風花
麻生慈温
風花
落ち葉の数が急に増えた。ゆうべから冷え込みが厳しくなり、風も強かったせいだろう。カシミアのマフラーを巻き直し、ダウンコートのポケットに手を突っ込んで歩く僕の顔に北風が吹きつける。
西新宿の副都心にある勤め先のオフィスから、自宅までの距離はだいたい七㎞、歩くと一時間半ほどかかる。僕は新宿から私鉄に乗って十五分の駅の近くでアパートを借りて暮らしている。この道のりを、僕は恋人を亡くしてから徒歩で通勤するようになった。
六月に彼女が死んで、雨の少ない梅雨だと思っていたら七月に入ってから雨の日が多くなり、僕は上司や同僚達から奇異な目で見られるほどびしょ濡れになって出勤した。好奇心の視線ばかり集めたが、中には本当に心配してくれる人もいたので、僕は周囲に心配をかけまいと、素材のしっかりしたレインコートと雨靴を買い、さらに登山用のバックパックも買って、雨の日は着替えや革靴を詰め込み、レインコートで全身を覆って早めに出社し、会社のトイレで着替えるようにした。冬には社員がコートをかけるためのスペースにずぶ濡れのレインコートを吊して雨靴を置き、バックパックは自分のデスクの足下に置いた。デスクの下は、他にも不要になった資料やら避難訓練用のヘルメットやらが置いてあるので、さらに狭くなるのだが、そこに通勤時の相棒とも言うべきバックパックを置いておくと、忠実な番犬がいてくれるようで僕は安心できた。
本格的に夏が始まると、そのバックパックは着替えやタオルや水分補給のための水筒を持ち運ぶのに重宝した。真夏になると、もう早朝から気温も高く陽射しも強いが、陽が昇る前ならまだましだった。僕はちびちびと水分を摂りつつ、なるべく日陰を歩いて出勤した。
そうして熱中症にもならず、台風も一、二度やり過ごして、やっと歩きやすい涼しい季節がやって来た。快適な季節ほどあっという間に過ぎてしまう。これからは防寒対策をしなければならない。歩いていれば体は暖まるからそう難しくはないだろう。雪が降った時の対策を考えなければ。そこまで考えて、僕はいつまで歩き続けるつもりなのか、自分に少し呆れて嘲笑ったのだった。自分を嘲ることで、少しだけ呼吸が楽になれる気がした。
今年、最後の月に入って事務所内も慌ただしい空気が漂っている。僕は営業ではないので、まだ気楽な身分だが、周囲がざわついている中、ひとりぽつんとデスクにいると、係長やら先輩やらが目ざとく見とがめて何やかんやと雑用を押しつけていった。顧客宛の年賀状を大量に作り、複合機プリンターでせっせとプリントアウトしていると、先輩の女性が通りがかりに声をかけてくれた。会議で使ったらしいプロジェクターを抱えている。僕の手元を覗いて、ハネくんが作ったの、これ? 上手ね、と言ってくれた。
誉められたのにどきりとするのは、社内でこの人だけが僕をハネくんと呼ぶからだ。僕の苗字が「羽根田」なので、上司や先輩達は僕のことをハネとかハネダとか呼び捨てにするし、女性社員はハネダくんとかハネちゃんとか呼ぶ。同期の連中も然りなのだが、僕より三歳年上だが短大卒なので五年先輩のこの坂本さんという女性社員は、気さくではあるが用心深い人で、とは言え入社したばかりの僕にゼロから仕事を教えてくれた間柄なので、ハネダくんでは堅苦しく、ハネちゃんでは軽薄とでも思っているのか間をとってハネくんと呼びかけるのだ。
僕や、僕の同期より年上で社会人経験も長いのに坂本さんは未だにつやのあるショートカットで顔は化粧っ気はないのに透明感がある、平凡で地味な佇まいの人だ。でも優しくて頭がよくて仕事のできる人なので、周囲から頼りにされている。この人からハネくんと呼ばれると、以前は嬉しかったのに、今は心臓がぴくりと反応して息苦しくなる。僕をそう呼ぶのは、坂本さんと死んだ恋人のふたりしかいないからだ。
