一
身体の違和感で目を覚ました。見慣れない天井に知らないにおい。窓の外には木々が生い茂っている。ここに至った経緯を思い出せずボーッとしていたが、自分の身体をよく観察したところ見慣れた身体ではなく、細く華奢で所々切り傷痕や痣がある。
「あれ、私の名前なんだっけ…」
名前も自分の素性も思い出せない。ただ、日本の東京都新宿区にいたことは覚えているし、花屋でアルバイトしていたことも、その花屋が「
「目が覚めたか。」
状況に混乱していると、いつの間にか戸口に長身の青年が二人立っていた。
「俺はイーサン、こっちは双子の弟ラディだ。」
「…ラディアン。」
彼らの容姿は今まで見てきた男性の中で群を抜いて端麗だった。身長はだいたい175cmくらい、髪は深海のような深い緑色、オッドアイ。イーサンは右目が透明感のある青、左目が琥珀色をしている。ラディアンはイーサンを鏡で反転したような容姿だが、キリッとした雰囲気のイーサンと比べて冷たい雰囲気を漂わせていたがどこか賢そうだ。
「あの、ここは?」
「お前は草むらで倒れてたんだ。あんな所で何してた?」
「…ここは僕たちの家だよ。」
理解が追い付かない。見慣れない場所に自分じゃない体で記憶もまばらにしかない。
「わ、わかりません。私が誰なのかどうしてこんな場所にいるのか…。あっ!助けて頂いてありがとうございます。」
「ふっ、そんな慌てて話すことはない。が、記憶がないのか?」
柔らかく笑うとイーサンは怪訝そうな心配そうな何とも言えない表情をしていた。そんな表情になるのも頷ける。見ず知らずの少女が記憶がないとのたまうのだから。
「そうみたいです。」
それしか言えなかった。すると、ラディアンが口を開いた
「名前、何て呼べばいいの。」
私もイーサンもハッとした。そんな私を見てイーサンとラディアンは顔を見合わせて困ったようにクスッと笑った。そんな空気の中、いつの間にか黒髪のこれまた美しい顔立ちの燕尾服を
「あ、あの…?」
突然音もなく現れた男に戸惑っていると彼は丁寧にお辞儀しながら
「アイザックと申します。このお二人に仕えております。」
彼はずっと表情を崩さず名前を告げた。ただ、その吸い込まれるような黒い瞳の奥は冷たいように感じた。
「お嬢さん、身を清めてはいかがでしょう。着替えも準備しておきます。温かいお食事も。」
「ありがとうございます。そうします。」
案内してもらった先は大きなタイル張りの古風だけどお洒落な浴場だった。温泉施設のような広い湯舟がある。恐る恐る足をお湯に足をつけてみると丁度良く温かい。肩までつかると不思議と疲労や緊張が解けた。
「やっぱり日本人はお風呂ね。」
と呟いたものの肌の色は白く、所々に痣や傷痕。東洋人の肌色ではない。見慣れない自分の身体を眺めていたが、ふと、湯につかりながら自分の名前を思い出そうとしてみた。
「なんだかぼんやり文字のシルエットだけ見えるのよね。」
漢字が思い出したいのに考えてもなんとなく雰囲気しか思い出せないあのもどかしい感覚。脳をフル回転させても思い出せそうにない。
考えている間にずいぶん時間が経っていたようでアイザックが扉越しに声をかけてきた。
「なにか不具合はありませんか?」
と丁寧に尋ねられ少し焦りながら
「え、あッ、もう出ます、大丈夫です!!」
と、とんちんかんな返答をしてしまい一人で恥ずかしくなった。
「ふふ、ごゆっくり。タオルと着替えを置いておきますね。」
扉越しに目を細める姿を想像できるくらいはっきりとアイザックは笑った。そのやさしさに
「ありがとうございます・・・」
と恥ずかしさに語尾をすぼめながら返した。
置いておいてくれたタオルはふかふかで着替えは少し古びたワンピースだ。鏡を見ると胸あたりまでのびた金に近いベージュの髪、くりっとした目は光のない薄茶色の瞳が見つめ返す。十二、三歳だろうか。少しの間だけ身体を貸してねと呟きその場をあとにした。
