騎士ではないだろうな?」


 人狼は騎士を相手にせども物怖じせず、その姿を値踏みするように眺めた。声の端に小さく唸るような音が混じっている。異端を追う騎士たち、審問官は彼も旅路で幾度か見かけたことがあった。一切の妥協を許さぬようなその立ち振る舞いは、薔薇を紋とする彼には耐えがたく見苦しいものに思えたのだった。


「おや、その方がよろしかったですか?」


 氷のごとき審問官の幻影を打ち破るように、尊厳卿は小さく声を上げて笑った。ともかくも、事情を知らぬままではこの人狼がどのような者か分からない。そのためにもまずはこの強い敵意を崩さねばならない。


「私の二つ名は”尊厳”。貴方がその身に誇りを持つ限り、私は貴方の矜持を損なうことはいたしません」


 遍歴の騎士は決まった領地を持たぬ。すなわち、そこに生きる民をもって己の信を示すことは不可能だ。したがって遍歴はその“名”に誓いを立て、信を示すのが常である。それは尊厳卿も例外ではない。

 彼がかつて予言を授かった時、はじめその内容を汲み取ることはできなかった。詩のような予言はあまりに難解であり、騎士となったばかりのラファールには理解することができなかったのである。安易な栄誉を切望していた若きラファールは予言がそこに彼を導くだろうと考え、読み解くための手掛かりをわずかでも得ようと、あらゆるものの言葉にひたすら耳を傾けることにした。浅ましい動機が、並の騎士ならば忌避するような者の言葉であろうと、取るに足りぬとされる妖精の言葉であろうと、辛抱強く聞き入るという他に替えがたい心柄を彼にもたらしたのだ。やがて時を経て予言を解したラファールからは既に野心は消え、ただあらゆるものを尊ぶという“尊厳卿”の名が人々からもたらされた。彼がその名に誓うのは、かつての自らの愚かさへの戒めと、対する者の尊重だ。

 人狼はスンスンと鼻を鳴らし、嘘はないようだ、と呟いた。幸いなことに多少は警戒が解けたらしい。尊厳卿は安堵に軽く微笑みを返したが、人狼は騎士から視線を外した。


「騎士が増えようと俺がすることに変わりはない。小さな村だ。俺もつい最近来たばかりだが、詳しい案内などしなくても簡単に見て回れるが」

「そうでしょうか。ではよろしければ貴方のことを、お話いただきたい」

「俺の話だと?もしかして本当に暇人なのか?」


 人狼は呆れたように肩を竦めて尊厳卿に短いため息を返し、


「俺が倒すべき敵がいる。この村に。だから来た。それだけだ」

「倒すべき、ですか」


 簡潔な物言いに尊厳卿は思わず目を見開きゆっくりと瞬きをした。


「ああそうとも、俺がやらなくては……! ヤツの顔に血と泥を塗りつけてやるんだ!」


 一方の人狼は言葉を紡ぐごとに歯を噛みしめていく。強く握りしめられた拳には筋が浮き上がり、きりきりという音すら聞こえるようだ。……憎しみを煮詰め直すような短い間の後、人狼は暗く獰猛な笑みを浮かべた。


「……お前たちは死ぬことがない。だがその顔に塗られた泥を忘れることはできないだろうよ」


(これは……正義というより。やはり狂人に過ぎないのか、いや。)


「落ち着かれなさい、誇りある者よ。闇雲に突き付けた誹りは、騎士の名を汚すことすらできません。戦うには研がれた刃が必要です。

……私で良いならば、貴方の剣を識てさし上げます。一体、何がそこまで貴方を昂ぶらせるのか、お話しいただけませんか」


 尊厳卿は思案しながらもゆっくりと人狼に顔を近づけ、流れるようにその頬に口づけを施した。ごく自然な騎士の礼である。瞬間、人狼の身が強張り、尊厳卿は失策を感じ取った。この者は騎士に対し強い不信を抱いているのだ。


「なにを」


 果たして人狼は苛立ったように騎士を跳ね除け、頬を拭った。


「俺にお前たちの薄っぺらい口づけをするな、そんなものはお仲間にでもくれてやれ」

「失敬を。貴方ならばこの親愛の礼が通づると、そう信じてしまいました」


 尊厳卿は身を引き、詫びの意図を込め頭を下げた。人の世に生きるからには騎士の礼を理解する異端もあれど、同時にひどく忌避する者たちもいる。かつての主人が騎士だというこの人狼は前者であろうとふんだが、どうにも更なる騎士への憎しみがそれを塗りつぶしているようだ。

 尊厳卿の振る舞いに人狼は軽く舌打ちをした。沸き起こった怒りはひとまず鎮まったのか幾度か息を吐く。少しの間を置いて、人狼は騎士に目をやると訥々と語り出した。


「……主が……いや、お前たちのように誓いを立てたわけではないが、それでも俺の主人だと想っていたお方が、貶められた」


 声に再び熱が籠り出す。髪が細かく震え、声に唸りが混じりはじめた。


「騎士が裏切ったからだ……そうでなければあのひとが、この俺のような異端にも接してくれた尊い騎士が、堕落者だったなど……!」

「それは。……貴方のお心はお察しします。

 なるほど、貴方が持ち得たものは間違いなく義であり……そしてそれを裏切った者に下すのは正義と。そう仰るのですね」

(これは。)


 猛りだす人狼を宥めるように穏やかな声をかけながらも、尊厳卿のその内心は彼を慮る敬意よりも、彼の言う「正義」への興味が多くを占めていた。


(想定よりも面白いことになった。異端が義に殉じる話はお伽噺に過ぎない、少なくともこれまでは……)

「そうだ。他の騎士に言っても誰も聞く耳を持たなかった。だから俺の手で、あの方の汚名をはらさないといけないんだ!

 お前たちの裁きになど頼らない。これは俺の、狼の誇りにかけた戦いだ」


 人狼はまたも吠えるように声を荒げた。狼の誇り、尊厳卿には馴染みはない信念であるが、旅路でまみえた人狼たちの中にもそれを訴える者はいた。だがそれはいわば受けた恩を同等の価値として返す心であり、この青年のようにやがて決闘の場に行き着く類のものではなかった。


「そうですか……仇討ちとあらば、それを止める権を私は有しておりません。

 しかし、」


 尊厳卿は心中で思う、(まるで騎士のようだ。)


「……もう少し村には世話になります。もし何か私の手が必要なら、忌憚なくお話しください。私は貴方がたの誇りに敬愛を払うでしょう」


 息荒く肩を上下させる人狼に再び一礼をする。人狼は深く一つ息を吐くと、身のうちの激情を抑えるように拳を握りしめ、邪魔さえしないならばそれでいいと呟いた。

 尊厳卿は軽く目配せをすると、彼を残してその場から立ち去った。人々を出迎えるはずの門の下、青い月明かりに照らされる人狼の姿は荒ぶる怨讐だけでなく、深い悲しみにも満ちているようにも見えた。







