4-1 リモート会議

 季節は7月になっていた。早いもので明日香が空き部屋となっている翔の部屋に越してきてから一月半が経過していた。そして蓮は1種間の内、半分は明日香と一緒に暮らすようになっていた。その申し出は明日香からのかつてない訴えであり、蓮もその事については何も口に出さなかった。何より・・・朱莉にとっては拒絶することが出来るはずもなく、ただ素直に従うしかなかったのだ。


(そうよ・・・だっていずれ私は明日香さんに蓮ちゃんを返さなくてはならないのだから・・これはその為の準備期間と割り切るしかないのよ・・・。)


朱莉は自分にそう言い聞かせる事で納得するしかなかったのである―。





「それじゃ、行ってくるわね。」


玄関先でカットソーのTシャツにデニム、スニーカーを履いた明日香が幼稚園指定の体操着を着た蓮の手を握り締めながら言った。


「お母さん。行ってくるね。」


蓮はニコニコと手を振っている。


「はい、蓮ちゃん。行ってらっしゃい。それでは明日香さん。どうぞよろしくお願いします。」


朱莉は頭を下げた。


「よし、それじゃ行こうか。蓮。」


明日香は連を見下ろしながら笑顔で言う。


「うん!」


「行ってらっしゃい。」


朱莉が笑顔で手を振ると、バタンと玄関の扉は閉められた。すると先ほどまで賑やかだった部屋は途端にしんと静まり返る。

朱莉は溜息をつくと、バスルームへ洗濯をしに向かった。


ドラム式洗濯機に洗い物を入れ、洗剤を投入して洗濯物を回し始めると朱莉はキッチンへと向かい、食器洗いを始めた。今朝は明日香と蓮の為にお弁当を作ったので、朝の食器洗いがいつもより多い。

このマンションには食洗器がついていたが、朱莉は一度も使ったことがない。何故ならいずれはこの快適なマンションを出て、普通のマンションに移り住むことになるからなるべく便利な生活に身を委ねないようにしていたのだった。


「ふう・・・。」


洗い物をしながら、何度目かの溜息がつい朱莉の口から洩れてしまう。朱莉が今朝に限っていつも以上に憂鬱で溜息をついてしまうのには大きな理由があった。

実は今日は保護者同伴の遠足の日だったのだ。場所は上野動物園で、4月に蓮が幼稚園に入園した時にもらった年間行事案内のプリントを見た時から朱莉はずっと楽しみにしていた。しかし、幼稚園の遠足を知った明日香が是非自分に参加させて欲しいと訴えてきたので蓮に確認を取ったところ、付き添いは明日香でも構わないと言ったのである。そこで保護者代理として明日香が参加することになったのだ。

ただ、参加できない代わりに朱莉はお弁当だけでも自分の作った料理を持って行って欲しいと思い、お弁当作りを申し出たのだった。


「お天気になって良かったわ・・・。」


食器洗いを終えた朱莉は窓の外を見た。窓には蓮と2人で作ったテルテル坊主がつるされている。ここ数日間雨が降り続いていたので蓮は遠足に行けるかどうかずっと心配していたのだ。それで昨日蓮が幼稚園から帰ってから2人でテルテル坊主を作って窓の外にぶら下げたところ、夜には雨がすっかりやみ、星空になっていたのだ。


「フフ・・・テルテル坊主に効果があったのかな・・・。」


朱莉は寂しそうに笑った―。





鳴海グループ本社―


修也はPCモニターを前に会長、社長、そして翔の4人でリモート会議を開いていた。



『皆、知っての通り私の身体の癌が再発した。まあ、死ぬほどのものではないが手術を受け、長い療養が必要だと診断されている。だからこれを機に引退し、今後は名誉会長を名乗らせて貰う。そして代わりに会長を現社長に引き継いでもらう。」


『はい、承ります。』


竜一は頭を下げる。


『そして・・次の社長と副社長だが・・・。』


猛は翔と修也の顔を交互に見た。


『・・・・。』


翔の顔は心なしか青ざめている。


(まさか・・・会長は今ここで次の社長を決めるつもりなんだろうか・・・?)


