団地物語
白浜 台与
第1話 手記・如月
一筆啓上申し上げます。
私の名は
老人になると福祉の恩恵を受けるのは色々有難いのですが、手続きにいちいち区役所に行くのが難儀だ、と正直思います。
あれは平成から令和に移りゆこうとする春の初めでした。
偶然、区役所の受付のところに
団地入居者募集。
の冊子があったので私は鞄の中にそれをねじ込み、自宅アパートに帰ってから応募資格の項を読み込むと、
60才以上、年金生活者。
と色々当てはまる所がありましたので付属の書類に記入して応募した1ヶ月後に─
私の番号が区役所の掲示板に出ていたのです。
「なあ、昭二ちゃん」
そう言って団地に10年住む三件隣の住人の康夫くんは将棋盤の上に駒を置くと三手先で私に香車を取られる。いつものパターンです。
「なんですか康夫さん」
相変わらずあなたは私の戦法を学習しないんだよなあ。
と口に出すと喧嘩になるのでここはとりあえず黙っておきます。
季節は春、桜の散る季節。将棋盤の横には団地に住むご近所のタエさんから頂いた筍ご飯と、近所のスーパーで買った刺身と熱燗。
年金生活者ならではのささやかな贅沢です。
「あんたがこの団地に来て一年になるけどここの暮らしはどうだい?」
康夫くんはリウマチでこわばった指先を床の上に差して尋ねてきたので、
「予想以上に快適です」
とフローリング6畳3間でひとりで都心アパートの最低価格より安い家賃で過ごしている…
人生で一番気楽だ、と康夫くんに伝えるとそうかい、と彼はスプーンで筍ご飯を口に放り込んで咀嚼し、
「うめえなあ…やっぱりタエさんの手料理は最高だよ」と団地の3階から見える葉桜を眺めてしばし黙り込みました。
令和二年春、節分の前後から発生した。と云われていたコロナウイルスの国内発生、戦後初の緊急事態宣言で…
窓の外を見ても人が居ないのです。
自然豊かな上にスーパーやコンビニが近くにあり、交通圏内に病院や役所まである、
都内で一番快適な団地。
といわれる武蔵野の団地も、疫病がもたらす社会の異常さのただ中にあったのです。
「静かだけれど、静かすぎる。俺ぁ73才で人生腹一杯、ってくらい生きてきたつもりだけど…今の世の中はなんか異常だ。そう思わねえかい?」
私の方が二つ年上なんですがね、と思いながら眼鏡をずり上げ、
「心が乱れるから普段そう思わないようにしてたんですけどね、
でも脳のどこかで何かが異常だ。と思わずにはいられないのです」
と正直思っている気持ちを打ち明けました。
「あんたはあの竜王のごとく電算機みたいな将棋をする杓子定規の元サラリーマンで、人間味のない奴だ。と最初は思っていたが」
と康夫くんは右手で徳利をつまみ上げ、直に口をつけてごくり、と酒を飲んでから、
「将棋に負けると怒って理屈こねるわ、俺が予想外の手を打つと『なんでそこなんだ!?』と慌てるわ意外と子供っぽい所あるんだよなあ」
とけけっ、と笑って見せました。
本当のことを言われたので私は顔を赤くしました。
康夫くんは丸の内の蕎麦屋で四十年間職人として働いていたのですがリウマチが悪化して蕎麦が打てなくなり、奥さんにも先立たれ子供もないのでここに来た。ということです。
酒は良く飲むけど気のいい男です。
「俺あ何十年も昼飯に来るサラリーマン相手にしてきたから解るんだけど、奴らガソリン飲むように蕎麦をすするんだよねえ…すんげえ生気の無い目で」
上客に対して失礼だけどさ、と康夫くんは言い置いてから、
「なんだかサラリーマンって経営者の欲のために働かされてる家畜っていうか人畜みたいだ。と思っていたものさあ」
その通りだ、と私は思いました。
私は電算機といえはあの会社。
で有名な某企業で定年まで勤めましたが、「家にいると鬱陶しいの」と妻に本音を言われて公民館の教室しか居場所が無くなり、そこで将棋の腕を磨いてきたようなものです。
その妻も五年前に癌で亡くなり、家に良く来るようになった長男と長女は…はっきり言って私の退職金目当て。
その事を教えてくれたのは長男の子で法学部に通っている孫娘の
「そりゃおじいちゃん達世代は頑張って食わせてきたのは誰のお陰だ?って不満もあるだろうけど、
『たまに家に泊まりに来て叱るだけの人としか思えなかったし、今の駄目な時代を作った老人の一員じゃないか。遺産と思えば腹も立たない』って酔った父さんの本音聞いちゃってさ…ゾッとしちゃった。所詮はカネか、って。
いい?ジリ貧になった次世代なんて助けなくていいから。おじいちゃんは好きに生きて」
この結子とだけLINEで家族らしい会話が出来ていることだけが幸いです。
会社にも家族にも見捨てられた…
と金にもならない
それが、社会の捨て駒にされた私たち世代なのです。
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