(彼の無念は分からないこともない。)


 人狼と別れた尊厳卿は、人気のない村の片隅に素朴な長椅子を見つけ一息をついた。人狼の言うことが真実であったとして、主たる騎士が無実のまま討たれ、ただその素性故に反論が許されなかったならば、いかほどまでに苦しいものだろう。それ故に主を討ち倒したという騎士に決闘を仕掛けるというのは道理なのかもしれない。しかし。


(今判断するべきではない。何が起こっていたのか、私は知る必要がある。

……真実を知ることは困難だろうが、少なくとも件の騎士には話を聞かねばなるまい。さて、そちらは話のできる人物であればいいが)


「バルトロメイ! いつまでも隠れていられると思うな!」


 彼の潜思をかき散らしたのは、先の人狼の突如たる大声であった。


「どこへ逃げようとも、俺はお前を追いかける! 臆病者と呼ばれたくなければ、出てこい!」


 おそらくは、先ほど見かけた村の中心に位置する広場で人狼が吠えているのだろう。声は朗々と村中に響きわたり、その咆哮に怯えてかどの家も固く戸が閉められている。尊厳卿は腰を上げ、足音を立てぬようそっと広場に近寄った。

 草木の合間から覗き込めば先の人狼の背が見える。ややもして彼の目線の先、細い路の奥から返す声があった。


「むやみに民を脅かすものではない」


 宵闇の中、鮮烈な赤を帯びた男が一人。


「ウルリヒ」


 男は鎧こそ具現化していないが、鮮明に浮かび上がるような存在感は騎士に間違いないだろう。人狼にそう呼びかけた騎士は無防備にも質素な装いのまま、敵意を剥き出しにする人狼に真正面から相対するよう立っている。人狼もまた、瞳をぎらぎらと輝かせているものの、勢いのまま跳びかからぬよう心を抑えているように見えた。


(……なるほど、あれがその騎士)


 呼ばれた名を記憶で反芻する。騎士バルトロメイ。彼は目を伏せゆっくりと首を振ると人狼に言葉を返した。


「隠れていたのではないのだよ。村の人々にも訳を言っておかねばならなかったからね」

「訳だと?どんな訳があってお前は主人を牢獄へ繋いだというんだ」

「……。」


 騎士は目を閉じ黙り込む。その沈黙からは真意を読み取ることは困難であった。少しの間を置いて再び目を開けた騎士は、侮蔑の言葉を吐いた人狼に対してしかし、まるで子供をあやすような声色で語りかけた。


「もう少し待ちなさいウルリヒ。小さな村だが、まだ整理しなければならないものがあるのだ」


 人狼は騎士の言葉に短く唸り、


「一日だ。それ以上は待たない」


 それだけを告げ去っていく。その背に騎士が何事か呟いたようだが、聞き取ることはできなかった。その表情は憤懣でも憎悪でもなく、ただ静かな諦念に満ちていた。


(これは。素直に仇討ちともいかないようだ)


 騎士はしばらくその場に佇んでから、踵を返し道を戻っていく。その背を見ながら尊厳卿は無意識に腰の剣に手を添えていたことに気がついた。


(闘争が起こるとならば、彼の代わりに剣を抜くか……いや)


 首を振る。忘れるな、私は騎士だ。深く数度息を吸い、尊厳卿は興味に占められた内心を叱責するように呟いた。


 




 

 目的の家はすぐに見つかった。先の騎士が去っていった道を辿ると、小さな村はすぐに終端を見せ、そこに1軒の家屋がぽつんと建っていたのである。そっと窓から様子を伺えば鮮明な赤がちらりと目に入った。先の騎士の居住であることは間違いない。尊厳卿は木でできた質素なドアを数回、控えめにノックした。


「どなたかな?」


 扉越しに素性を問う声がすぐに返る。


「……貴卿の森閑を揺らがすことをお詫びいたします。私は旅の騎士。この地にまた、騎士殿が住まわれていると聞き……許されるのならば親愛を交わせればと伺いました」

 

 尊厳卿は言い慣れた騎士の挨拶を努めて柔らかい声音で唱えた。人狼の言葉によれば、ここに住うは己の主人を斬り捨てた非情の者である。だが尊厳卿の知る通り、対話において相手の性質をそれとして端から対峙してしまうことで聞き逃すものはあまりに多い。そして何より、先に見た騎士の表情が、その男の性質を容易には評し難いものに成していた。


「このような辺境に同胞とは珍しい。鍵は開いているから入られるとよい」

「暖かきお心遣い、深く感謝いたします」


 返答に尊厳卿はそっと木の扉を押し開けた。小さな音を立てて開いた扉はすぐに一室に繋がっており、奥に据えられた書机に紅い髪の男がついていた。騎士は尊厳卿の姿を視認すると、軽く微笑んだ。


「そう畏まる必要はない。吾輩は今はカインシルト……家名を棄てた身だ。ああ、すまないが手紙を先に書かせてくれ。椅子は好きなところにかけていい」

「カインシルト……でしたら、貴卿のそのお心そのものに私からの敬意を」


 尊厳卿はそう答えながら、一礼をすると言われた通りに手近な椅子に腰掛けた。そっと見回した内装はごく一般的な民家であり、紋章を持たぬとはいえ、騎士が隠棲するにしてはいささか地味であるように思える。部屋もおそらくはこの簡素な一室と、あとは寝室くらいではなかろうか。騎士は尊厳卿が座したのを見てとると、再び書面に目を戻した。

 しばらく騎士がペンを紙に走らせる音のみが聴こえていた。月は変わらず穏やかに窓から僅かな光を投げ込み、窓辺に置かれた蝋燭の炎が地上からの返礼であるかのように、硝子に映り込んで揺れている。


「よし」

 

 手紙を書き終えた男は、それに封をして机の上に置いた。微睡んでいた尊厳卿はその声にゆっくりと瞳を開けた。


「あいさつが遅くなってしまってすまないね。吾輩はバルトロメイ、近頃は閑寂卿と呼ばれることもあった。旅の騎士よ、歓迎しよう」


 騎士は微笑みを向けた。その笑みには少しの影があった。


「名をラファールと申します。貴卿のご厚意に感謝いたします」

「先程のやり取りを見ていたかな?そうでなくとも彼の声はよく響くから遠くとも聞こえていたかもしれないな」

「ええ……そうですね。先だって、彼から「話」を聞きました」


 含みを持たせるように語句を強調する。人狼の言い分は全て聞いたと仄めかすと、それを汲み取ってか閑寂卿は目を細めた。


「そうか。貴卿は、彼の話を聞いてくれたのだね」

「……彼の言うようには。貴卿は随分と”あくどい”騎士のようだ」

「その通り、吾輩は不正をなし、非難されるのを恐れてコソコソと田舎に隠れ住む不徳の騎士だ……と言っても、信じはすまいね?」


 閑寂卿は再び僅かに笑みを浮かべた。その符丁を受け取った尊厳卿は、そうであるならば居中に騎士など招かれぬでしょう、と笑い返す。すなわち、人狼によって語られぬ事実があり、あるいは語ることができなかった事情があるということだ。