僕はことさら得意げに、吐き出された年賀状を一枚取り上げて、坂本さんこれ僕がデザインしたんですと言った。実際、よく考えて真面目に作り上げたものだ。来年の西暦と干支がうまく交差するようなレタリングにも凝った。顧客宛だからあまり遊べないが、あまり堅苦しくならないよう工夫したのだ。坂本さんは僕の力作を見てくすくす笑った。僕がびしょ濡れで出社した日、心配してどこからかタオルを持ってきて手渡してくれた人だった。
僕が自宅から会社までの道のりをなぜ徒歩で通勤するようになったのか、その理由は誰にも言っていない。社内の人は僕に恋人がいたことすら知らないだろう。でも坂本さんにはうっかり本当のことを打ち明けてしまいそうな気がする。坂本さんは優しい人だが、他人のプライバシーまで踏み込んだりしない。だからなぜ僕が歩いているのかと訊いたりはしないのだ。おそらく、他の先輩から訊かれた時、適当に体力作りですと答えているのを鵜呑みにしているだろう。でも坂本さんは、本当の理由は別のところにあると気がついてくれている気がする。そんな気がするというより、気がついてほしいと僕が願っているのだ。
だから時折、僕は坂本さんから問いかけられた場面を想像してしまう。何と答えようかと言葉を探してしまうのだ。多くの言葉などいらないだろう。答えは決まっているのだから。事実をそのまま話せばいいのだ。
坂本さんは何も知らないまま、年賀状を一枚手に取り、ハネくんて美術部だったの?と訊いてくる。僕は笑って、全然違いますよ、と答える。
違いますよ。でもイラスト描いたりするの好きなんです、坂本さんの住所教えてくれたら一枚送りますよ。
坂本さんは笑って年賀状を元の位置に戻すと、そのまま行ってしまった。紺の事務服を着た細い背中を見送る。今日も聞いてもらえなかったなと思う自分が情けなかった。
この日は一時間だけ残業して会社を出た。デスクの足下に仕事用の革靴を脱いでおき、ウォーキング用のシューズに履き替える。トレッキングが趣味だという、隣の部署の部長から、登山用ではさすがに大げさだろうと、無難なウォーキングとかランニング用のシューズを教えてもらったのだ。また自宅まで七㎞のウォーキングを始める。
いつものビジネス街を歩きながら、僕は別に目立ちたくて、誰かの注意を引きたくて、雨の中びしょ濡れになってまで歩いているわけじゃない、と考える。坂本さんは僕にタオルを手渡してくれながら、「大丈夫?」と気遣わしげに言ってくれたが、それは単に雨に濡れたことに対しての「大丈夫?」であって、僕自身に何かあったのかと訊いてくれたわけではなかった。
うつむいて、銀杏の落葉を踏みしめながらゆっくり歩いて行くと、頭に何かがひらりと当たった。びっくりして立ち止まると、上から銀杏の葉が落ちてきた。銀杏の木を見上げた時、夜空に星がふたつ、あるかなきかほど、かすかに瞬いているのを見つけた。
坂本さんではなく、僕をハネくんと呼んだ人は、あの星のどれかではない。人が亡くなった時にその人はお星様になったんだと言う人がいるけれど、僕は信じない。彼女の肉体が破壊され、焼かれて白い骨になるまで見届けたのだ。骨を彼女の両親と一緒に、ひとつずつ拾った。あの頼りない軽さは手が覚えている。彼女の肉体は死んだのだ。魂がどうなったなんて知りたくない。
ビジネス街を抜けると大きな公園に出る。国道沿いに細長い公園が伸びていて、緑道があって何かの木が植えられていたりちょっとした広場には花壇があったりブランコや鉄棒など遊具が置いてある。その公園を横切って僕は住宅地へ入り込む。似たような家並みでも季節ごとに違う顔を見せてくれるので歩いていて飽きることがない。そこで繰り広げられている人間の営みは、ありふれて退屈でありながら、どこか不安定なものだ。そして僕にとって身近でありながら川の向こうに広がる景色を見ているような、非現実的な何かだった。それを見たくて、脇道からさらに奥の路地へ踏み込むこともあった。
