2.Introduction

 私はパリにいた。

 その理由が旅行なのか仕事なのか学校なのか、はたまた療養なのか何なのかは意識の上になかったため知る由もないが、そんなことは些末な問題であろう。ともかく私はパリに居住してはいなかったが、長期的に滞在していたのである。

 そこで私はニベルコル・ムッシュという男に出会った。彼はとてもおかしな人物で、付近でもそこそこ名の知れた変わり者であった。まず見た目からしておかしい。身長は五フィートと六フィートの中間くらいで――夢の中の私はフィートに慣れ親しんでいたのでそれで示したが、今の私としてはおよそ一五二センチから一八二センチの中間くらいと言った方がわかりやすい――体は細く、いつでも医者のように白衣を身に纏っているのだがそれが非常にみすぼらしい。その上、男だと言うのに腰まである長い髪を生えるままに流しているので、後ろ姿はまるで女性のようにも見える。

 しかし不思議な魅力があり、私もそうであるが多くの者が彼に惹きつけられていた。その所為か、ほとんど仕事らしい仕事もしていないというのに日々の生活に困窮している様子はなかった。とは言え、いつもボロボロの白衣を身に着けているような男だ。実際のところどうだったのかはわからない。

 年齢は二十から四十くらいだろうが、見た目からははっきりとわからず、聞いてもはぐらかされてしまう。

 そう言えば一度、昔は何をしていたのかと聞いたことがあるが、その時は少年少女専門の占い師をやろうとしていたのだがどうにも上手くいかなかったと言っていた。曰く仕事として少女と話ができ、暇な時は散歩がてら少女を眺めて時間を潰すことのできる最高の仕事だそうだが、あきれた私がそんな職業は聞いたことがないし当然だろうと一蹴してやったために、話はそれっきりで終わってしまった。本当か嘘かはわからないが、ムッシュならば本気で目指していたとしても不思議ではないという気にさせられてしまう。

 ムッシュは若い少女が非常に好きであった。美しい婦人などには目もくれず、まだ未成熟の少女にばかり興味を持ち、生活圏内に住む少女の容姿と名前はもちろん性格や嗜好まで全て記憶していた。なんとも恐ろしい男である。

 ここまでの話を聞くと、いったい彼にどんな魅力があるというのだと思うだろう。私も同意見だ。ただのおかしな男ではないかと言われても仕方がないだろう。実を言うと私にもよくわからないのだ。よくはわからないのであるが、なぜだかムッシュには人を惹きつける不思議な魅力があった。

 とは言え、ムッシュにも人より優れた点がないでもなかった。例えばムッシュは、先ほどの少女の話にしてもそうであるが、普通人が知らないようなことにやけに詳しいと言う一面があった。

 あれはまだムッシュと出会ってそう経っていない頃の話だっただろうか。

 私はムッシュと二人で町の酒場に訪れていた。彼は酒を飲まないという珍しいタチで、私がブランデーを楽しむかたわら甘味に夢中になっていた。それはムッシュのためだけに店主が時々用意するパルフェで、口どけの良いソフトクリームにこれでもかといわんばかりにイチゴが埋め込まれ、さらに真っ赤なベリーソースがかかっている。全体的に粗雑な見た目だが非常にボリュームがあり、これを出されるとムッシュは顔を埋めるようにしてパルフェに食らいついた。一応スプーンを使いはしているものの、その様はまるでイヌか何かのようである。

 こうなるとムッシュは会話の相手にならないので、私は仕方なく獣同然のムッシュを眺めながら酒を飲んでいた。すると他の客たちの話し声が自然と耳に入ってくる。

「なんでもオオカミに食われちまったらしい」

「散々ウシを殺された挙句、自分まで食われちまうたぁな。酷い話だ……」

 こんな酒場でまさか人が食い殺された話を聞くことになるとは思っていなかった私は、その会話に自然と意識を引っ張られた。

「そういやウィリアムのヤツはどうした」

「アイツは今頃、ボルティモアだろうよ」

「それは残念だ。アイツとも一杯ひっかけたかったんだがね」

 話題はすぐにありきたりのものに変わってしまい、私はやり場のない意識を雑音に散らした。

「君はこの世で最も人間を殺している動物は何だと思うね」

 急にそう問われ私が顔を上げると、ムッシュが顔のいたるところをソースで汚してこちらを見ていた。パルフェはもう半分も残っていない。

「うーん……。それは、なんだろうな? オオカミとか?」

 唐突に問われて私はこれといった回答が思いつかず、たった今聞いた会話の内容に乗っかった。

「そうだね。オオカミの被害は甚大だ。ジェヴォーダンの獣というやつをご存知かな?」

「いいや。なんだねそれは」

 ムッシュは得意そうに微笑むが、顔のソースが邪魔をしてなんとも締まりがない。

「あれは今から八十年くらい前だったかな。ジェヴォーダンに現れたオオカミのような獣だそうだ。コイツは放牧されているウシたちには目もくれず、人間ばかりを襲ったそうだよ。その被害は一〇〇とも一五〇とも言われている」

「へぇ、そらあ恐ろしいね。じゃあやっぱりオオカミが一番危険な動物なのかい?」

「いいや、違うだろうね。オオカミは確かに恐ろしいが、とても利口だ。人間は武器を持っていると知っているからね。普通は家畜しか狙わないのさ。そらあ時には人だって襲うだろうが、好き好んで襲いやしないよ。人間なんか美味しくないのだろう。そう言う点じゃあカバの方が恐ろしいかもね」

