001

 夏休みの初日。

 本当なら昼過ぎまでダラダラ寝ている予定だったのだが、何故か俺は制服に着替え、いつも通りの時間に起き、いつも通りに朝食を食べている。いつもと違うところがあるとすれば、いつも以上に憂鬱に駆られていることである。

「律ちゃん顔色ひどいわよ?死にかけのアザラシみたい。大丈夫?」

 顔から滲み出た憂鬱に気付き、テーブルの向かい側に座る割烹着姿の香澄姉さんが、心配そうに視線を向ける。死にかけのアザラシを見たことが無いので、どの程度顔色が悪いのかは理解しかねるが、天然の姉さんに分かりやすい表現を求めるのは酷だ。

「姉さん。俺さ、将来は総理大臣になるよ」

「あらあら。立派な夢ね」

「そんで、『夏休み中は部活動禁止。だって暑いもん』って法律を作る」

「じゃあ、もし夏が涼しくなれば部活をしてもいいの?」

「天変地異でも起こらない限り、日本の夏が涼しくなる事なんてないよ」

「じゃあ、もし天変地異が起これば部活をしてもいいの?」

「天変地異が起こったら、部活動をしている場合ではないよ」

 朝の憂鬱に姉さん節が拍車をかけた。

「じゃあ『夏休み中、部活動(部員が二人だけの文芸部)は禁止。だって面倒だもん』に変更で」

「要するに律ちゃん、部活に行きたくないのね」

 姉さんはフフッと可愛らしく笑い、俺は大きな溜息を吐きだした。

「部活って言ったって、ウチの文芸部は適当に本読んで時間潰してるだけだぜ。俺が言うのも何だけど生産性無さすぎだって」

「そうね。律ちゃんが言うと微塵も説得力がないわね」

「そうだね。俺が言うと説得力は無いね」

「でも、夏休みの初日から活動するってことは、きっと今日から活動的な事を始めるって事よ」

「活動的ねえ。あの先輩がするかな」

「大丈夫。先輩の名前なんて言ったかしら……いっつも元気で、律ちゃんの事気にかけてくれて―――」

 姉さんの言葉を遮るように、「ピンポーン」と来客を告げる音が家の中に響き渡った。「はーい」と可愛らしい返事をした姉さんが玄関へ向かう。

 そういえば、昨日先輩が「服鳥君が逃げ出さないように迎えに行くから」などと戯言を抜かしていたような気がする。気のせいであってほしいと心から願うが「律ちゃーん。時雨坂さん迎えに来たわよ」と声が聞こえ肩を落とした。

 渋々リュックを背負い、渋々靴下を穿き、渋々玄関へと向かう。

「あっ、律ちゃん。言い忘れてたけど、あんまり遅くに帰ってきちゃダメよ」

「今日どっか行く用事あったっけ?俺は夜中にアフロさんと『仕込み』の仕事入ってるけど」

「出掛ける用事はないの。律ちゃん『狩人』って殺し屋さん知ってる?」

「まあ、名前くらいは」

「五人組の殺し屋で、黒いコートに鬼の面を被ってる人達なんですって」

「……その人たちがどうかしたの?忍者と殺し屋は、基本的に干渉しない暗黙の了解じゃん」

「近頃この辺りに集まって何かしようと企んでるらしいの。だから関わらないように気を付けてね」

 漠然としているくせに、要求だけが明瞭すぎる。「得体のしれない殺し屋集団にどうやって気をつければいいのさ」と言葉を返したかったが、残念な事に俺は一人分の得体を知っている。

 本名も、容姿も、性格も、電話番号も知っている。残念なことに。

 本当は色々と言いたいことがあるのだが、朝から玄関で話す話題ではないことが多すぎる。というより、姉さんに話したところで解決しない問題が多いので、できる限り巻き込みたくないというのが本音だ。

 俺は適当に返事をして「行ってきます」と言い戸を開けた。

 戸を開けると夏の匂いがした。

 空から降り注ぐ鬱陶しい太陽が、門扉までの石畳みに撒かれた内水に反射しキラキラと輝いている。蒸発した水が澄んだ空気と混ざり合い、俺の五感に季節が夏であることを伝達する。