狭い庭先で、あるいは室内で犬を飼っている家庭が意外と多く、僕が通りがかると必ず吠えられた。犬を散歩させている老若男女さまざまな人ともすれ違ったが、飼い主に連れられている犬は攻撃的ではなく人なつこい。つまり僕に吠え立てる犬は外に出たいのだろうと思った。
夏の間は窓を開けている家も多く、中の会話もよく聞こえてきた。子供の泣き声が聞こえてきて、ぎょっとしたことがあった。よくよく聞いてみると、宿題が終わっていないから学校へ行きたくないと駄々をこねているだけだった。別の家からは、お気に入りの靴下が見つからないと母親に訴えている子供の声が聞こえたりする。ここは平和だと教えてくれる。
大人に何かを訴える子供の声が聞こえない時は、夕食だろう料理の匂いがこぼれてくる。カレーとか焼き魚といったわかりやすい匂いが多いが、時折、献立の分からない匂いを嗅ぐこともある。一体、何の匂いだろうと立ち止まってしまう。また時間がもう少し夜遅いと、温かい湯気と、入浴剤の匂いがする。入浴剤なのだろうが、湯気にもそれぞれ違う匂いがあるのだと知って、僕はかなり驚いたものだった。
しかし季節が移り、冬となった今、どの家の窓も固く閉じられ、何の会話も物音も聞こえてこない。僕はいい加減、歩き疲れて住宅地の真ん中にぽつんと佇むカフェに向かった。海外からの観光客向けの安ホテルに併設されているカフェなので、外国人が多く集まってくる店だ。凝った造りではないが、歩き疲れてひと休みするのにちょうどよい場所だったので、試しに入ってみたら割と居心地のよい店だったので、たまに立ち寄るようになった。
カウンターでまず注文して料金を払う仕組みなのだが、初めて入った時、無難にコーヒーを頼んだら、ブレンドだけで十数種類もあり、違いがまるで分からず戸惑ったものだ。コーヒーと紅茶だけでも各国さまざまな種類のものが揃っていて、宿泊客のために提供されていた。アルコールや料理も、聞いたこともない国のものがあった。僕は感心しつつも面倒臭くなってきてアメリカンにしたのだった。
注文をして適当に空いている席についてみると、隣のテーブルにはタイ人らしい三人組が、さらにその奥のテーブルにはドイツ人らしい四人組がいて、それぞれの母国語で話しをしていた。僕はタイ語もドイツ語もまるで分からないが、席についたちょうどその時、カフェの店員と隣の三人組が英語で会話をしていて、タイランドという単語だけ聞き取れたのだ。もしかしたらタイではない別のアジア圏の人で、これからタイへ行こうという計画を立てていただけかもしれない。奥のテーブルについては、当てずっぽでドイツと思っただけで何の根拠もない。しかし大した違いではないだろう。大切なのは、日本にいながら日本ではない場所に紛れ込んだような気持ちにさせてくれることだ。周囲を言葉の通じない人達に囲まれているのは孤独なことだ。その孤独が、今の僕には心地よかった。
カフェを出て、また住宅地を歩き出すと、児童公園に寄った。敷地は狭いが、滑り台や鉄棒、ブランコとひと通りの遊具が揃っている。ひと休みしたばかりなのに、僕は公園の奥にあるベンチに座った。入り口の植込みに段ボールが積んであるのに気がついた。どうやら中で人が寝ているようだ。都心から遠くないとはいえ、こんな普通の住宅街にもホームレスがいるのかと少し驚いた。
人通りもなくなった住宅街の真ん中にある、ありふれた児童公園はしんと静かだった。遊具はみんな一日の勤めを終えて眠っているようだった。僕とこのホームレスしか息をする者がいない。それなのに彼はぴくりともせず段ボールの中にうずくまり、僕のことを拒絶しているようだった。彼の頑ななまでの孤独は僕にも分かった。この地球上で、僕とホームレスにしか分かち合えない孤独だった。
