第37話

 アイルたちは、それからすぐに氷晶の薔薇拠点へと戻った。

 既にレナードたちが戻っていたが、ソフィアの姿だけがなかった。彼に聞いてみると、用事があって薔薇園を訪れているとのこと。白翼の剣との協約の件については、一応万事順調に進んだらしい。それは吉報なはずなのに、彼らの表情がやけに判然としない風だったのが気にかかったが、詳しい話はソフィアが戻るまでお預けだ。

 アイルは先ほどの出来事を打ち明けないことにした。特に重要な情報はない。

 今はとりあえずソフィアの帰りを待とう。

 


 今、ソフィアの目の前には、小さな女の子が立っていた。場所は、懐かしく忌まわしい、あの古ぼけた家の一部屋。表面がボロボロになった小さな机と、少し変色し始めた布団代わりの布切れ。


 「お姉ちゃん」


 「どうしたの?」


 「私もいつか、お姉ちゃんみたいにすごい魔法使えるようになりたいな」


 「なれるわよ。なんて言ったって、私の妹だからね」


 「うん!」


 哀しいほど健気に、その顔に大輪の花を咲かせる少女。それはまだ何にも染まっていない、まだ何も知らない白であった。それはこの家で唯一存在する清廉さなのである。

 対照的に、この頃からソフィアは、自分でも気づかぬ内に罪の色に染まっていくのであった。


 「ねえ、お姉ちゃん?」


 また違う日、少女が聞いてくる。その声は幾分沈んでいた。


 「どうしたの?」


 「私、本当になれるのかな…… ? お姉ちゃんみたいに」


 「大丈夫。たくさん練習すれば、絶対に上手くなるから。最初から魔法を使いこなせる人なんていないの。努力すれば絶対にすごい魔法師になれる」


 「本当に…… ? 約束する?」


 「ええ、約束するわ」


 そうやってまた、根拠もない、少女を安心させるための姑息な嘘で間に合わせる。そうして、薄汚れた自分の小指と、少女の透き通った白い小指を交わらせるのだ。

 もう随分前から、ソフィアは気付いていた。少女は"劣性"を受け継いでいて、それはどんな努力をしたところで"優性"であるソフィアの域には万が一にも届かないと。しかし、この時、優しい嘘は少女から絶望を遠のかせ、それが彼女の身を守ることに繋がると信じて止まなかったのだ。

 それが人生で一番の罪になるとは知らず。


 「ソフィア?」


 遠い場所から、おぼろげに自分を呼ぶ声が聞こえた。それは、愛しい少女の声に変換され、呪いのように心を締め付けてくる。


 「ローズ……」


 ソフィアはうわごとのように呟いた。


 「ねえ、ソフィア?」


 今度はハッキリと聞こえた。これは少女の声などではない。


 「あれ、私……」


 「どうしたの? 何か元気ないみたいだよ?」


 声の方へと顔を向けてみると、心配げにこちらを見つめる少年の瞳が、ちょうど同じ高さにあった。


 「ヘンリー…… あ、ううん! 何でもないの…… ちょっとボーッとしてたみたい。それより、この部屋は入っちゃダメって、言われてるでしょ?」


 ソフィアは柔らかな口調で優しくたしなめる。ここは、薔薇園の中でも、色々と重要な物が保管されている一室で、通常子どもは立ち入り禁止だ。


 「ごめんなさい…… ソフィア、全然戻って来ないし、鍵開いてたから」


 そう言われて、ふと時計の方を見ると、既にこの部屋に入ってから一時間が経過していた。ソフィアは、その間ずっと机に突っ伏し、眠っていたらしい。


 「そうだったの。私の方こそごめんね、心配かけて」


 「本当に大丈夫なの? 最近、全然こっちに来てくれないし。それに、ソフィアもみんなも怖い顔してるから…… 何か大変なことでもあったの?」


 ソフィアは内心どきりとした。

 子どもというのは、感受性豊かで、こういう他者の機微に気付きやすいことがある。薔薇園の子どもたちには、今氷晶の薔薇が直面している危機について、何も話していない。


 「大丈夫。今はちょっと忙しいけど、すぐにいつも通りの生活に戻るから」


 「本当に?」


 「ええ、本当よ」


 ソフィアは無意識の内に立てていた小指を、気づかれぬようそっと隠した。

  ソフィアは薔薇園の子供たちと、久しぶりに軽く立ち話をし、それからそこを出た。後のことは、氷晶の薔薇の部下が常駐しているので、彼らに任せることにする。

 鉄製の門扉を開け、大通りへ繋がる一本道から何気なく上を見上げてみると、茜色の空がゆっくりと暗い闇に呑まれていくところだった。そんな悠長に過ごしている暇はなかったのにと、焦燥が足を速める。急いで拠点に戻らなくては。しかし、そんな矢先、彼女は金縛りにでもあったかのように足をピタリと止める。

 建物の壁に一人の男が寄りかかっていた。いや、黒いフードを被っているので、一目だけでは性別はわからぬのだが、その異様な雰囲気は他に思い当たる節もない。彼はソフィアの存在に気づくと、顔だけこちらに向ける。