浴場から出るとアイザックが立っていたので思わず小さく声を上げた。彼は気配なく目の前に現れるので構えてしまう。
「食堂はこちらですよ」
彼は流れるような所作で私を案内した。
浴場から殺風景な廊下を歩いていくと広いリビングに通された。想像よりも温かみがある。
「こういうお屋敷には長いテーブルがあるのかと思っていました。」
と驚いていると
「ふはっ、昔住んでいた家にはあった。いつも食事はその大きなテーブルでラディと二人きりだった。」
寂しそうな笑みを浮かべる兄にラディアンは不服そうな顔で
「ねえ…食べようよ。」
ため息交じりの声に他三人はハッとして
「そうですね、では座っていてください。」
とアイザックが前に出た。
「アイザックさん、お手伝いします。」
と袖を捲った私に。
「お客人なのですから座っていてください。」
と言うアイザックに私は食い気味に
「お世話になってばかりでは悪いですので手伝わせてください。何をしたらいいですか?」
やる気満々の私にアイザックはあきらめた様子で
「それではあちらのスープを見ていてください。焦げ付かないよう時々かき混ぜて。」
「はぁい」
黙ってやり取りを見ていたイーサンがプッと噴き出すので振り返ると
「なんだか母を追いかける娘のようだな。少しばかりアイザックも嬉しそうに見えるが。」
アイザックを見ると確かに初めて顔を合わせた時よりも和んでいるように見えたし、途切れ途切れだが小さく鼻唄も聞こえる。
アイザック越しに明らかに笑いをこらえているラディアンが見える。
「ラディアンさんも笑ってる!」
私が声を上げるとラディアンはいつもの表情に戻ってしまい
「べつに。それよりお腹すいたんだけど。」
と目を伏せる。そりゃそうだ、素性の知れない少女に馴れ馴れしくされても困るだろう。少し凹んだがスープが煮立たないよう火を止め
「そ、そうですよね。スープ盛りましょう、お皿は…」
皿の場所がわからずきょろきょろしていると
「こちらも出来ました。あとはいいですよ、座ってください。」
アイザックが機嫌よさそうにほほ笑む。余計な仕事を増やすかもしれないのでここは従っておいたほうが良さそうだ。
「おねがいします」
テーブルに運ばれてくる料理はどれも美味しそうで「ぐぅ…」とお腹が鳴ってしまった。
「さあさあ、食べましょう。」
アイザックが言うと二人ともよほどお腹がすいていたのか目の前の料理にがっついた。
「私も、いただきます‼」
意気揚々と食べ始めると三人が眉をひそめ不思議そうにこちらを見ていた。
「な、なにか?」
焦って問えば
「いた…?」
「なんだ?」
とラディアンとイーサンが双子らしく声を揃えた。私はしまったと思った。この国を知らないし私は東洋人の姿ではないのだ。なぜだか言葉は通じるが、いただきます。は日本独特の食事のマナーだ。
「えっと、私の母が東の方の島国出身で、そっちの人は食事の前後に挨拶するのがマナーなんだとか…へへ。」
ごまかせたか不安になったが
「へぇ、東洋には独特な文化があるって本で読んだことあるよ。。」
「知らない文化は世界中に沢山ある。お前の母上は伝統を重んじる人なのだな。」
二人とも納得したようだった。するとラディアンは
「あのさ、ずっと名前が分からなくて話しづらい。」
ハッとした。
「ごめんなさい、まだ思い出せなくて」
どうしても出てこないのだ。
「―みんなで新しく名前を考えるのはどうだ?」
「え?」
イーサンの予想外の提案に戸惑う私をよそにアイザックは案外ノリノリで
「んー、お顔が可愛らしいので迷いますね。何か好きなものなどはありますか?覚えていますか?」
「お花が、好きです。」
ぼんやりとした記憶の中で店の花々に毎朝水をやっている手元だけが鮮明に浮かんでいる。
「花か。もっとこう洒落た凝った名前がいいんじゃないか?」
イーサンも身を乗り出して反論するが、
「呼びづらいの嫌だ。普通のエマとかマリアとかじゃダメなの?」
ラディアンは普通派。
「私も派手な名前はちょっと。」