彼女の葬儀は、地元で、彼女の父親を喪主にして行われた。千葉県の山のほうで育ったという彼女の故郷は、まだ切り拓かれていない山や小川が残っていた。祖父の代から住んでいるという古い大きな家は、葬儀に参列した人でごった返していた。改めて、彼女が誰からも愛されている人なのだと実感した。しかし彼女自身は、その愛情が窮屈だとこぼしたことがあった。
僕と彼女は大学で知り合ったので、彼女の実家に行ったことはなかったし、とうとう両親にも紹介してもらえなかったので、僕はただの同級生として参列し、同級生を代表して、彼女の両親と一緒にお骨を拾った。焼香客の、特に女のほとんどが泣いていた。僕はわずかな男子の間に紛れ、ぼんやりと焼香して、ふと遺影を見上げ、ずしんと胸を圧し潰されたようになった。その写真が、昔ふたりで山中湖へ行った時に僕が撮ったものだったからだ。まだ学生で、あのとき、湖のほとりで恥ずかしそうに笑っていたこの人は、自動車事故で体の半分と顔面をぐしゃぐしゃに潰され、棺の中で原型をとどめず冷たくなっているのだ。どうしてこんなことが現実に起こるのだろう。今、何が起きて僕はここにいるのだろう。理解できなかった。
葬儀が終わり、遺体が焼き場へ運ばれていくと、家族と親族も移動した。友人も数人が同行市、その中に僕もいた。本当は行きたくなかったのに、何かに流されるように僕は彼女が焼かれる場所へ向かった。何の意思もなかった。
すべてを終えると、僕は逃げるように焼き場から出た。駅までタクシーを拾おうと車道まで行き、空車のタクシーを待つ間、ふと空を見ると、初夏の青空にひと筋の雲が流れていた。綺麗だなと思った時、なぜかふらふらとその雲の流れる方向へ踏み出したのだった。
車道は住宅地と田んぼの間を隔てるように延びていた。僕は雲の後を追って車道から田んぼに下りて畦道を歩いた。遠くの山並みの緑は目に沁みるほど濃く、そこから吹いてくる風は爽やかだったが天気がよかったのでそのうち背中に汗が滲んできた。僕は喪服の上着を脱いで肩に引っかけて歩いた。
雲はやがて風にあおられ、山のほうへ流れてすっと消えてしまった。でも僕は構わず歩き続けた。都心と違い空気が綺麗なので、歩くことが気持ちよかった。
空をずっと見上げていたので首が痛くなり下を見ると、田んぼの水の中で動くものの気配を感じた。目を凝らして覗き込んで見ると、アメンボだった。子供の頃に見て以来だった。少し楽しくなってしゃがんで手を伸ばしてみた。当然だが逃げられたので、もっと手を伸ばそうとして平衡を失い、あやうく田んぼに落ちそうになった。慌てて上体を戻して、尻餅をついた。アメンボはさっさと姿を消していた。僕はそのまま呆然と、土のひんやりした感触を手のひらで感じていた。
彼女が死んだということが、やっと現実味を帯びて追ってきた。あいつ死んだのか、と胸の内でつぶやいた。
このとき、何となく「歩く」という行為に慰めを感じたのだった。僕は立ち上がって尻についた土を払い、駅までの道を歩き出した。
残業を終えて、そろそろ帰ろうかと伸びをしたところで、後ろから声をかけられた。振り向くと、隣の部署の部長だった。ウォーキングシューズをすすめてくれた、トレッキングが趣味という部長である。ハネ、まだかかるのか、と訊かれ、僕は曖昧にうなずいた。
部長は、どっちなんだまったく、と言いながら背中越しに僕のパソコンのモニターを覗いた。小柄で真ん丸な体型で、陰で「ダルマ」と呼ばれているこの部長は、口調は年寄りくさいが決して煙たい人ではなく、むしろ好感のもてる上司で皆に慕われている。その部長が、もう帰るなら軽くめしでも食って行かないか? 坂本さんも誘ったんだよ、と言った。
