気まぐれ短編集
美雨
1 たぶん、きっと、できない。
そのニュースは、突然だった。
「白石、美人モデルと電撃結婚」 「誰にも明かさなかった最愛の存在」 「ゴールインまで夫人を守り続けた男気」
…等々、その日のメディアをひとしきり騒がせたのは、プロ野球界きってのイケメンプレイヤー、白石優希。完璧すぎるルックスゆえに、四六時中記者に張り込まれ、それでも女の影など微塵も無い、と記者たちの側が諦めるほどの清廉潔白ぶりだったのが、これだ。まさに晴天の霹靂である。しかも相手は、これもまた若い世代に絶大な人気を誇るカリスマモデル。多忙を極め、全くと言っていいほど接点が無く、共に人気絶頂の二人が結ばれたとあって、世間は沸き立った。
各局の朝のワイドショーで、双方のコメントが読み上げられるのを、泉結衣は通勤ラッシュの駅構内の大型スクリーンで目にした。
「うっそでしょ…」
その日は寝坊して、取るものもとりあえず、大急ぎで家を出てきたので、そこで初めてニュースを知ったのだった。少しの間、驚きに立ち尽くしてから、我に返って再び歩を進める。何とかいつも通りの電車に間に合って乗れたが、その後結衣はぼんやりとした一日を過ごした。
「…ただいまぁー」
珍しく仕事でミスを連発してしまい、帰宅できたのは日付が変わる少し前だった。荷物を片付け、スーツを脱ぎながら、何の気なしにテレビをつけると、まだ今朝のニュースを扱っていた。チャンネルを回してみても、どこもいっしょ。諦めて、最初に映ったチャンネルに戻してそのままにしていると、白石本人のインタビュー映像が流れ始めた。
「ご結婚、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「奥様とは、いつからお付き合いを?」
「ええっと…二年ほど前から、ですかね」
「白石選手から、アプローチなさったんでしょうか」
「そこはちょっと…すみません」
リポーターの容赦ない質問に、時折はにかみながら答える白石を観ていると、言いようのない感情が溢れてくる。思わず軽食を用意する手を止めて、食い入るように見てしまう。
「奥様の、どういったところに惹かれましたか?」
「優しくて、僕のことを常に最優先に考えてくれるところですね」
「ずばり、プロポーズの言葉は…」
「いやっ…さすがに、それは言えないですけど!ただ、人生で一度の事なので、きちんと気持ちは伝えました。はい」
映像はそこで終わり、続けて相手のモデルのコメントが映し出された。
「彼の、優しくて誠実な人柄に惹かれ、この人となら素敵な毎日が過ごせると確信しました。お互いに初めての恋人ということで、相手を大事にしあえたのもよかったと思っています。…」
そこまで真面目に観たところで、沸騰したお湯をカップ麺の容器に注ぐ。スマホで三分のタイマーをセットしてから、寝室に入って机の引き出しを探った。奥の方で、かさり、と乾いた音がして、何通かの手紙をまとめて入れた薄いビニールの袋が出てくる。中身を取り出すと、様々な字体の文字が視界に踊った。しかし差出人は、全て同一人物である。
「…信じて待ってたんだけどなぁ…」
呟いて、封筒の文字を指先でなぞっていく。「ゆいちゃんへ ゆうきより」という拙いひらがなが、涙で滲んだ。
白石優希と泉結衣は、幼馴染であり、元恋人同士だった。お互いのことは誰よりも知っていたし、共有してきた時間は誰よりも多いと自信を持って言える。そんな二人が、お互いに好意を抱き、親密な関係になるのに、そう時間はかからなかった。高校に進学した頃には、恋人だといちいち言うのも面倒だと思うほど、近しい間柄だったのだ。しかし、高校生活最後の夏が迫ってくると、突如として、野球部の中でも突出した才能を見せていた優希の存在が、注目されるようになった。学校にも記者やスカウトがひっきりなしに訪れ、優希を見にくる。彼はいつでも人に囲まれ、いつしか遠い人になってしまった。
