Good morning.
「世界にさようなら」
あまりにも唐突なその言葉に、反応が遅れた。「え?」と聞き返す私の顔は筋肉が強張っていて、だから多分愛想笑いのまま固まっていたんだと思う。
「だから、世界とお別れしたいの」
「どういうこと?」
声帯をフルに使って、媚びた声を出す。甘い声。立場が下の者の声。私はいつからこんな声で喋るようになったのだろう。
美菜子はうんざりしたように、壁に貼ってある掲示物に視線だけをやっていた。実際掲示物を見てなんかいないのだろう。図書室だより、保健室だより、学習室使用について、学校生活の情報が満載なそれは、しかし目の前を流れていくだけの紙切れだ。
「将来の夢でしょ?」
挑発ともとれるその言い方に、そんなにイラついた言い方しなくてもいいじゃないかと反抗したくなったが、私の表情は笑顔のまま変わらない。
「うん、将来の夢。それでさっきの、世界にさようなら、ってどういう意味?」
意味なんて当然、わかっている。こういうふうに聞き返すのは気が利いていないってことも、わかっている。だけど聞き返してしまうのは何故だろう、心の中で自嘲する。
「だから」
彼女は頬杖をついたまま、体を動かした。背中まである髪が、きれいに舞う。まるであらかじめ計算してあるみたいに。そして私を真っ直ぐ見据えて、触れれば水分が付きそうなくらいに艶やかな唇が言葉を紡いだ。
「死ぬってこと」
私は彼女の瞳に突き刺されて、身動きひとつできなかった。
喧騒は控えめなボリューム、歓声は無くて、かわりにとってつけたような他人行儀の笑い声があちこちから響いてくる。
まだグループは流動的。入学したばかりのこの時期は、互いに互いを観察してこれから誰とやっていくかを決める大切な時期だ。
そんなわけで、私はかつて経験したことのない大人数で机を囲み、お弁当を広げていた。
「なんかさ、新鮮だよね。中学のときは、お弁当って、行事のときくらいしか食べなかったし」
「ああ、わかる、なんか特別な感じがしちゃう」
会話も当たり障りがない。
「昨日のテレビ、見た?」
「あ、見た見た。あれでしょ?」
「そうそう、芸人がプールに落ちてって、本当面白かったよね」
「芸人、誰が好き?」
会話は繋がっていく。皆繋ぐのに必死だからだ。万一アンカーにでもなりしたら、その後沈黙の気まずさには耐えられない。
「だよねー」
誰かがバトンを落とした。喧騒の中机の周りが妙な静けさに包まれる。皆俯いて味もわからぬお弁当を詰め込み始める。
「あ、そうだ」
ころころとした声を響かせたのは、
「ねえねえ、
慌てて卵焼きを飲み込んで、千恵のほうに向き直る。
「優ちゃん、さっき、
海辺さん、というのは美菜子の名字だ。
「うん、喋ってたよ」
「すごいねぇ。何喋ってたの?」
「あの、将来の夢とか」
「へえ、なんだか海辺さんって、変わったオーラ出してるよね。人を寄せ付けないような感じ。お弁当誘ったのにさ、私はいい、って一言だもん」
「へえ」
皆さっきとは打って変わって、黙々とお弁当を食べている。千恵が子供っぽいのは、外見だけではなかったらしい。こんな時期に、こんな状況で、悪口などタブーだというのに。
「なんで海辺さんとそんな話になったの?」
「今日ホームルームで先生が進路について話したじゃん、それで話してみようかなと」
「へーえ」
千恵はくりっとした目を更にまんまるくして私を見た。その瞳は、ボールのように単純な丸さを持っていた。
「そうそう、ねえ、みんなは進路とか考えてる?」
「全然」
「だよね」
どうにか話を別の方向に結び付けられて安堵していると、視界の隅に美菜子がうつった。窓際で、ひとりきりでお弁当を広げている彼女はしかし、孤独には見えなかった。それは彼女が、その豊かな髪を窓から吹き抜ける風になびかせて、あまりにも悠々としているからか。ひとりでお弁当を食べる、なんて悲惨な状況のはずの美菜子を、いくら見下そうとしても無駄なのだった。
自分の部屋の電気はつけない。光に責められるのが嫌だから。夕暮れの倦怠感から逃げるように、私は布団に身を隠す。
突発的に、こうなることがある。怖い。とてつもなく怖い。子供みたいに、枕に顔をうずめて、時には枕を湿らすことしかできない。それは私があまりにも無力だからだ。
それならばいっそ自分自身で、とも思う。生きていて楽しい、と言い切れることは特にないのだ。私の机の中には常に、睡眠薬とカッターナイフが入っている。
でもいざそれらを目の前にすると、恐怖が心臓の芯から体じゅうに巡って私を凍りつかせる。睡眠薬を飲んで、カッターナイフで手首を突いて、私は後悔しないだろうか。その瞬間だけ、強く強く、生きることを望みはしないだろうか。
いつか皆いなくなる。もちろん私だって。全てが消える。一体何の意味がある?答えの無い問いを繰り返して、嗚咽する。病んでなんかいない。狂ってなんかいない。ただ、怖い。
時は黙って私に降り積もるだけだった。
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