どきりとした。部長がいなくて坂本さんとふたりなら行きたいと思った。いや、坂本さんとふたりきりになったら何を話したらいいのか分からない。いや、いや、ダルマ部長も交えて三人で酒なんて飲んだら、何を口走るか分からない。
何と答えようかと言葉に詰まっていると、ダルマ部長の後ろから坂本さんがひょっこりと顔を出した。すでに私服に着替えてコートを羽織り、お待たせしました、とにこにこしている。その笑顔につられてしまった。
部長が連れて行ってくれたのは、会社近くの居酒屋で、やはり部署の飲み会で行ったことのある店だった。部長は、坂本さんとめし食うの久しぶりだよな? とどこか嬉しそうに言った。ダルマも坂本さんのことをお気に入りのようである。誰でもきっとそうなるのだろう。
四人がけのテーブル席に案内され、坂本さんは自然に部長を奥の席に座るよう促し、自分はすすめられるまま部長の横に座った。僕はその向かいに座ることになる。まるでこのふたりに面接されるようだ。余計なことを口にしてしまいそうで、ますます緊張した。このふたりは、付き合っている女の子はいるのかなんて下世話な話はしないだろうし、問い詰めるような口調で話したりもしない。それだけに、穏やかな空気につい安心してしまいそうで恐かった。
おしぼりとお通しを運んできた店員に、ダルマ部長はウーロン茶を注文した。ちょっと驚いた。当然、酒を頼むものと思っていたからだ。部長は恥ずかしそうに、俺、だめなんだよと言った。坂本さんがくすくす笑って、部長はね、お酒飲めないの、全然、と言った。
え、全然ですか、と言うと、繰り返すなと部長に叱られた。坂本さんはグラスビール、僕はレモンサワーにして、つまみは適当に注文する。それぞれ飲み物が運ばれてきたところで、お疲れ様でしたと乾杯した。
本当の意味で緊張を強いられない組み合わせで、僕は久しぶりにくつろいで食事ができた。ダルマ部長は会社の噂話や仕事の話はあまりしない人で、休日に家族で出かけた場所や趣味のトレッキング、学生時代の話をして、坂本さんと僕を笑わせてくれた。
料理を食べ終えて、坂本さんはすすめられるままデザートにアイスクリーム三種盛り合わせを頼み、おいしそうに食べていた。僕にもストロベリーのアイスを分けてくれて、あまり甘いものは好きではないのだが、坂本さんからもらったアイスクリームなので食べた。
坂本さんは、相変わらず自分からはあまり話さず、部長の話に笑ったり相槌を打ったり、時折、絶妙な突っ込みを入れたりして、優秀なキャッチャーだった。ダルマ部長も満足そうに笑い、唐突に、元気そうだね、よかったと言った。一瞬僕に言われているのかと思い驚いたが、部長はまっすぐ坂本さんに向けて言っている。坂本さんは少し恥ずかしそうにうつむいて、元気ですよいつも、と言い返した。
ふたりが何の話をしているのか分からなくて混乱した。
坂本さんがトイレに立った際に、部長は店員を呼んで会計してくれるよう頼んでから、僕に向かって、急に誘って悪かったなと言った。坂本さん、最近大変だったんだよ。何か痩せたみたいだし。今日お前が残ってたからちょうどよかったと思って。坂本さんはお前にはよく話しかけるからさ、リラックスしてたみたいだったな。
ダルマはひとりで満足してうなずいていたが、僕はあとのほうはほとんど聞いていなかった。坂本さん大変だったんだよ。僕の頭の中はその言葉がぐるぐる回っていた。
それがいったい何の話なのか聞こうとした時、坂本さんが戻ってきてしまい、僕は口をつぐんだ。会計をすませていることを知って、坂本さんは自分の分は払うと言い張ったが、部長は聞き入れなかった。
店を出ると、部長は僕に、坂本さんを頼むぞ、と肩を叩いて、雑踏のほうへさっさと消えていった。取り残されて僕と坂本さんは顔を見合わせた。坂本さんはふと真顔になり、ハネくん今日も歩いて帰るの? と訊いた。もう寒いし、電車にしたら?