「私も旅の身。様々な人々を見て参りましたが、「義」をうたう彼の者は珍しい」


 尊厳卿は立ち上がって書机に近寄ると閑寂卿の手を取り、その手首に口づけを施した。懐かしい所作だ、と閑寂卿は口づけを甘んじて受け、


「ここへ移り住んでまだ数年のことだが、もうずっと長いことここにいるような気がする」

「おや、そのような、瞬きほどの間で……この村の住民がえらく嘆きながら、貴卿のことを話しておりました」

「この村で戯れに子供たちに読み書きを教えていただけだが、随分と懐かれてしまったようだ」


 窓に目を遣った。尊厳卿も同じく窓に視線を向ける。硝子越しに見える村の道には今は誰もいなかったが、小さな木の机や椅子が何気なく置かれており、腰掛け談笑する子供の姿が目に浮かぶようだ。彼の家の前は学び舎であり、また遊び場にもなっていたのだろう。道の端の落書きは消し切れなかったようで、盤目の跡が残っていた。


「聞けば貴卿はその決闘において、「剣を抜かぬ」という」

「……吾輩はもう剣を持たぬ。持つ理由を失ったのだ」

「彼の者に情けをかけたのかと思いましたが、違うようですね」

「そうさな。」


 閑寂卿は窓から顔を逸らさず、さらに遠くを見遣るような瞳でぽつりと言った。


「吾輩の口から出る言葉でよければ、少しの昔話をするとしよう」

「それは思いも寄らぬ幸運なこと」


 尊厳卿は少し驚きながらも再び椅子に深く腰掛けた。幾年前のことであったか、そう記憶を辿るようにゆっくりと語り出す騎士の瞳ははじめ、忘れえぬ日々を懐旧する穏やかな色を湛えていた。


「私には仕える主がいた。とても高潔で、誇り高い騎士であった。名を……いや、ただ、流麗な方であったとだけ言おう。共に戦場を駆け、戦果も苦難も分かち合った。

 ある日、我が主はその功績を認められて、ドラク当主より伯爵にまで引き立てられた。はじめのうちは領地をよくおさめた。吾輩も領地を回り冥王の軍勢を追い払っていた」


 当主に目をかけられるほどだ、素晴らしい騎士であったのは違いない。遍歴である尊厳卿には経験はないが、そのような主人に仕える喜びはそれは大きなものであったのだろう。だが語るうちに閑寂卿の表情は陰りを見せ始める。


「……気がつけば、主は城から出ることがなくなり、吾輩だけが外を歩いていた。城では華美な宴が毎日のように催されている。風の噂と一笑に付していたが、吾輩も疑念を持つようになっていった。

 毎夜城で開かれる宴に招かれた民が、帰る頃には数を減らしている。ふふ、まるでおとぎ話のようだろう。だが、そう訴える民がいたのだ」

 

 尊厳卿は目を閉じ、騎士の語る不穏な予兆を静かに聞いていた。


「以前から民にも分け隔てなく接するひとではあった。だが……変わってしまったのだ。地位に、たびたび訪れる騎士たちとの交流に、あのひとは」

「それは……」


 すと目を開け、再び閉じて首を振った。「残念な、ことです。」旅の合間にしばしば聞く話ではあったが、それを口にする必要はないだろう……彼にとって慰めにはなるまい。閑寂卿は少しだけ微笑み、ああ残念だ、と返した。


「吾輩は正さねばならぬと思った。主人は吾輩の忠告を受け入れず、そして吾輩の手で……」


 拳を握り瞳を閉じる。しばしの静寂が訪れた。人狼は主人の顛末を牢獄に繋がれた、と述べた。ならば堕落者として地獄ヘルに封ぜられたのであろう。尊厳卿は先の人狼の言と騎士の話を照らし合わせながら、その主人の在り様を想像していたが、


「…彼の者は、それを”裏切り”と言いました」


 閑寂卿は頷く。


「他ならぬ主をこの手で討ったのだ。忠に背いたと思うのも無理はない」

「彼の者は既知であったのですか。同じ騎士であるならば、貴卿の振る舞いに憤るのも分かります」


 人狼は主が乱心したとは思わなかったのであろう。行いに何らかの理由がある、またはその噂が虚実無根であると考えたのかもしれぬ。同じ主を持つ騎士同士ならば、互いの主義の証明のため力を貸しあうなり、または争うなりの協議が生じていただろう。しかし閑寂卿はそれを踏まえず、ただ己の見解でもって主を処断したようだ。騎士ならば……しかり、異端がその場に呼ばれることはない。異端には異端の道理があり、それは騎士とは異なるからだ。しかし、と尊厳卿は続けた。


「私には不思議でならない。彼の者が言う「義」というものが、彼の者の持つ誇りにそぐわぬ、騎士そのもののように思えることがです」


 先の会話を思い出す。青年は人狼の常に違わず気性の激しい者ではあったが、彼らのように、所縁ある者が失われ関わりが潰えたとして森の奥に帰っていくことはなかった。そのまま人界に留まり、主人の無念を晴らさねばと憤慨している。それが彼に強い違和感を覚えさせたのだ。

 対して閑寂卿は答えるに、「ウルリヒのことは知っている。彼は……可愛らしいだろう?」冗談めいた口調であった。直情的なさまを素直であるというのならば、そう表現もできるのかもしれぬ。尊厳卿は軽く笑いそれに同意を示した。人狼に対峙した閑寂卿の語り口、子供をあやすようなそれを思い出す。

 閑寂卿は深く息を吐き、尊厳卿の言葉にゆっくりと首を振った。


「彼は騎士ではない。その真似事をしていたにすぎないのだ。民、異端、彼らを引きつける魅力というものが我が主にはあった」

「なるほど。」

「可愛がられていたのだよ、あの純粋なウルリヒは。だから、主の過ちが見えていなかった」

「貴卿が主を討った経緯はわかりました。しかし、それならば……」


 疑問が残る。この騎士の告発は彼の正義に則ったものである。ならば、処断を終えてもなおその主をただひたすらに「無実だ」とのたまう人狼は閑寂卿の誇りを損なう以外の何者でもなく、たとえ騎士であろうと決闘を受けるまでもなく斬り捨てられようが文句は言えまい。尚のこと、此度の相手は騎士ではなく異端なのである。