「それじゃあカバが一番なのかい?」

「馬鹿を言っちゃいけないよ。カバなんてそういるものじゃないさ。カバはボーっとした見た目とは裏腹に縄張り意識が強いからね。武器を持った人間だろうが縄張りに入ればお構いなしに突進してくる。そう言う点が恐ろしいと言っただけさ。同じ川で暮らすワニならいざ知らず、こうして町で暮らす人間がカバに食われることなんてまずないだろうよ。食われたら最後、あの巨大な口でバラバラだろうがね」

「じゃあ、何が一番人を食うんだよ。まさか人間に身近なイヌやウシだとでも言いはしないだろうね?」

「もちろんだとも。身近さで言えばヘビかな。アレは人を食いこそしないが、毒が厄介だ。あの細い体でしゅるしゅるとどこにでも入りこめるし、音も立てずに忍びよる。まるで暗殺者のようだね。だが以外にも毒を持っているヘビは全体の三〇パーセントくらいしかいなんだ。だからこれも違うね」

「じゃあいったいなんなんだい? そうもったいぶらずに、そろそろ答えを教えてくれてもいいじゃないか」

「どうしたものか……。僕は今とてもケーキが食べたいんだ。それも上等なチョコレートを練り込んで、上にも刻んだチョコレートが生地を隠すくらい振りかけられた贅沢なヤツがね」

 ムッシュがキラキラと目を輝かせて私を見ている。私は一つ溜め息をつくと店内を見回した。これがムッシュの常とう手段なのだ。別に話の結論にはさほど興味がなかったが、ああも目を輝かせて迫られると無下には出来ないのが人情と言うものではないだろうか。

「まったく君というヤツは。自分から話を振っておいて、どうしようもない男だな……。――きみ! マカロンを適当に三人分ほど持ってきてくれ!」

「僕が食べたいのはチョコレート」

「そんなものこの店にないだろう。いつものマカロンで我慢してくれ。それで、答えは何なんだい?」

 ムッシュの言葉を遮って訊き返すと、相変わらずソースで汚れた顔のまま彼は偉そうに微笑んだ。

「まったく、少しは自分で考えてみたらどうだい。そうだな、ヒントをあげようか。数年前にフィラデルフィアで展示されて話題になったオランウータンをご存知かな?」

「ああ。地名までは定かじゃないが、オランウータンは知っているとも。体つきは人間そっくりなのに、獣のように毛むくじゃらで、まるで人間を動物にしたかのような不思議な生き物だったね」

「フフフ、人間を動物にしたかのよう、ね。そうだね、いい表現だ。チンパンジーという名前も、マレー語で森の人という意味だそうだ。まるで人間みたいな見た目でありながら、彼らは我々には真似できないほど身軽に木に登り、怪力の持ち主で僕らの一〇倍ぐらいの握力があり、人にも届きそうなほどとても利口な頭脳を持つんだそうだ」

「やけに詳しいな。実は君、動物学者だったりするのかい?」

「いいや。前にも言っただろう? 僕はただの占い師だよ。それも少年少女」

 見直した矢先に話があらぬ方向へ逸れてしまいそうになったので、私は残念な気持ちになりつつ話を遮り本題を進めてくれと言った。

「ふむ……。それでだね、チンパンジーに道具を与えて使い方を見せてやると、大抵のことは真似できるんだそうだ。鍵を使ってドアを開けたり、洋服を着たり、植物に水をやったり、グラスでドリンクをたしなんだりもできるらしいよ」

「本当かい? それはもう人間みたいじゃないか」

「ああ。人間と大差ないよ。だが、彼らは元来とても攻撃的な性格らしくてね。大きな声で叫んで威嚇するのはもちろん、時には同族さえも殴り殺して、顔面を食い荒らすことさえもあるんだそうだよ」

 ムッシュはそう言いながら、運ばれてきたマカロン――ここでのマカロンはクッキーに近い――を一つ手に取ると、ほどよく溶けたアイスクリームに浸して美味しそうに頬張った。その迷いのない動作を見るに、最初からこれが狙いだったようにも思える。思えば最初からマカロンが食べたいと言われていれば私も渋った気がするが、贅沢なチョコレートケーキをねだりながら目を輝かせるものだからつい、マカロンぐらいならいいだろうと思ってしまったのだ。嬉しそうなムッシュをしばらく眺めていた私は、動物のようにパルフェをむさぼる割に利口な彼を、まるでオランウータンのようだと思った。

「……とても恐ろしいね。オランウータンというヤツは」

「うん、そうかもね。さてこれで、答えはわかったかい?」

 私の言葉に含まれた意味には気づかなかったようで、ムッシュはすでに乾き始めたソースまみれの顔でイタズラっぽく微笑みそう言った。彼の言葉で、私はそういえばヒントを貰っていたのだと思い出す。

「今の話がヒントだったのかい?」

「ああ、そうだとも」

 しばし考えた後で、まさかオランウータンだなどというわけじゃないんだろうと言って根を上げた私に、彼は可笑しそうな顔をしてから言った。

「答えはヒトだよ」

「……ヒト?」

「ああ」

「でも君は、最も人間を殺している動物と言ったじゃないか」

「ああ。人間も動物だろう。君は熱心なクリスチャンじゃないんだ。科学の教養だってそれなりに身に着けている。ならわかるだろう?」

「だが、しかし……」

「ヒトは今もどこかで戦争をしているだろう? 戦争では何人もの人間が殺される、人によってね。それに、人が人を殺すのは戦争だけじゃないさ。ともかくだ。人間を最も多く殺している動物。それは」

 ――人間だ――。

 ムッシュの悪魔のような笑みと顔中にこびりついた赤く鮮やかなソースがとても印象的だった。

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