僕が返事に窮しているのを見て、坂本さんはマフラーを巻きながら、ハネくんちどこだっけ? 甲州街道行くの? と訊いてきた。はあ、と曖昧に言うと、じゃあ途中まで行くよ、と返ってきた。
なぜ急にそんなことを言い出すのだろう。訳が分からず坂本さんの顔を見入ってしまった。本人はいつもと変わらぬ顔でにこにこしている。大変なことが起こって痩せたようには見えなかった。僕は平日はほぼ毎日、会社で坂本さんと逢っている。常にその言動を目の端で追っているつもりだった。恋人を喪ってからは特に。それでも、僕はいったい何を見ていたのだろう。
寒いし早く行こう。坂本さんはそう言ってさっさと歩き出した。僕は慌ててその後を追いかけた。
新宿界隈のネオンを抜けると、人混みが途切れることはないが、ぐっと静かになる。季節柄、忘年会の帰りらしい酔っ払いはいるが、僕の目には何も映らず、喧噪も気にならなくなっていた。坂本さんは何も喋らず、少し距離をあけて隣を歩いている。僕は安らぎを感じる一方、胸の内がざわついて落ち着かない気持ちでいた。坂本さんが隣にいる。そしてダルマ部長の言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。この人に何があったのか、気になって仕方なかった。
今日寒いね、と唐突に坂本さんが口を開いた。確かに、ビル群の隙間を歩いていると、北風が強く吹き付ける瞬間がある。坂本さんは亀の子のようにマフラーに顔をうずめていた。その横顔は、冬の夜の清冽な空気の中で透明さを増していた。僕はよく考えもせず、坂本さんまだ時間ありますか、と口にしていた。ここから少し歩くけど、言いお店があるんです。酒じゃなくても、コーヒーでも飲みませんか、と急いでまくし立てた。自分の気持ちが挫けないように必死だった。
坂本さんは怪訝そうに僕を見た。いろんな軽口を叩いてきたが、食事とかお茶とか、実際に誘ったことはなかったから当然だろう。それもで僕の迫力に気圧されたのか、ちょっとだけなら、と言った。
僕は、あのホテルに併設されているカフェまで坂本さんを案内した。人通りの少ない住宅地を進むにつれ、坂本さんの表情が微妙に曇り、態度も硬くなっているのに気がついた。僕は少しでも安心してもらおうと、馬鹿みたいに明るく振る舞い、世間話をして坂本さんを笑わせようとした。
だからホテルの看板が見えた時はほっとした。ここです、ここが喫茶店になっているんです、と言いながら小走りにカフェの入り口まで来て、様子がおかしいことに気がついた。照明がついておらず、人の気配がまったくない。入り口のガラス扉に貼り紙がしてあった。僕の後ろから坂本さんが貼り紙を覗き、そこに書いてある文字を読み上げた。臨時休業。ホテルは営業中。
坂本さんがいつもの優しい声で、残念だったね、と言った。怒ったり気を悪くした様子はまったくなかったが、僕は恥ずかしくて少しの間振り向けなかった。
歩き疲れたので、僕達は近くの児童公園のベンチに座った。自動販売機を探して温かい缶コーヒーを二本買って坂本さんに渡す。坂本さんはお金を払ってくれようとしたが、僕は聞き入れなかった。申し訳なさでいっぱいだった。
坂本さんは、よほど僕が落ち込んでいるように見えたらしく、缶コーヒーを飲みながら先ほどとは打って変わって饒舌になり、生まれ故郷の話を始めた。坂本さんは秋田県の出身で、冬の厳しい寒さや雪の話をしてくれた。夏休みにおばあちゃんの家へ遊びに行った思い出話も。僕はひと言も聞き漏らすまいと必死で耳を傾け、小学生の坂本さんを想像しようとした。ランドセルを背負った坂本さんの姿や、田んぼの畦道を歩いているさまを脳裏に描こうとした。どんなに頑張っても、目の前に浮かぶ光景は、現在の坂本さんが、あの葬儀の日に僕がさまよった道を歩く姿だった。