「彼の者の決闘を受け、その上剣を抜かぬという貴卿は、かつて御自らの振るった剣を罪と思われているのか」

「……。」


 閑寂卿は口を閉じた。しばし返答を探すように逡巡し、


「吾輩は」


「主を心から愛していた。だが」


 幾度か言葉を紡ごうとしたが口籠もり、やがて首を振った。


「いかんな。自分の言葉を話すのがこんなにも難しくなっているとは」

「……焦ることはありませんよ。我々の時は……いや、彼の者が急いているのでしたか」


 窓を見遣る。広場で吠えていた人狼の後ろ姿が尊厳卿の脳裏に浮かんだ。人狼が求める刻限は明日であったはずだ。


「我らにはあまりにも時間だけがありすぎた。考える時間だけが……」


 閑寂卿は書机から立ち上がり窓辺に寄った。分厚い硝子に写り込むその表情は懊悩するそれである。村人に話すわけにもいくまい事情を、秘めていた心を表す語句を探しているのだろう、尊厳卿はただ静かに続く彼の言葉を待った。しばらくの後、閑寂卿は尊厳卿に向き直った。その瞳は未だ揺れていた。


「正直に答えよう。ラファール殿。吾輩は自分の正義を信じることができずにいる」

「……。」

「誰しもが、主を糾した吾輩を正義の騎士であると言った。吾輩も正しいことをしたのだと思っていた」


 かつての閑寂卿も迷い、苦しんだ末の決断だったのであろう。たとえ近しいものであろうと、堕落者の討伐は騎士の務めである。彼はその正義を為したのだ。主人が堕落者であれば……だが、と閑寂卿は顔を伏せ額に手を当てた。


「そこにあのウルリヒだ。愛するものを失った彼の慟哭を聞いたとき、私は揺れた。あの声が、いつまでも耳から離れぬ」


 人狼には、騎士がその主人を斬り伏せるまでの葛藤を知る由はない。彼に突きつけられたのはただ主人が獄へと堕ちたという事実である。元より主に対し騎士に劣らぬ深い敬愛を持っていただろう人狼の嘆きは想像に難くない。閑寂卿は「その時から剣を握ることを躊躇うようになった」と、辺境に移り住んだ顛末を話し終え、深く長く息を吐いた。

 尊厳卿もまた瞳を閉じたまま椅子の背に身を預け、彼らの因縁にしばし思いを巡らせた。この騎士は、ただ人狼の怒りを逸らすために甘んじて刃を受けようとしている訳ではない。ましてや告発の真偽に対する疾しさなどでは決してなく、親しく思っていた人狼を害することそのものを避けたいのではないだろうか。


「……私は先に、彼に騎士として情けをかけているのかと申しました。しかしそうではなく。貴卿が彼に向けているのは情愛……であるのでしょうね」


 閑寂卿は軽く顔を伏せ「ああ、そうだろう。ゆえに……」と頷いた。尊厳卿はその騎士を見上げ、瞳を覗くように、


「……ですが。貴卿が彼の者の刃をこのまま受けるのならば、それは貴卿がこの地の民の信に背くことになります」


 騎士の目が揺れた。

 騎士同士の決闘は互いの意志を通すための一つの儀式である。勝者も敗者もまた等しく尊ばれ、そこに悔恨を残すことはない。……しかし異端はそうではない。もしも騎士が“決闘”において異端の牙に倒れたとあらば、その栄誉は地に落ちることであろう。栄誉を失った騎士がその土地に留まることは、何よりも騎士自身の心が許すまい。


「この、村の者にはよくしてもらった。家名を棄てたために僅かではあるが、いくつか季節がすぎるのを楽できるくらいの財産も残せるよう手配した」


 自らに言い聞かせるように閑寂卿は呟く。


「民は、強いものだ。すぐに育ち、新しい季節を受け入れる」

「……では、汚名ののち。貴卿はどうされるのです。おそらくこの地を去りゆくのでしょうが、騎士に与えられた屈辱はそう易々と晴らされるものではない。

 そのような騎士の辿る道は決まって永遠の暗黒、常冬の地獄です」

「覚悟は……」


 続く言葉は紡がれぬ。絶句した閑寂卿は、深い霧が渦を巻くごとき灰色の瞳が己を真直ぐに見つめるのを受け止めきれず顔を背けたが、尊厳卿がその瞳を騎士から逸らすことはなかった。

 窓から差し込む月明かりがふと消えた。月を、ドラクルの瞳を一瞬、霧が覆い隠した。


「バルトロメイ卿」


 しゃら、と音を立てて尊厳卿は剣を抜き、立ち上がった。


「私は、戦いを運命づけられています。なに、貴卿にはまた別の不名誉を浴びてもらうことになりますが、騎士のそれならばまだいいでしょう」

「なにをするつもりだ…?」


 閑寂卿はその真意をはかりかねていた。先ほどまで穏やかに談笑していた騎士はゆっくりとその剣尖を彼に向けたのである。


「貴卿に決闘を申し込みます、閑寂卿。彼の者に向ける剣はなくとも、私ならば躊躇うこともありません」

 

 思いもよらぬ言葉に息を呑む。尊厳卿の表情は穏やかではあるが帯びる色はなく、ただ再び差し込む月光が刀身を輝かせていた。

 その輝きを見るうちに閑寂卿の脳裏に歓声が去来した。主人と共に駆けた領地の風、冥王の軍勢を撃ち返した一閃。剣を捨て、騎士の正道から離れたつもりであったが、記憶が朽ちることはないらしい。尊厳卿の突きつける剣が意味するところは敵意ではなく、おそらくは……


「……彼の者の無念にも応えられず、主の罪も裁けぬ。その苦しみを抱いたままここから去るというのならば、それもいいかもしれませんが……」

「く、フフ……」


 閑寂卿は堪えきれぬ笑いを洩らした。彼を騎士の座に引き戻したのは甘やかな口づけではなく、怜悧に光る刃であった。


「一度に二人から決闘を申し込まれるとは……な。これが民の色恋であったならば吾輩は体を裂かれているところかな?」

「貴卿の人気には少し妬いてしまいますね」


 尊厳卿も表情を崩し、はは、と笑った。


「不思議なひとだ、旅の方。いいだろう。その申し出を受け入れよう。この鈍らの剣で貴卿を満足させられるかはわからないが」


 閑寂卿の言葉に尊厳卿は頷き、剣を鞘に収めた。騎士同士の決闘であれば、“敗れようが“名誉に傷が付くことはあるまい。だが尊厳卿は、もはや甘んじて地に伏せようなどと考える騎士はここにはいないだろうことを心得ていた。鈍らとはいいながら、閑寂卿がいつの間にか形にし腰に帯びた剣は、その鋭さを鈍らせてはいない。