 夏は嫌いだが、昔の思い出が脳裏を過る感覚は嫌いじゃない。

 細やかなノスタルジーに口元が緩んだ。

「何朝からニヤニヤしてるの?そんなに私のお迎えが嬉しかった?」

 突如上から聞こえてきた声の方へ視線を移すと、『二本の角を生やした鬼の面』を被り、『黒いコート』で身を包んだ人影が大剣を振り下ろしながら飛来した。

「うぉっおぉぉっおぃ!?」

 思い出の余韻に浸る隙もなく、咄嗟にリュックから小刀を取り出し、間一髪のところで剣撃をガードした。

「おはよう服鳥君。朝から元気ね」

「いやいや、おかしいよ!全部おかしい!少なくとも日本人の挨拶じゃない!」

「そうね。少し寝坊してしまって、髪を整える時間がいつもより短かったの。前髪の右側が少しおかしいわ。さすが服鳥君。そんなに私の事が好きなのかしら?」

「1ミリも伝わってねえ!」

 後ろに飛んで距離をとり、すぐさま態勢を立て直す。右手の小刀を逆手に持ち直し、裾の裏に隠してあるホルスターからクナイを取り出し左手で構えた。

「ふふ。急に近づかれてビックリしたのかしら?服鳥君は本当に照屋さんね」

「ビックリしたけど照れてはない」

「でも顔真っ赤」

「朝イチで死にかけりゃ誰でもこうなるわ!」

 外の異変に気付いた香澄姉さんが「大声出してどうしたの~」と、家の中から声を上げる。「危ないから出てきちゃ駄目だ!」と言う前に、すぐに玄関の戸が開いた。

「あら時雨坂さん。さっきまで制服だったのに。早着替えができるのね」

「あ、お姉様。お騒がせして申し訳ありません」

―――ええぇ。

 予想以上に和やかな応対に、肩透かしを食らってしまう。小刀とクナイを構える俺を尻目に、割烹着姿の姉と黒いコートの殺し屋が談笑に花を咲かせている。

「ちょっ!姉さん危ないって!下がってって!そこ危ないって!」

 風を切るように腕を横に振り、先輩から距離をとるように促す。姉さんは頭に疑問符を浮かべたまま、ピョンと後ろに小さく跳ねた。

「これで大丈夫?」

「いいわけ無いだろ!姉さんさっき言ってたじゃん!自分の言葉思い出して!」

「自分の言葉?死にかけのアザラシ?」

「どこの言葉思い出してんだ!前見て!目の前の人の格好見て!」

 香澄姉さんは、先輩姿を凝視するも「んん?」と首をかしげるばかりだった。

「さっき言ってたじゃん!鬼の仮面被ってるじゃん!」

「お姉様。これは最近女子高生の間で大流行の日焼け防止マスクです」

 先輩の言葉を鵜呑みにし、姉さんは鬼の面を物欲しそうにまじまじと観察している。一切気付いていないようだ。

「姉さん!コート!この人、黒いコート着てるよ!おかしいなぁ!こんな暑い日にコートおかしいなあ!」

「お姉様。夏といっても朝方はまだ冷えます。私は冷え性なので、コートが手放せないのです」

「いや早着替えしたんですよね!来るときは着てなかったんじゃん!」

 香澄姉さんは「実は私も冷え性で~」と再度談笑をし始めた。今更だが、香澄姉さんは天然ではなく、ただの馬鹿なのかもしれない。

「姉さん!先輩の手見て!持ってるやつ見て!剣持ってるよ!モンハンに出てきそうな大剣持ってるよ!あれあれ!?なんか『狩人』みたいだなあ!」

「お姉様。これはクラウドのコスプレです」

「嘘もコスプレもクオリティ低すぎだろ!」

「ははーん。なるほど。服鳥君の絶え間なく飛び出す銃撃のようなツッコミ。さしずめバレットのコスプレといったところかしら」

「この世の全てがFF7に見える病気にでもかかってんのか!?」

 口を開くたびに口論は熱を帯びていく。そんな状況を見かねた姉さんが「時雨坂さんもバレットも少し落ち着きなさい」と、話に割り込んできた。どうやら先輩のFF7病は伝染するようだ。

「つまり律ちゃんは、時雨坂さんが『狩人』の殺し屋さんだって言いたいの?」

「言いたいも何も。見たまんまだよ」

「律ちゃん。人を見かけで判断したらダメよ。そもそも、殺し屋が白昼堂々真正面から来るわけないじぁない。可愛い先輩に照れるのは仕方がないけど、失礼な事言っちゃいけません」

「可愛いだなんて……照れます」と先輩は小声で呟いた。可愛らしい反応だが、仮面を被ってるせいで一切表情は見えない。

「いや、俺さっき両断されそうになったよ」

「お姉様。それは誤解なんです」と先輩が話に割り込んだ。「実は私、服鳥君のことが異性として大好きなのですが、家庭の事情でFF7ばかりやっていたもので、好きな人に切りかかってしまう癖があるんです」

 どんな家庭だよ。と言ってやろうと思ったが、「きゃー!律ちゃんも中々隅におけないわね!今日は赤飯炊かなきゃ!」と、音速で早とちりする姉さんを見て、これ以上の主張は無意味だと悟った

 被害者の俺を置き去りに、二人のガールズトークは続く。

 疲れた。すげー疲れた。こんな日は早く家に帰りたい。

 心の中で強く願うが、そもそも俺はまだ一歩たりとも家の敷地から外に出ていなかった。

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