修也は不安な面持ちで事の成り行きを見守っていた。自分としては社長になるつもりは全く無かった。仮に任命されれば辞退しようかと考えている程である。


(そうだ・・・僕は父さんの罪も背負っている。それに・・・社長になれる器の人間だとは思っていないし・・・。)


だが、一方の翔は野望に満ちていた。全ての始まりは絶対に自分が社長に任命されるに違いないと思った・・7年前から始まる。その為には猛にとって目の上のこぶのような明日香との・・ましてや戸籍上の妹と恋仲というスキャンダルを隠す必要があった。その為に企てた偽装結婚だったのだ。それなのに・・・翔の運命は大きく狂ってしまった。明日香からは逃げられ、気づけば朱莉に恋をしてしまっていたが、朱莉からはあくまでも蓮の父親としてしか見てもらえず・・・挙句の果てに10年間存在を消していた修也が現れ、あっという間に自分はアメリカに行かされ、今本社の副社長室の椅子に座っているのはモニター越しに映っている自分の顔によく似た修也なのだから。しかも朱莉が修也に惹かれていることも翔は理解していた。


(修也・・・お前には社長の座は渡さない・・そして朱莉さんだって・・・今は俺の大事な家族なんだ・・・!)


 翔と修也の思惑をよそに会長は口を開いた。


『翔と修也・・・この2人のうち、どちらを次の社長にするかは9月に行われる役員会議で決めたいと思う。いいか?2人とも。次期社長に選ばれる為に・・それぞれ実績を積んでおけよ?』

 

猛は翔と修也を交互に見ると言った。


『はい、任せて下さい、会長。』


翔は自信ありげに返事をする。


『はい、分かりました。』


修也は頭を下げた。


『2人とも・・・頑張りなさい。』


竜一は笑顔で2人に声を掛ける。


『では、私はこれで退席する。これから病院に行って検査を受けて来なければならないからな。』


そしてモニター画面から猛の姿が消えた。


『私も失礼するよ。・・・久しぶりなんだ。2人で話をするといい。』


竜一も画面から消え、今修也のモニターに映るのは翔のみとなった。


「久しぶりだね、翔。こうして顔を見合わせて話をするのは。」


『ああ・・・そうだな。』


翔はどこか不機嫌そうに返事をする。


「どうだい、そっちの方は・・軌道に乗ってるかな?」

 

『ああ、勿論だ。従業員も増えたし、支店も増えている。業績だって上がってきているだろう?』


「うん・・・そうだね。」


修也は笑みを浮かべた。


『11月には・・・たとえ俺が社長に選ばれようが、選ばれまいが、日本に帰国することが決まった。俺の後任の支社長も選抜されたしな。』


「そうだね・・・。」


『ああ、そうだ。・・・修也、俺はお前には負けないからな。俺は・・・社長になる為に子供の頃からずっと努力してきたんだ。全てはこの巨大な鳴海グループを世界レベルの一大企業にする為に・・・。』


「うん・・・分かってるよ。僕だって社長にふさわしい人間は翔だと思ってる。」


『・・謙遜するな。お前は・・・俺とは違って本物の天才だからな。』


「そんな事はないよ。・・・ところで話は変わるけど・・・翔。アメリカへ渡ってから・・一度も朱莉さんに連絡を入れてないって聞いたけど・・その話本当なの?」


『!誰からその話を・・・まさか、朱莉さんから?』


「そうだよ。だって翔がアメリカに行ってる間・・・彼女の傍にいたのは僕なんだから。」


『な・・何だって・・?一体どういう事だ?修也。俺はお前に言ったよな?朱莉さんには近づくなって。』


修也は溜息をつくと言った。


「翔・・・それは無理な話だよ。朱莉さん一人に蓮君のお世話をさせるなんて・・。大体朱莉さんには病気で入院しているお母さんがいる。蓮君を連れて面会には行けないだろう?」


『まさか・・・お前が蓮の世話を・・・。』


「そうだよ、翔。だって君は一度も朱莉さんに連絡を入れたことは無かったのだから。知るはずも無いよ。」


『仕方なかったんだ・・・声を聞けば・・・朱莉さんに・・蓮に会いたくなってしまうから・・俺は仕事に集中したかった。早く実績を上げればそれだけ日本に帰国する時期が早まると思ったから・・・。』


「翔・・・。」


『そういうお前こそ・・・何で今頃になってそんな事を言うんだ?修也。』


「それはね・・・明日香さんが朱莉さんの傍にいるからだよ。」


『え?!明日香が・・?!』


「その様子だと・・・本当に何も知らなかったんだね・・・。今、朱莉さんと明日香さんの間でとんでもない事が起こっているのに・・・。」


『とんでもない事って・・・一体何なんだっ?!』


「明日香さんが・・・正式に蓮君を引き取りたいって言ってきたんだよ。そして自分が本当の母親だと名乗るつもりだって・・・。」


『え・・・?』


画面に映る翔の顔は・・・真っ青になっていた―。

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