「しかと。……でしたら、恋敵に話をつけて参ります」


 尊厳卿は一礼をすると、扉を潜り人狼を探しに村の中へ戻っていった。ここに今、騎士の決闘が取り付けられたのだ。……しかし。人狼と騎士、彼らの語りからその主の姿を思い描く尊厳卿の表情には、少しの陰りがあった。







 人狼……ウルリヒは村の片隅に隠れるように佇んでいた。閑寂卿に対する殺意はあれど、ただ激情に任せて民をいたずらに傷つけたいわけではないのだろう。尊厳卿は所在なさげなその姿を見つけると、先にはついぞ聞くことがなかった名を呼んだ。


「やぁ、…ウルリヒ殿、でありましたか。先ほどはお話いただき、ありがとうございます」

「なんの用だ、騎士


 人狼はわざとらしく語句を強くし、尊厳卿に応答した。穏やかな笑みを浮かべ彼に近寄るこの騎士に対し、ひとまずの警戒を解きはすれども信用することなどできぬと考えていたのである。また何らかの言葉で懐柔しにかかるのであろうかと、しかし、続く騎士の言葉は彼にとって思いもよらぬものであった。


「貴方と交渉しに参りました。端的に言いますと、私はこれからバルトロメイ卿に決闘を申し込みます」

「は?」


 人狼は目を大きく見開いて、


「お、お前、何を言って!」


  騎士の瞳には冗談の色は一切伺えぬ。笑みの消えない口元に対し、瞳の冷ややかさが抜身の刃を思わせ、彼の言葉を真なるものと示していた。


「私は事情を貴方がたの言葉でしか伺うことはできません。ですから、貴方の心に身全てを投じて沿うことはできません。ですが……」


 ふと尊厳卿は目を細めた。瞳からは鋭い輝きがなりを潜め、安寧とした煙霧に変わる。


「貴方の心、主への義、恩、そういったものが偽りであるとは到底思えません」

「……。」


 人狼は無言で尊厳卿の言葉を聞いていた。だが、それは言葉を発せぬわけではなく、口を開けば牙を剥いてしまうことを危惧するからのようであった。彼はしばらく騎士の言葉を咀嚼するように黙りこみ、しかし飲み込みきれず落ち着きなく視線を彷徨わせ、そして困惑しながら尊厳卿を見返した。


「お前は」


「なにがしたいんだ」


 かつて彼が主の潔白を主張した城内を思い出す。誰しもがその言葉を、存在を訝しみ、やがてその場で激情を抑えきれず狼に転じたウルリヒに「やはり」と剣を向けた。哀れみからかすぐさま異端審問官に追われることがなかったのは幸運であったのかもしれないが、彼の訴えは黙殺され、騎士たちに聞き入れられることはついぞなかった。彼はその場から逃げ去るほかがなかったのだ。

 今、この旅の騎士もまた剣を抜いていた。だがその剣尖は彼の怨敵、閑寂卿に向けられているのである。


「私は……そうですね。貴方の持つ「義」が真実であるか。そうであるならば、騎士ではない貴方が、それを貫き通す様を見届けたいのです」


 尊厳卿もまた言葉を探るように思案しつつ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「常ならば、そういった志は騎士のみが持つ、そう言われています。貴方がたのような者はそれを持たぬ、故に騎士の誇りには意味がある、と。

 残念ながら、かつて貴方の訴えが聞き届けられず、バルトロメイ卿の言葉のみが受け入れられたのには、そういった考えがもとにあるでしょう」


 告発の場を推察した。騎士とて理由もなく異端を蔑むものばかりではない。現に彼の主はこの青年と深く交流があったのである、そうならば配下もまた彼を易々と軽んじまい。だが異端が騎士と並び立てぬ所以は蔑視だけではない。彼らは騎士が重んじる思考の要、忠義というものを決して持たぬからだ。……そう騎士たちは、信じているのである。

 ウルリヒが怒りを思い出すように唸る。尊厳卿はそれを制止するように掌を掲げ、言葉を続けた。


「そうでないというのならば。ただ一宿一飯の恩ではなく、その心を捧げ、身を捧げるのを厭わない、そういった「義」というものを貴方がたが持ち得ているというのならば。そうと示すことこそが、あの日の貴方の訴えを真とするのではないでしょうか」

「それは! ……っ……!」


 人狼の鼻先がさざめく。そのまま狼へと変じそうになるのを抑え、「俺が……自分で!」その肩に尊厳卿がそっと手を置いた。「……それはならない、ウルリヒ殿。」


「貴方がその方法で”騎士”を訴えるのは。貴方だけでなく、貴方の言葉、そして貴方の持つ「義」、ひいては、貴方のかつての主を貶めることになる」

 

 「主を貶める」。その言葉を聞きウルリヒは身体を強張らせた。尊厳卿は手を退かさぬまま、その様子をただじっと見つめている。人狼はざわ、と髪を揺らし、肩を震わせ……しかし身を獣に転じることはなく、ただ項垂れた。


「……バルトロメイ卿は、貴方との決闘では剣を持たぬつもりだったそうです。貴方への……おそらく、貴方の言う「義」に報いるつもりだったのでしょうが」


 尊厳卿は青年から身を離しながら、小声で言った。「ヤツが…そんな」ウルリヒは不愉快そうに顔を歪め、地面を叩く。


「それはそれで、騎士の誇りを損なってしまう。戦いのない決闘など、汚名しか残りません」

「じゃあ!俺の正義は!…あの方の……は…」

「……それを私が晴らします。そういうことです」


 顔を上げ詰め寄る青年を制し、尊厳卿は腰の剣に手を当ててみせた。己がかの騎士と戦い、そして勝利を得るのだと。ウルリヒが覗き込んだ騎士の瞳は再び、鋭利な刃のような銀の光を湛えていた。


「バルトロメイ卿は、貴方には剣を向けられない。そう話しました。意図はどうであれ、それは決闘ではありません。……貴方も、卿も報われることはない」


 青年は深く悩むように低く、だが小さく唸っていた。……今日あったばかりの騎士の言葉を信用するかというのもあるが、かつて己をないがしろにした騎士、そのものに対する忌避感だろう。だがこの騎士の言を全て撥ね付けることは、彼の心が良しとしなかった。何より彼もまたその誇りにおいて、決闘にすらならない決闘を望んでなどいないのである。そうであるならば……。

 しばしの葛藤、沈黙。……やがて青年は唇を噛み、背を正した。じっと、その金色の目で尊厳卿を見つめる。


「お前に、俺の正義を託してもいいのか」

「……確かに、預かりましょう。貴方の誇りを、私は尊く思っている。そして願わくば……」


「それが傷つき、くすみゆく姿を私は見たくない」


 祈るような囁き、尊厳卿の瞳が細められ、絞られた光は霞の向こうへと消えた。青年、ウルリヒは深く長く、息を吐いた。「……そんなのは、今更…だ」かすれた声は空気に溶けていく。尊厳卿はふ、と微笑むと小さな椅子を二つ作り出して青年に手で示すと、片方に腰掛けた。