そんなとき、優希の提案で手紙のやり取りが始まった。一緒に過ごす時間が減っていくことに焦りを覚えた彼なりの、苦肉の策だったようだ。しかしそれも長くは続かず、手紙がメールになり、メールが短時間の通話になり、…ついには、途絶えた。
卒業を間近に控えた二月末、結衣は珍しく呼び出されて、よく二人で過ごした学校の屋上へ行った。そこで待っていた優希に伝えられたのは。
「…別れよう」
「え……?」
呆然とする結衣に、優希は今の中途半端な状態を続けていたくない、と言った。そして、そんな態度で結衣に接することも嫌だと。
「だから、…待っててほしい」
そのころ、秋に開催されたドラフト会議で複数球団から一位指名を受けた優希は、翌月からのプロ入りが決まっていた。これからは、物理的にも遠い存在になってしまう。
「俺、最初の一年は野球に集中したい。誰にも負けないだけの練習がしたい。それで、頑張ってプロの生活に慣れて、他のことにも目を向ける余裕ができたら、そのときは」
「…そのときは…?」
「もう一回、俺の彼女になってください」
最初に告白してきたときのように、耳まで真っ赤にしながらそう言った優希に、結衣は泣く泣く理解を示し、二人は別れた。いつかくる”そのとき”を、信じて。
「っ……嘘つき…っ!」
幼少期から別れるまで、一緒にいた間に優希からもらった手紙の束を抱きしめて、結衣は深夜にも関わらずわんわん泣いた。プロ入り後、集中したいと言った彼に遠慮して、こちらから連絡は一切しなかったし、もちろんむこうからも連絡はなかった。そして一年目が終わってからも、プロで活躍を始めても、優希からの連絡は、なかった。それでも、結衣は待っていたのだった。あれだけの時間を共有してきた彼が、自分を裏切る可能性など、微塵も考えていなかった。
「二年ほど前、って…一年目の途中じゃん…集中したいって、言ったじゃん…」
とめどなく溢れる涙が頬を伝い、握りしめた手紙にぼたぼたと音を立てて滴った。一番上になっていた封筒の、「ゆいちゃんへ」というひらがなが滲む。それは、結衣が今までもらった中で、いちばん大切にしている手紙だった。幼稚園の頃、まだ、優希のことを、好きとも何とも思っていなかったころ。ある日突然くれた手紙に、拙い字で、
「ゆいちゃん だいすきだよ ぼくはおおきくなったら ゆいちゃんとけっこんできたらいいなとおもっています」
と書かれていた。けっこん、って、なんて素敵な言葉だろう。幼心にときめいた結衣は、それからずっと、優希のことだけが好きで、見ていた。社会人になってからも、彼の隣に立つことだけを夢みて、自分磨きは怠らなかったし、異性に告白されることがあっても、全て断ってきた。初めての彼女は私だし、もう一回俺の彼女になってくださいって、言ってくれてたのに……。
「初めての恋人は私だし、人生で一回の台詞だって、とっくの昔に私に言ってんのよ、ばーーーーーかっ!!!!」
感情に任せて思いっきり叫んだところで、やっと我に返ってハッとする。もう深夜の一時を回っているのに、絶叫するなんて論外だ。キッチンから、スマホのタイマーの音が延々と鳴り響いていた。カップ麺は既に、スープを吸って、とんでもなく伸びてしまっているだろう。
タイマーのけたたましい音の隙間に聞こえるテレビの音で、まだ白石優希の話題を扱っているのがわかる。本人がコメントを出し、インタビューに応じている時点で、もうこれは、揺るがない事実なんだろう。言葉にならないくらい、悔しくて悲しいけれど。私のことなんて、きっともう、むこうはとっくに忘れていたのだ。だけど、と結衣は再び手紙の束をきつく握りしめる。この、残酷なまでに優しい、恋の遺品を、捨てるなんてことは。
”私はこれから先も…たぶん、きっと、できない。”
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