一段と強い北風が吹いて、坂本さんがあっと声を上げた。目を上げると真っ暗な空から白いものがふわふわと舞ってきて、僕のダウンを着た肩に落ちた。雪だ、と思わずつぶやくと、坂本さんは笑って、まさか、これは風花だよと言った。僕の肩に手を伸ばし、かすかについた雫を指で拭った。跡形もなく消えていた。指先で消えた雫を確かめるように見ている坂本さんのうつむき加減の横顔を見た時、胸にずしんと重たい石がぶつかったような痛みが走った。坂本さんは立ち上がり、私ここで帰るね、と言った。僕も急いで立ち上がったが、言葉がつかえて出てこない。寒いから気をつけてね。坂本さんはそう言って公園の出入り口から、ホームレスの段ボールをよけて行ってしまった。
追いかけたいと思ったが足が動かず、僕はまたベンチに腰を下ろした。自分の目から涙が溢れ、頬を伝っているのが分かる。北風が吹くたびに、白い雪片のような風花が舞った。このまま死んでしまいたいと思いながら、僕は声もなく泣いた。
翌日、出社してすぐ坂本さんを探した。ゆうべ途中で放り出し、送って行かなかったことを謝りたかったからだ。しかし坂本さんはいなかった。早めの正月休みを取って帰省したと聞かされた。帰省するなんて、ゆうべ何も言ってくれなかったことがショックだったが、同時にほっとしていた。
オフィスはいつもと変わらない空気だったが、坂本さんのいない社内は真ん中に大きな穴があいたようで心もとなかった。誰もが、最初から坂本さんが存在しなかったみたいに普通に仕事をしていることにも強い違和感を覚えた。
ダルマ部長を探してみたが、午前中から外出しているようでいなかった。結局、坂本さんにどんな大変なことが起きたのか誰にも聞けないで、不安だけが残った。このまま坂本さんが二度と出社しないような気がした。
午前中は仕事も手につかず、昼休みが終わって席に戻る時もつい坂本さんの姿を探してしまった。いつもの地味な事務服で、僕のデスクを通りかかると何かしら声をかけてくれる様子を思い描いてしまう。以前、坂本さんは私服より制服のほうがお似合いですねと言って、どういう意味よ、と怒られたことがある。僕は誉め言葉だと必死で説明したのに、うまく伝わらなかった。オフィス街を、最新流行の服や化粧で着飾って歩くOLより、紺の事務服で仕事をする坂本さんのほうがずっと綺麗だと思っていたのだ。死んだ恋人も、華やかな女子大生の格好より、高校時代のジャージを着込んで家で勉強している姿のほうが、ずっと可愛いと思っていた。
ダルマ部長は午後になって戻ってきたが、あとはずっと打ち合わせで会議室に入ってしまった。僕はあきらめて席を立ち、非常口から外階段を昇りバルコニーに立った。煙草を吸う人ための喫煙所なのだが、珍しく人がいなくて僕ひとりだった。どんよりと曇った寒い日で、冬特有の、焚き火のような匂いがした。僕は手すりにもたれて年末の慌ただしいオフィス街を見下ろした。
別に坂本さんは死んだわけじゃない。年が明け、仕事始めの日にまた逢える。新年の挨拶をして、正月はどうしていたか報告し合い、地元で買ったというお土産を配ってくれる。同じ部署の特に仲のいい子には少し多めに分けてくれるのだ。僕も今年の正月明けに、個包装のクッキーをふたつもらった。きっと次もくれるだろう。
僕は自分に言い聞かせながら、分厚い雲に覆われた空を見た。あの青空とひと筋の雲が流れる様を想像しようとしたがうまくいかなかった。
風が吹いて、何か白いものがひらひらと漂っているように見えたので、思わず手を伸ばしたが、隣のビルで誰かが吐き出したらしい煙草の煙のようだった。
風花 麻生慈温 @Jion6776
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