「多少の時間はあるでしょう。……貴方さえ許すのならば、主の話を聞かせてください。私の見聞は未だ狭い」

「…もうこれだけなんだ。俺にあるのは。俺に残っているのは。主が話してくれた、騎士の誇り……」


 青年は目を閉じ、一つ一つ思い出すようにゆっくりと語りだす……。


「庭で、たくさん話してくれた。遠くの地で冥王軍を撃退した話、民を惑わした太陽の信者を追った話……」

(……ああ、狭い見聞だ。彼の心は騎士そのものであろう)


 尊厳卿はその話を聞きながら言葉を反芻する。


(憐れなことだ。彼は”騎士”ではなく”異端”である。ただそのひとつだけ、ひとつこそが、彼を騎士でないと定めている。だが)

(その誇りに偽りなどあるまい)


 ……たとえ、彼が憧れているものが常に他者から語られる騎士の姿だとしても。ウルリヒは純粋で、偽りなど持つことをしない。真っ直ぐすぎた青年だった


(愛らしいと。バルトロメイ卿がそう語ったのも然りということだ……)

(そして、やはり……)






 

 ──いかなる導きか。旅の騎士は、ぶつかり合おうとしていた二つの勇士の合間に立つ。

 異端でありながら騎士の誇りを胸に秘めたウルリヒの代理として、尊厳卿ラファールは今、閑寂卿バルトロメイとの決闘に挑まんとしていた。

 輝く月へと届くように。今ここに汝の正義を掲げよ!──


「……義ある者、ウルリヒに代わり、”尊厳卿”ラファール・オールダム・フォン・ローゼンブルク。私は貴卿に決闘を申し込みます」

「我、バルトロメイ。家名なきカインシルトの身であるが、謹んでその申し出を受け入れる」


 高く宵闇を照らす月明かりの下、二人の騎士が対峙していた。一人、見るものの心を鎮めるが如き柔らかな灰金の髪を持ち、そしてもう一人は見るものの心を激しくうつような鮮やかな紅の長髪を靡かせている。だがその内懐はどちらも猛る闘士のそれであった。


「いざ。」尊厳卿は剣を抜いた……穏やかな瞳にかつての拭えぬ熱が灯る。(やはり私には戦いが課せられている。)誰もおらぬ広場の気は冷え、ぴりと肌を裂くような緊張感がその場を支配していた。対して閑寂卿もまた剣を構え、呟く。


「ああ……心地よいな、この空気」

「……貴卿もやはり騎士であられる、閑寂卿」

「久しく忘れていたものだ。感謝するぞラファール卿。そう、吾輩は騎士。それ以上にも以下にもなれぬことを思い出した」

「ならばその本懐を果たしましょう」


 二人の騎士はほぼ同時に剣をもたげ、そして切っ先を互いに向けた。刃に映る月光がしゃんと音を立てそうなほどの静寂の後、一陣の風が吹き抜けた。

 

 尊厳卿は瞬時に馬を具現化し、一度距離を大きくあけ反転、駆け抜けざまに一閃を放つ。それは鮮やかな色彩の如き一撃、馬上からの攻撃を受けながら、しかし閑寂卿は倒れる無様は晒さない!「流石に耐えきるか」「隠居しているからと甘く見られては困る」「それでこそ、戦い甲斐があります」尊厳卿の声音は未だ穏やかである、だが帯びる高揚を隠し切ることはできぬ。紅の騎士は、つい数刻前に迷いを見せていたとは思えぬ気迫を露わにし、しなやかに衝撃を逃すと再び剣を構え直した。


 「こちらもいかせてもらおう」


 閑寂卿バルトロメイは「武人」である。たとえ剣を振るうことを厭い、戦場より離れていようとも、衰えることのない体はその勘をすぐに取り戻す。


「吾輩は小手調べなどという甘いことはしないぞ。決闘といえど全力を出させてもらおう!」


 馬上の尊厳卿をそのまま狙うかのような、鋭い突きがただ一度、繰り出される。対する尊厳卿は急所をずらし受けきり……同時に薔薇の花弁がわ、と巻き上がった。「ほう。外してみせるか」本気というのは嘘ではないのだろう。驚嘆の声を出す。花弁とともに幻想の馬は虚空へと去り、尊厳卿はふわりと地に降りると、


「……そうですね。互い、相手にとって不足はなしということです」


 足並みを整え、二騎士は相対する……その戦いを、木々の合間から見守る者あり。青年ウルリヒはその戦いに固唾を呑み、圧倒されていた。


「これが、騎士の戦い」


 砂が舞い上がり、再び騎士たちは身を翻した。静寂にまた剣戟の音が響き出す。まるで花吹雪の如き閃、尊厳の剣はたしかに閑寂卿を追い詰めていく……だが、紅の騎士が倒れるには一手が足りぬ。その足は押されることなく地を踏みしめ、揺らぐことはない。


「厄介な騎士殿だ」


 尊厳卿は打ち切ると、間合い一つ分飛びすさり声をあげた。頬は紅潮し、瞳に煌めきがよぎる。「これは我が名誉だけのことではないゆえな」「ふふ、幾人の剣がこの場に振られていることやら」口元は穏やかな笑みのままでこそあるが、対者の動きを逃さんと油断なく視線を巡らせた、最中閑寂卿は瞬時に間合いを詰め、低く身を屈めた。「先程はそらしたが、こちらはどうかな……?!」

  先の一撃が一点を穿つ閃光であったのならば、こちらは旋風の如く尊厳卿の首を狙う鎌のような剣であった。「……」殺気を捉え、尊厳卿はまるで倒れるように身を引く。刃は空を切り獲物を逃す。地を滑り、踊るように身を刃に潜らせ、ため息を一つ。


「……私の身もまた、負う者がありますのでね」


 先に巻き上がった砂がさらさらと音を立ててようやく互いの背後に振り降りた。騎士に流れる時間からすれば刹那の打ち合い、互いの実力を知るには十分、されど勝敗を決するには至らない。次の一手をどちらも逃す訳にはいかず、しかし仕掛けるには未だ……その間に声が割り入った。


「俺は、俺はアンタを信じたんだぞ!」


 それは二人の決闘を見ていたウルリヒであった。騎士の決闘を邪魔する無粋はせず、だがその声を神聖な場へと投げた。


「……ウルリヒ殿。しばし待ちなさい」

「ラファール……」


 尊厳卿は閑寂卿から目を離さず青年に言葉を返し、剣に手を添えたまま「……叱られてしまいました」不甲斐ないと、と閑寂卿に笑いかけた。


「今日あったばかりではなかったかな?随分懐かれたようだ」

「……あとで謝らねばなりませんね。彼は随分と、貴方…貴方がたの主の話をしてくださいました」

「きっと、実際よりもキラキラとした話だったでしょうな」


 閑寂卿はじりじりと間合いを保ちつつ苦笑した。青年の言には想像が付く、何しろかつて共に同じ主人に仕えた仲である。当時から確かに彼は主人への好意を表すことを憚りはしなかった。その姿は微笑ましくもあり、また時には辟易するほどでもあったのである。


