第2話

 

「ユキエちゃんて言うの。ユキエちゃん、和弥よ」


 ヒロシが紹介した。


「ユキエちゃん、よろしく。一条和弥いちじょうかずやです」


 名刺入れから一枚抜くと、由紀恵に手渡した。


「……どうも、初めますて」


 名刺を受け取った由紀恵が会釈した。和弥がヒロシを見ると、由紀恵の訛りについての問い合わせに回答する目配せがあった。


「……初めて?」


 和弥は長いタバコを一本抜くと、カルティエのライターを出した。


「こったどご来だごどねもの」


「これをきっかけによろしく」


 ヒロシがブランデーを注いだグラスを由紀恵のグラスにカチッと当てた。


「和弥、こっちに来てよ!」


 佐代子が怒ったように言った。


「ヒロシと楽しんでて。すぐ戻るから」


 和弥はタバコを揉み消すと席を立った。


「あ、この曲いいじゃない。踊ろ」


 ステージのバンドがラテンのリズムを演奏すると、ヒロシが由紀恵を誘った。


「踊れねって」


「おらが教えるってば」


 由紀恵の手を引っ張ると、ステージに導いた。


 ヒロシに指導されながら、由紀恵は誰も踊っていないステージで恥ずかしそうにステップを真似た。


 和弥は、金蔓かねづるになりそうなステージの由紀恵を虎の目で狙っていた。


 ヒロシに連れられてステージから戻った由紀恵を、今度は和弥がチークダンスに誘った。躊躇ちゅうちょする由紀恵の手を引くと、ステージのど真ん中に連れていった。


 由紀恵は初めてのチークダンスに、和弥の足を踏んでしまった。


「あっ、かにな」


「気にしなくていいよ。それより、今度は一人でおいで。安くしてあげるから」


 癖毛の由紀恵の髪に触れると、耳元に囁いた。


「……ええ」


 由紀恵は恥じらうように言葉を漏らした。


 相手にされない佐代子は、悔しそうな顔で二人を睨み付けていた。


 ……なんのために由紀恵を連れてきたのよ。私の美を引き立たせるためでしょ。これじゃ、逆じゃない。なんであんなブスがちやほやされるのよ!


 佐代子の顔はまるで、そんな不平を言っているかのようだった。


 満席になった頃、ほったらかしにされた佐代子は酒を浴び、かなり酔っていた。やがて、気が大きくなった佐代子は和弥を呼びつけた。


「何よ、開店から居るのに座ったのはちょっとじゃない。それに、あんなブスと踊って!」


「いい加減にしろよ。客はあんただけじゃないんだ!」


 和弥が眉間に皺を寄せて怒鳴った。


「……ワァーッ」


 佐代子は突然泣き出すと、逃げるように店を出ていった。慌てて、孝子と美那が後を追った。


 由紀恵もショルダーバッグを手にすると、席を立った。


「ほっときな。呑むといつもああなんだから」


 横に座った和弥が引き止めた。


「……すたばって、割り勘だど思って、あんまりじぇんこねはんで」


 四人分の飲み代を払わされるのかと思った由紀恵が勘定を気にした。


 ……こういう、金に細かい女ほど金を貯めてるもんだ。


 それは、和弥の経験上の統計だった。


「大丈夫だよ、いつも“ツケ”だから。佐代子には自分が呑んだ分だけ払えば」


 安心したのか、由紀恵が笑顔を見せた。


「初めて来て、どうだった?」


 由紀恵の肩にそっと手を置いた。


「……楽すかった」


「これからもっと楽しいことを教えてあげるから」


 意味深な言葉を由紀恵の耳元に囁いた。


「……」


 由紀恵は頬を紅潮させると俯いた。




 帰途、遅くまでやっているスーパーに寄った。


 ……今日は酔ってるから風呂は明日にしよう。


 由紀恵は高校を卒業すると、得意だった珠算と簿記の資格を取得して上京した。求人があった西新宿の設備会社に就職すると、珠算と簿記の資格を買われて経理を任された。容貌や標準語が求められる受付や電話応対と違って、経理は計算間違いをしないようにひたすら算盤を弾いていればいい。顔と訛りにコンプレックスがあった由紀恵にはぴったりの仕事だった。


 上京してから、この風呂なしのアパートで三度の更新をした。由紀恵の趣味は貯金。お洒落もせず、映画も観ず、休日はもっぱら掃除と洗濯。唯一の楽しみはテレビを観ることぐらいという、実に絵に描いたような地味の典型だった。


 いつものように家計簿に収支を記載する。


「……タクスー代勿体ながったな 」


 と、独り言を呟いた。


 …… 後は飲み代幾らになるがだ。……ばって、和弥さ会えだはんで、少すぐらい高ぐでもいや 。


 由紀恵は使い古したバッグから和弥に貰った名刺を取り出すと、〈一条和弥〉の活字をつくづくと眺めた。


 ……上京すて六年。今日みでぐ楽すかったごどは一度どすてながった。いや、生まぃでこの方初めでの体験だ。


 と、由紀恵はしみじみと思った。


 何年経っても訛りの抜けない由紀恵は、嘲笑の対象にされるだけで、友達もできず、いつも一人ぼっちだった。そんな時、和弥に出会った。由紀恵にとってそれは、生まれて初めての“ビッグイベント”だった。

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