繋ぐもの

西条彩子

第1話 繋ぐもの

 緑の色が明るくなった。新緑の雑木林に密集する青々しい葉が降り注ぐ陽光を弾き落とし、地面に生えた苔や若草がさらに反射させる。視界も一気にひらけて辺りは眩しいほどになった。

 私の前を行くボルゾイのマルシェが立ち止まり、ひくつく鼻を天に向ける。突然現れた白毛の獣に、リスが駆け、鳥がさえずりをやめて飛び立った。

 風もなく木立は静かだ。五月にしては湿度も気温も高い。

 私はマルシェの横で足を止めた。口と鼻を覆う抗ウイルスマスクを少しだけ下にずらし、鼻だけを空気に晒す。たっぷりと潤った木々の匂いに、無性に懐かしさをおぼえた。

 優雅に揺れたしっぽが、黒いパンツ越しに太ももをふぁさっと撫でる。その瞳は広大な緑を映している。


「マルシェ。もう一回嗅いでみない?」


 ポケットに手を突っ込み、丸めた茶色いニット帽を細い鼻先へ突きつけた。マルシェはすんすんと嗅いで辺りを見渡し、細い足を数歩踏み出してまた止まった。


「ポンコツデカワンコめ。野生を忘れたか」


 私はがっくり肩を落とし、マルシェを睨んだ。

 そもそもこんな原始的な探索方法を素人と白犬で試みるほうが無理があるのだ。いくら相手が所在地情報を一切残さなかったからといって、犬の嗅覚に頼ろうなどと。

 確かにこの秩父の林の集落にいると聞いた。なのにいくら歩いても緑が深くなるばかりで家などどこにもない。いきなり林が途切れて人里が現れるという話だったのに、それらしい場所もなかった。

 別の手がかりを見つけて仕切り直そう。きびすを返しかけたその時、マルシェが突然吠えた。

 視線の先を見る。少し離れたところの太い樹の幹から現れたのは、鼻も口もすっかり露出させた黒髪の若そうな男性だった。グレーのパンツを穿いた脚は長く、白いシャツを着た上半身はとてもほっそりとしている。見とれてしまった私はすぐさまマスクをつけ直し、こちらを仰いだ彼の動向を息を潜めて見守った。両手で持っているのは、樹の苗木だ。


「誰?」


 よく通る声で彼は尋ねた。なんて答えたらいいか咄嗟に出てこない。返事の代わりのようにマルシェが再度吠える。

 彼はじっと私たちを見ていたけど、やがて歩き出し、木漏れ日が注ぐ場所に腰を下ろした。そして持っていた苗木を地に植えた。


 ――植樹?


 こんなにあるのになぜ、と思う。しかしそれはまるで、神聖な儀式のようだった。マルシェがそちらに行きたそうに数歩ととっ、と進む。マスクを付けていない人間を警戒する私の手は、リードを固く握った。

 樹を植え終えて立ち上がった彼の目が、私たちに注がれた。


「六歳のオスのボルゾイか。君は、十九歳の女性だね」


 言い当てられてひゅんっと息を飲む。同時に彼がマスクをしていない理由もわかった。私が歩き出すとマルシェも進む。嬉しそうなしっぽがばしばしと腰に当たる。

 近くで見た彼の顔は人間味の薄い美しい造形をしていた。彼は土のついた左手の甲を手で丁寧に払い、にっこりと笑って私にそこを見せた。

 人工皮膚の内側から放たれた緑色の光で文字が浮かぶ。


「こんにちは。ぼくはアロン。ヒューマノイドだ」


 型式番号から、うちのより一世代前の男性型家庭用ヒューマノイドとわかった。メンテナンスが行き届いているのか、日の光のせいか、彼の肌は眩しいほど白い。


「こんにちはアロン。私はみちる。この子はマルシェよ」

「みちるにマルシェ。よろしく」


 途端にマルシェは彼の足元にまとわりついた。私の警戒心を受けたように、彼の躰や差し出す手の匂いを注意深く嗅いでいる。


「家庭用ヒューマノイドが林の中で植樹?」

「主の意向でね。君はここでなにを?」

「人を探してる。家庭用だったら、この辺の住民のことわかるかな。湯川誠一郎っていう老人なんだ」


 アロンが私をじっと見たあと、「おいで」と告げた。


「その人がぼくの主だ。元、だけど」


 私は内心、マルシェへの暴言を取り消した。


 ※


 林を抜けると話どおりぽっかりとひらけた場所があって、立派な門を構えたロッジのような家が建っていた。

 マルシェを芝生の庭に放し、玄関ポーチで紫外線の照射と消毒を受ける。そこでようやく私はマスクを取る。

 室内は掃除が行き届いていて、埃ひとつなかった。ケヤキの匂いが満ちていて、ただでさえ高い天井と広いリビングがあるのにさらに大きく感じた。一方家具はとても少なく、テーブルとソファに、ダイニングのセットが一人分あるだけだ。私にとって初めて訪れる祖父の家の感想は、質素という一言に尽きた。


「誠一郎は去年死んだよ。二階の書斎で。老衰だった」


 淡々と告げ上を指差したアロンに、私は「そう」と素っ気なく返した。2084年に発生したウイルスのパンデミックは一年経っても収まらず、ゆるやかに感染者数を増やしている。