「ええ、まるで夢見る乙女のようでしたよ。……しかし確信が持てました」

「ほう」

「彼の忠義は揺るぐものではありません。それは、市井の騎士では敵うものではない堅牢なもの。そして」

 

 声を低く、潜める。


「……やはり貴方がたの主は、堕ちていたのだろうと。」

「……」


 剣を握る手にわずかに余計な力がかかる。その閑寂卿の様子を傍目に尊厳卿は言葉を続けた。


「堕落に誘う道にはいくつかの導があると聞きます。孤独、後悔、懐旧、」


「そして甘言……彼は忠義の徒なれど、彼の言葉は騎士にとってそれにあたったのではないでしょうか」


「私とて、彼の言葉を素直に反駁もなく受け続ければ、どのような道を歩むだろうか……定かではありません」

「ラファール卿、それ以上は」


 焦るように踏み込んだ閑寂卿の剣が奔った、今までと比べれば粗末な剣筋が続く、キン、キン、と尊厳卿は丁寧に剣を受け止め、捌いていく。

 彼らが語る主人の堕落の経緯には、謎めいた点が幾つか存在していた。いかに一時の享楽に溺れようとも、偉大な騎士がただそれ故にそう易々と堕落するものなのであろうか。またそれをこの騎士が留める様なことはなされなかったのか。閑寂卿、彼はきっと自ら主人の側から身をひいたのだろう。騎士は同胞に潤いを与えると共に、時には叱責を送る。この閑寂卿は紅と黒の剣を共に備えぬような未熟者ではあるまい。そうであったのはおそらく……

(あまりにも緩い。)ひとなぎを打ち払い、考えうる軌跡通りに振られた剣を絡め取った。互いの眼前で噛み合った剣を押し込むように力が加えられるが、尊厳卿は表情一つ変えず。


「……あぁ。貴方も、その道の礎でしたか」

「彼に、悪気はない」

「その結果として、貴方がたが誘われるのが獄であろうと、ですか」

「……たとえ異端であろうと、ただ無垢に慕う者を斬ることはできぬ」


「それは我が正義では…ないのだ」


 思いを押し殺したような閑寂卿の剣を流し距離を取ると、尊厳卿はふ、と笑った。


「バルトロメイ卿、それは貴卿の奢りです。彼はただ斬られるばかりではない……続けましょうか、私たちの決がつくときまで。この剣は彼の牙も同じ」


 閑寂卿は顔を上げる。表情は苦悶のそれであった。「吾輩は勝つ。勝たねばならない」

「そうでしょうね。そうでなければ、貴卿は「主」の汚点を隠せない。ですが……」


──いつからであろう。輝く月には雲がかかっていた。

それは心を隠すように、目を覆うように。

されど、されど。風は吹く。

騎士よ、どうかこの雲を晴らさんことを!──


 剣戟、剣戟、打ち合った一瞬の合間に距離を取り、尊厳卿はそのまま勢いをつけ斬り込む。続けざまに一撃、二撃、三撃、


「これは……!」


 閑寂卿は激しさを増した尊厳卿のすべての剣を受け流し、あるいは急所を外したものを身で受け止めながら目をむいた。


「は、本当に、その口のように鋭い剣だ」

「貴方は打ち倒されねばなりません。彼の為、貴方の主の為、貴方自身の為にです」

「不思議な騎士だ、貴卿は……人から話を聞き出し、かと思えば饒舌に人の核心を突いてみせる」

「旅の身ですから……多少は身につけるものもありますでしょう」


 振り切った一閃は腕で受けられ、返す刃が振るわれる。身構える尊厳卿に、


「だが……口にすべきでないものもあるのだ。主は地位に溺れ、理想を忘れた……それでいい、”本人”もそれに納得した!」


 一瞬の虚、「まさか。貴方がたの主自身が」人狼の過ちを覆い隠すがために、自らの騎士の誇りを投げ捨てたと言うも同然である。閑寂卿の剣が尊厳卿の頬を裂き、鮮血が迸った。


「……貴方がたは二人で……彼の者を雪辱の沼へ呼び込んだのですか」

「そうではない」


 閑寂卿は怒りか、悔恨か、顔を歪める。


「吾輩にも、あのひとにも想像できていなかったのだ。彼がそれほどまでに、己の身を投げ出すまでに主を愛していたと」


 先に聞いた彼の話を想起する。確かにその情愛は“異端“が抱くものとしては異質な、深く細やかなものだ。もはや戻れぬ堕落に至った主人とこの騎士らは、獄を前に言葉を交わしたのかもしれぬ。騎士一人の償いで手打ちとしよう、と。人狼はおそらく彼らの道理に則り、森の奥へと帰っていくだろうと……。しかし人狼は、青年はそうしなかったのだ。


「その敬愛は、本来我々には非常に馴染みのあるものと同じでしょう」


 崩してしまった姿勢を整え、頬の傷には頓着せず、尊厳卿は振られた剣を往なし、


「我々は騎士……騎士の忠義は、身を主の為に費やすことを厭わない」


 剣を真横に薙ぎ、振り上げられた強い一打を跳ね返した。二人の騎士は弾かれる様に距離を取り、ざざ、音を立てて地が削られ勢いを殺す。

 

「異端に、騎士の道理を見出すことになるとはな……」


 閑寂卿はふと微笑む。諦念と悔恨を滲ませたまま、肩を引き土を蹴った。


「異端でさえなければ、これほど思い悩むこともなかったというのに」


 一瞬で詰められた間合い、尊厳卿は振るわれた剣を真正面に受け、頬からの血沫と薔薇が舞い上がる。剣が花弁を一つ裂き、二つ裂き、


「異端なれど。いえ、そうであらばこそ……彼の者の“誇り“を尊ぶべきです、閑寂卿。そうあるごとに、“騎士の誇り“もまたその意味を持つ」

 対する騎士の言、それに刃を突きつけた。異端の言葉を騎士のそれと同じく吟味することがなかったが故に、その導かれる先を見誤ったのだと。


「そこに道が敷かれていようども、決して堕ちぬべきが騎士なのでしょう」

「卿は…吾輩とは違う目で彼を見ているのだな……ああ、気づかぬ間に吾輩も彼を”可愛がって”いたか」

「……そのようですね」

 

 僅か会話の後。再び剣戟が始まる、先の一太刀が裂いた頬からは未だ鮮血が散るが尊厳卿はそれを気にとめることもなく、踊る花弁に混じり闇を染め上げる。……握るべき剣を誤ったことに閑寂卿はすでに気付いていた。悔悟が徐々に振る舞いの冴えを鈍らせていく、対し打ち返される薔薇の嵐は激しさを増す……やがて。

