第35話 別れ⑤

彼女は黙って頭を振った。

 「僕が監督を尋ねた時、監督は黙って印鑑を押して下さいました。何の保証もない僕に…です。監督のお陰で銀行から資金を借り入れる事ができた僕は、死に物狂いで働きました。でもそれでも事業を始めた当初は、何もかもが上手く行かずに、頭を抱えるばかりの毎日でした。それでも、どんな時も、僕が挫けそうな時何よりも僕を勇気づけてくれたのは、和葉監督の印鑑でした。監督が印鑑を押して下さったその借用書を見る度に、僕は「負けてなるものか」と布団の中で涙を流しながら気持ちを奮い立たせていました。あれから5年、お陰様で事業も軌道に乗り、監督にご迷惑をおかけする事もなく、全ての返済を終えました。そして今は、長年の夢叶い、母をこちらに呼び寄せて、嫁と子供とともに幸せな生活を送れるまでになりました。僕にとって監督は…、監督は、父親以上の存在でした。」

 そう言うと、大声で泣き始めた。それにつられる様にして、少しづつ集まってきた野球部員達も大声で泣き始めた。それはまるで、高校球児が最後の試合を終えて泣いている様にも見えた。自分達の中の一つの季節が終わったかの様な、そんな涙だった。

 僕はそんな光景を見ながら、とおるを想っていた。保証人になった事によって死んでいった男。保証人になってもらえた事によって生きる希望を持った男。いずれにせよ、ここにも救われた命がある事に僕は心から感謝した。

 皆の涙も枯れた頃、今度は監督の新たな旅立ちを祝い、元野球部員が祝杯を交わし始めた。世代は違うにせよ、野球という同じ青春を生きた者同士すぐに打ち解けていた。酒を酌み交わしながら、監督や野球部時代に思いを馳せ、そこはさながら同窓会の様でもあり、そして、それは、多分、監督が望んだ葬儀の姿だったに違いない。

僕も菅ちゃんもその輪に加わり、僕らの熱き青春時代にタイムスリップをしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る