ほら、と言わんばかりの目でラディアンはイーサンを見た。
「では、私、イーサン、ラディアンで一人一つずつ考えましょう。タイムリミットは食事が終わるまでです。」
なんだか複雑な気持ちでスープを飲み干した。
全員食事を終えるとアイザックがいい香りのする紅茶を淹れてくれた。
「さ、お二人とも考えましたか?」
「ああ、もちろん。とびきりのをな。」
イーサンが自信満々で逆にいい予感がしないのはなぜだろう。
「まあね。」
ラディアンは仕方なく考えたようだった。
「では私から。クロエはどうでしょう。咲き誇るという意味の名です。」
「俺が考えたのは、オリヴィア。美しい響きだろ?」
「さっきも言ったけど、呼びやすいを優先してエマ。あと、なんか顔がエマっぽい。」
どれも綺麗な響きで私にはもったいない気がした。エマっぽい顔とはなんだろうか…掘り下げなくていいか。
「オリヴィアは響きが絵本の中のお姫様みたい。」
「おっ、決まりか―」
「でも、なんだかしっくりこない感じがあります。」
「しっくりくるというのは大事ですね。クロエはいかがでしょうか。」
「素敵なのですが、私にはもったいないです。やっぱり呼びやすくて馴染みやすいエマがいいのかなって。」
「ほらね、あんまり凝らないほうがいいんだよ。イーサン。」
ラディアンは勝ち誇ったように双子の兄を鼻で笑って立ち上がった。イーサンは悔しそうではあったがどこか楽しそうだ。
複雑な気持ちでその様子を見ていた私に
「そんなお顔しないでください。人の名前は仮とはいえ大切なものです。そんな大役を私たちに託してくださって嬉しいですし、何よりこんな賑やかなのは久しぶりでした。エマ、私のことはアイザックとお呼びください。」
「そうだな。俺のことは好きなように呼んでくれ。兄さんでもいいぞ。」
イーサンが期待を込めたキラキラした目を向けてくるがそれはさすがに呼びづらい。何よりラディアンにすごく見られている。
「お二人ともありがとう。だけれど兄さんと呼ぶのははやめておくわ。私はエマ。これからよろしく。」
三人で改めて自己紹介をしあっていると食堂を出ていこうとしていたラディアンがぽつりと呟いた。
「…エマ、その、よろしく。」
ラディアンから意外な言葉が出て驚いたが、うれしくなって勢いよく立ち上がった
「こちらこそ! ラディアン。」
「ラディ。ラディでいいよ。」
「ふふ、わかった。」
そんな私たちのやり取りをじっと見ていたイーサンが嬉しそうにほほ笑み、交互に二人を見ながら優しく言った。
「ラディが自分から名前を呼ぶなんて家の人間以外はじめてだな。」
「うるさいよ、イーサン。」
「いつものラディに戻った。」
兄弟らしいテンポの会話が繰り広げられている中、私は睡魔に襲われかけていた。食器を片付け終わったアイザックがそんな私に気づき
「さて、エマさん寝室にご案内しますよ。」
「ありがとうございます。イーサン、ラディおやすみ。」
「ん、おやすみ。ゆっくり休め。」
「おやすみ。」
寝室には一人で寝るには大きいベッドとテーブルと椅子にクローゼット、そして大きな窓があった。
「わあ、前の部屋と違う。」
「あちらの部屋はベッドしかない小さな客間だったのでこちらの身内用の部屋をエマさんの部屋にしました。気に入りましたか?」
「こんな広いお部屋と大きなベッド初めてです。ありがとうございます!」
「ここ数年誰も身内はいらっしゃってないですし、自由に使ってください。明日色々と買いに行きましょう。」
「わかりました。今日は本当にありがとうございました。」
「おやすみなさい。ごゆっくり。」
そう言ってドアを閉めるともう気配はなくなった。今日のことを一つ一つ思い出しながらそっとベッドに座ると体が沈み倒れこんだ。そのまま微睡、深い眠りについた。
珍しく賑やかだった屋敷は月明かりに照らされ静まり返った。
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