 今世紀はじめに流行った感染症を皮切りに、住宅には消毒用の装置が常備されるようになった。外を歩く時はマスク必須で、人が集まることは極端に減った。式典や会議などはバーチャルで済む。そんなときに老衰で死ねるなんて幸せだと思ったくらいだ。

 死因がどうあれ、正直予想はしていた。息子夫婦とも関わらない偏屈な老人の作家、と父は語っていたし、幼少のころに数度会っただけの祖父にそこまでの思い入れはない。

 だけどひとつだけ。彼が書いたという本を読んだことがあった。

 地球とも宇宙ともわからない場所が舞台のファンタジーだ。主人公の青年がヒューマノイドと二人で旅をするのだが、途中で青年が事故に遭い、ヒューマノイドは一人で旅を続けるという物語だった。ラストシーンは覚えていない。この家で死んだという祖父と、残されたアロン。彼らが物語の二人と違和感なく重なった。


「私たち家族に知らせなかったのも祖父が?」

「うん。だからみちるがここを訪ねてくると誠一郎は予想していなかった。君の話を聞いたことはある。書斎、見るなら案内するよ」


 茶色いガラスの瞳が真っ直ぐに私を見つめる。この瞳には期待もなければ悲観もない。私がこのまま去ろうと、彼は黙って見送るだけだ。

 でも、だからこそ見届けようと思った。


「お願い」


 彼の案内について二階に上がる。部屋に踏み込んですぐ、丸くくり抜かれた大きな窓が目に入った。真ん中に鎮座する大きなデスクには、少し黄ばんだまっさらな紙束がある以外何もなかった。かっちりと本がささる壁三面の本棚はガラス戸つきだ。古い紙の匂いに誘われたくしゃみが、出そうで出なくて気持ち悪い。

 本棚に触れて回ってもアロンは何も言わなかった。触っては駄目なものではないらしい。遠慮なく見て回っていると、本ではないものが急に現れた。フォトスタンドだ。

 ガラスに映り込んだ私の向こうに、幼い頃の私がいた。今よりずっと短い髪を耳の上で二つ結びにして、口を開けて笑っている。同じ写真が家にもあった。この写真を撮ったのが祖父だと聞いていた。

 椅子の背を前に立ち、紐で綴じられた紙束をめくる。小説だと思ったのにそこには文字は一切なく、ただ水彩の絵が書いてあった。食べることのできる野草やきのこ、動物、毒がある動植物の絵、鉱石や星に至るまで、何枚も。


「これは?」

「誠一郎が最後に描いていた」

「どこかに出すものかな。聞いてない?」

「何も。ぼくはただ、もしもこの地に迷い込んだ人がいたら声をかけるよう言われていただけ」


 一番最後のページの中央に、『繋ぐもの』と書いてあった。タイトルだろうか。

 階下でマルシェが吠えて窓を覗く。歩き回りながら、庭の一角の小さな樹が立つ土の地面をしきりに気にしていた。


「あそこは?」

「誠一郎の遺骨を埋めたところだ」


 私は紙束をデスクに置き、一目散に庭へ駆け降りた。


「やめなさい!」


 声を荒げて掘ろうとするのを咎めると、マルシェがきゅうん、と身を縮める。私はマルシェと変わらない背丈の樹に向かって頭を下げ、手を合わせた。背後でアロンの足音がする。


「気にしないで、みちる。そこに埋めるよう言ったのは誠一郎だし、マルシェは本能に従っただけだ」

「そういう問題じゃないの」


 確かにマルシェは本能のまま反応した。でも私の気持ちはやめてと訴えた。彼がヒューマノイドでよかった。どういう問題と返されたら、私はきっとうまく答えられない。

 目を閉じていたら、じわじわと祖父の不在が足元に広がりだした。それが案外堪えていることも事実だった。再び目を開けて、思わずハッとする。

 マスクをしていない。慌てて両手で口と鼻を押さえると、アロンは「平気」と言った。


「ここは滅多に人も来ない。感染のリスクを負ってまで君がここに来た理由は何?」

「両親が感染したの。陰性の私一人が家を出てきた」

「それで彼を」


 私は頷き、恐る恐る手を下ろす。


「もう遅かったのね」

「そうかな。確かに誠一郎には会えなかった。でも、彼はここにぼくを残した。家の手入れと植樹を命じてね」

「そうだ植樹。どうして?」

「人の営みのため。ぼくにはわからないけど、人は何度も『ここから始めよう』と考えるんでしょう? 誠一郎は、何が起こっても世界は繋がっていくって言っていた。だからあの絵本を描いていた。人間は土と樹がなくちゃ生きていけない。もしもの時の役に立つかもしれないって」


 そうかもしれない。事実これまでそうだった。土器を作って農耕をした時代から一万年以上。今やヒューマノイドが私たちのご飯を作る。治らない病気も減った。

 だけど自然はいつも突然私たちに牙をむく。恐怖した人間が人間と争い、本質をどんどん覆い隠す。自宅の近隣住民の蔑みの目は、今もはっきり思い出せる。

 なのに祖父の顔も読んだ本のこともまともに思い出せない。祖父が繋ごうとしたものが何かもわからない。それがとても悔しかった。


「……少しこの家にいてもいい?」

「もちろん。ここは、迷い込んだ人のために誠一郎が残した家だ」


 何から始めたらいいかわからないけれど、私はもう一度、かつて読んだあの本を読もうと思った。

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繋ぐもの 西条彩子 @saicosaijo

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