 永遠に続くと思われた打ち合いも収束へと向かう。1撃、最後の一薙ぎが閑寂卿の剣を弾き飛ばした。剣は宙で月光にきらりと光り、やや遠くに突き刺さる。それは騎士の心の産物、再び手に現すことなど造作もないが、


「吾輩の、負けか」


 深く、ほうっと息を吐くような呟きであった。


 尊厳卿は剣を閑寂卿の喉元に突き付け、そして軽く横に振るう素振りを見せ


「……ええ」


 その剣を鞘に収めて身を崩した閑寂卿の手を取り、手首に口づけをなした。


「良き試合でありました。これにて諍いは終わりとしましょう」

「……かの公へと呼びかければ、吾輩を獄へつなぐことも叶うかもしれんぞ。偽りを貼り付けたのは事実なのだから……」


 真祖の瞳、月を背に立つ尊厳卿を見上げながら閑寂卿は言った。姿は暗く、しかし彼を縁取る様に月光を写した灰金の髪が輝いていた。


「……そうですね。もし」


 尊厳卿は身動ぎをした。影が長く伸び、閑寂卿に安寧の闇を落とす。彼らが主人……それは剣を捨て、「彼の罪」と共に獄に堕ちた。たとえ異端を慮ったものであったとしても、その行く末を辿った限り彼は騎士ではない。


「私の申し出を断られたのならば、そうしたかもしれません。ですが貴方は剣を取った。」

「ならば、貴方は未だ誇りある騎士であるのでしょう」


「そうであったな」


 闇の中、閑寂卿は主人を、ただ一つ道を誤った騎士を想い、顔を覆った。


「ああ、そうであった……」









「お、終わりなのか」


 静寂の中。佇む尊厳卿にウルリヒがおずおずと近づいた。


「ええ、終わりましたよ」


 尊厳卿は青年に微笑みかけつつ、閑寂卿に言葉を落とし、


「では、また縁があるようならば……貴方が騎士であれば、またお会いすることもあるでしょう」


 そのまま村の外へ歩を進めた。引き止める様にウルリヒが声をかける。


「アンタ…もう行くのか」

「ええ。私の望むものは見ることができました。やはり世界は広い。私もまだ知らぬことばかりです」


 (確かにこの異端の青年は騎士の志を兼ね備えていた。主人の結末は残念なものであったが、容易に得難い、また尊いものであった。)

 尊厳卿は満足げに微笑んだ。対し青年はバツの悪そうに肩を竦めて頬を掻いた。


「あの…初対面であんな態度とって悪かったよ」

「構いませんよ。軽薄だと怪しまれるのには慣れています」


 あはは、と声を上げて笑う。流石に、騎士そのものに対してそこまでの警戒を受けることは多くはないが、騎士相手となると薔薇の紋を持つ故に侮られることはままあるのである。青年は彼の笑いにつられてか頬を緩めた。その様子を見、さて、と尊厳卿は問うた。「貴方はどうするのですか」


「どう、って」


 問われるとは思ってなかったのか、青年は戸惑いの表情を見せた。「このさきなんて、考えたこと、なかったし」それは猛り荒ぶっていた際に見せていた姿にくらべ、途方に暮れる幼子の様でもあった。尊厳卿は先の問答を思い起こしながら、ふむ、と瞳を閉じてしばし思案したのち、


「貴方の志は、非常に騎士のそれと通じるものがあります」

「ほ、ほんとか!俺騎士みたいだったか!」

「随分と嬉しそうですね」


 ぱ、と顔を輝かせる青年に小さく笑い、尊厳卿は「……騎士は、非常に長い鍛錬の時を必要とします」首を上げ、青年の金の瞳を覗き込んだ。


「何故だと思いますか?」

「つ、強くなるためじゃないのか?」


 思いついた事柄をすぐさまに口にしているのだろう。ええ、それも確かにと肯くが、「しかしその期は専ら、己の心を抑える鍛錬に費さねばなりません」

自らの若き頃を脳裏に想起する。尊厳卿の場合は師についた訳ではなく、また鍛錬を目的としていたのではないのだが、ひたすらに他の言葉を聞き入れていたかの時こそが騎士の志を作り上げたのだろう。若き心のままならば……栄誉をひたすらに求めていたかつての己を思い出し、尊厳卿は軽く唇を噛んでから、たとえば、と言葉を続けた。


「忠の心はとても強靱です。ですがそれは時に人を誑かせ、道を誤らせる」

「道を、誤る……」


 堕落者と呼ばれることになった主を想っているのだろう。かの騎士たちはこの青年から真実を遠ざけた、しかし。尊厳卿はこの青年がいずれその真実にたどり着くだろうことを予見していた。無論己の心を抑え、甘やかな希望を自ら否定する術が必要になるが……


「貴方の志は確かに騎士のものです。しかしその心に、貴方自身の心身を断ち切る刃は未だ見えません」彼は、そこに至るべきであると。


「長い時が必要かもしれません。ですが、貴方はそれを得ることがきっとできる。……貴方が望むならば」


 「鍛えてさし上げましょうか」尊厳卿は悪戯っぽく微笑み、ウルリヒに手を差し出した。


 青年は目を丸くし突然の申し出に驚いた。できるのかな、俺に、そう小さく溢す。かつて慕い、堕落した主人を忘れ得ず躊躇う背をしかし、そっと押す者があった。


「行きなさい」


 静かな笑みを浮かべ、閑寂卿がその背に触れていた。


「過去ではなく未来を見ておいで。吾輩や、あのひとでは見れなかったものを。そしていつかお前が騎士になれたら、お前の話をしてほしい」


 少し振り返った青年に小さく頷く。青年が閑寂卿に食らいつくようなことはなかった。鮮烈な怒りは鎮まり、諦念は過ぎ、かつて、一人の主人の元で流れていた彼らの時が、そこに今ひとたび姿を見せていた……しかし。彼らがまた同じ過ちの道を辿ることは決して許されぬだろう。

 

 尊厳卿の灰の瞳を見た。騎士は促すように微笑んだ。

 青年は、やがておずおずとその手をとり……




 気がつけば、空には雲がなくなり、月が穏やかに輝いていた






──ドラクルの眼が覆われるように、騎士の眼もまた曇るもの。

 だが騎士よ、己の隣を見よ。貴卿の同胞がいるだろう。

 彼らの姿に己の身を正すべし。

 他を鑑とし、鏡とすれば、その曇りはいずれ晴れゆく。


 ……そして忘れるなかれ。貴卿にはまた、同胞でない隣人も共に在る。

 汝らよ、どうか誉れある騎士であれ、そしてその志に忠義あれ!──

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