 「こんばんは。二、三週間振りくらいですか?」


 「薔薇園には近づかないと約束したはずだけど」


 ソフィアは冷たく言い放つ。


 「ひどいですね。これでも、色々と尽くしてきたつもりなんですが」


 男は困ったように頭をかくが、口元から漏れる笑い声は、こちらを手玉に取ろうとする者が発するそれだった。


 「また何の取り柄もない子どもたちのために苦心惨憺されてるのでしょう? さっさと見切りをつければいいのに。協約なんて、もし表沙汰になったら一巻の終わりですよ?」


 ソフィアは眉をひそめた。


 「あなた、どこまで知っているの…… ?」


 「それはもう、ほとんど全てと言っても過言ではない。あなたが相対しているのが誰なのか、わかっているでしょう? あ、でも安心してください。これは他の誰も知らないし、今後も内緒にしておいてあげます」


 「ただし」と男はすかさず右腕を伸ばして、一本指を立てた。ローブの影から覗く不吉な赤い満月を見て、不安に胸がざわつく。


 「しっかりと仕事をこなしてくれたらの話ですけどね」


 「狙いは…… 前と同じなの?」


 「もちろん。それ以外の要件で、わざわざ内々に頼み事なんてしませんよ」


 「今更だけど、何があなたをそこまで駆り立てるの? あなたが動くほどの、価値があることなの? 前は仕方なく了承したけど、でもーー」


 ソフィアが言い切らない内に、男はわざとらしく息をつき、これまた芝居がかった感じで肩をすくめ首を振った。


 「あなたは何もわかっちゃいない。自分がどれだけ強大な力を保有しているか。あなたは今、歴史が大きく変わるかもしれない、まさに分水嶺を目撃しているというのに!」


 男は一人興奮し、演説でもするように大きな身振り手振りを伴って、声高に説明した。その恍惚とした声や息遣いには、誇張や演技はなく、ただ剥き出しの欲望が溢れているようだ。その後も、しばらく彼は何かに取り憑かれたように、ぶつぶつと何かつぶやいていた。

 その狂態に、ソフィアはただただ呆れ返る他なかった。


 「よくわからないけど…… もう、あなたの頼みを聞きたくない。みんな家族なの。これ以上弄ぶような事なんてしたくない」


 「まったく、まだ依頼内容すら教えてないというのに。というか、あなたに拒否権なんてないことくらい、わかっているでしょ?」


 「……」


 ソフィアは反論できず、どうしようもなかったので、ただ憎しみのこもった目を向けるしかない。


 「ああ、なんて悲しい目。でも、ご安心を。ずっと鞭打っているだけというのは、少し退屈ですから。今回の報酬には、あなたが今一番欲しているであろうものを用意しておきました」


 「私が一番欲しているもの…… ?」


 「わかりませんか? 察しが悪いですね。あなたのギルドが優位に立てるよう、お膳立てしてあげると言っているんです」


 「そんなことが…… !?  いえ、そうね。あなたならそんなこと造作もない」


 ソフィアがその一点においては、強い確信を持っていた。そして、それは彼女が喉から手が出るほど求めているものである。


 「その通り。それで、引き受けてくれますね? 聡明なあなたなら、損得の計算くらいわけもないと思いますが」


 「わかったわ……」


 選択肢などない。これは歯向かうことのできない命令だ。ソフィアは風に流され、川にたゆたう木の葉も同然だった。先が見えない。さりとて、流れに抗う手段など何一つ持ち合わせていない、全くの無力。

 男は左半身をもぞりと動かし、そして、一枚の紙を挟んだ手をこちらに差し出してきた。ソフィアはそれを受け取ろうとするが、妙な違和感を感じて、その手を止める。そのモヤモヤは、すぐに驚愕へと姿を変え、身体中を駆け巡った。


 「待って…… それ、どうして。だって、前に会った時は…… !」


 「そんなに驚くじゃないですよ。これが"天使"というものの力ですから」


 「天使? それって一体……」


 呆然とするソフィアの手を、男は丁寧にすくい上げ、その掌に先ほどの紙を被せた。


 「さあ、商談成立です。それでは、良い結果が出ることを、心からお待ちしていますよ」


 訳もわからず、ソフィアが目をパチパチさせていると、次の瞬きの後には男の姿は消えていた。前と同じ。まるで、鮮明な悪夢でも見させられていたような気分だ。いや、これが夢ならどれだけ幸せか。目覚めれば、朝日がどんよりとした思いをすすぎ、新たな一日の始まりに、夢は遥か過去のものとして消え去るのだ。

 しかし、自分の手に乗る一枚の紙は、それが夢ではないことの証明である。彼は天使がどうとか言っていた。別にそれが何を意味しているかはどうでもいい。ただ、彼が残していったのは、天使の羽のように清くふわりとしたものではなく、厳しく重々とした自分へ当てられた罪状のようだ。


 「私はまた……」


 彼女は紙を自分の胸の前で抱え、コソコソと本部へ急いだ。

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