2-11 近い将来に思う事

翌朝―


 航はアパートの階下の事務所の扉の前に立つと、鍵を開けて中へ入ろうとして人の気配を感じた。


ガチャリ


ドアをあけると、すでに大きなデスクには父の弘樹がPCを前に仕事を始めていた。


「おはよう、父さん。・・・随分今朝は早いんだな。」


「ああ。ちょっとな。」


航が事務所の奥の給湯室へ行こうとすると弘樹が声を掛けてきた。


「航。コーヒーを淹れるのか?」


「ああ、そうだよ。」


「そうか、なら俺の分も頼む。インスタントじゃなく、ちゃんと豆から挽けよ?」


そしてニヤリと笑う。


「チェッ、何だよ。面倒くさい・・・なら自分で淹れればいいだろう・・。」


航がブツブツ小声で言うのを弘樹はばっちり聞いていた。


「いいか、航。こういう客商売はな・・・うまいコーヒーを淹れて出すだけで・・顧客が定着するんだよ。お前も覚えておけ。」


「え?それ、本当かよ?」


「いや、俺の持論だ。」


「何だよ、それ・・・。あてにも何にもなりゃしないだろ・・。」


しかし、航は思った。コーヒーの香りは人をどこか安心させる効果があると―。




15分後―



「ほらよ。」


航は弘樹の大きなマグカップになみなみ注いだマグカップをデスクの上にドンと置いた。それを見た弘樹が眉をしかめる。


「おいおい航・・・。こんな淹れ方は無いだろう?どうせならもう少し小さめの受け皿付きのコーヒーカップで出してくれ。風情も何もあったもんじゃない。これじゃ飲むだけでお腹いっぱいになる量じゃないか・・・。」


「何だよ、うるせえな・・・。ちゃんと言われた通り、豆から挽いて淹れたんだ。文句言うなよ。」


航は自分のマグカップを持って、長椅子に座るとテーブルの上の資料をめくった。


「うえ、何だよ。この依頼・・・自分の娘の素行調査って・・・この父親、頭がおかしいんじゃないか?しかも娘って・・・38歳じゃないかよ・・・。」


航はコーヒーを飲みながら苦虫をつぶしたような顔になる。


「うるさい、文句言うな。この依頼はこれから引き受けるかどうか精査するが・・・多分受ける。その時はちゃんとやれよ?」


弘樹はPCから目を離さずに言うと、航が淹れたコーヒーに手を伸ばした。



「・・・・うん、淹れ方は良くないが・・味はいいな。カフェでもやれそうなレベルじゃないのか?」


「別にやらねーよ。俺みたいな対応の人間に客商売出来ると思ってるのか?」


「フム・・確かに考えてみればそうだな。」


そして、少しの間弘樹は無言だったが・・やがて口を開いた。


「航・・・。」


「何だよ?」


資料に目を通していた航は顔をあげて弘樹を見た。


「今朝の事なんだが・・・美由紀さんが依頼を取り下げてきた。」


「何だってっ?!」


航は思わず椅子から立ち上った。


「ふむ・・・・その様子だと・・航。お前は何も聞かされていなかったようだな?」


弘樹は顎の下で両手を組むと航を見た。


「あ、ああ・・・そうだよ。一昨日・・美由紀のワンルームマンションに行ったけど・・・結局会えなかったし、電話もメールも全て着信拒否されていた・・・。」


「それじゃ、何故依頼を取り下げてきたのかも・・分からないって事だな?」


「あ、ああ・・・。」


「そうか・・。」


そこで弘樹は溜息をついた。


「何でそこで溜息をつくんだよ。美由紀が依頼を取り下げてくれたんなら、良かったじゃないか?」


「航・・・お前なあ・・何故美由紀さんが依頼を取り下げてきたのか理由が気にならないのか?」


「・・別に・・・。」


「あのなあ・・・お前は仮にも美由紀さんと交際していたんだろう?今朝早くに突然取り下げ依頼のメールが届いたからこちらからまたメールを入れたのに、また連絡が取れないんだよ。それでもお前は気にならないのか?」


「・・・・美由紀は俺の電話もメールも全て着信拒否してるんだ。だから・・・父さんのメールにも返信しないんじゃないか?俺の父親だから・・・。気にする必要なんてないだろう?」


航はそれだけ言うと、傍らに置いてあるカメラの機材の点検を始めた。


「・・・・。」


弘樹はその様子を見つめていたが、やがて再びPCの画面に目を向け、この話は終わりになった。しかし、やがて弘樹の不安が的中するのをこの時の2人はまだ何も知らない―。



 

 幼稚園に蓮を送りだした後、朱莉は母に電話をしていた。それは昨日母の面会に行くことが出来なかったからである。


「・・・ごめんなさい。お母さん。本当に突然行けなくなって、連絡も出来なくて・・・。」


電話越しから母の声が聞こえてくる。


『いいのよ、朱莉。貴女だって色々忙しいでしょう?別に毎週来なくても大丈夫よ?今の所は特に大きな変化も無いんだから・・』


「でも・・・。」


『あ、朱莉。そろそろ巡回の時間だから、部屋へ戻るわ。それじゃまたね。』


「う、うん・・・またね。お母さん。」


そして電話が切られると朱莉は溜息をついた。


(ごめんね、お母さん・・。1日中、病室で1人にさせて、寂しい思いをさせて・・。)


土日は朱莉は蓮たちとグランピングで楽しい時間を過ごした。母への面会も行かずに・・。其のことが朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。だから朱莉は心に決めていた。この契約婚が終わった後は、広めのマンションを購入して病院から母を引き取り、在宅医療に切り替えさせてもらおうと・・。


(お母さん・・・ごめんね。もう少しだけ・・・待っていて・・。)


朱莉はスマホをギュッと握りしめた―。




 その頃―


大きな窓ガラスのある広々としたオフィス。そして窓に背を向けるように置かれた大きなデスクの前に座り、二階堂はPCの前で琢磨と話をしていた。


「どうだ。九条。帰国の準備は進んでいるのか?」


『ええ。当然ですよ。もうほとんど荷物は梱包積みでベッド処分してしまいました。』


「な・何だって?それはまた随分気が早いな?それじゃ床の上で寝てるのか?」


二階堂は目を丸くした。


『何言ってるんですか?ここはアメリカですよ?日本みたいに畳があるわけでもないのに床で寝れるはずがないでしょう?ソファベッドで寝てるんですよ。』


「ああ・・そうか。しかし帰国するまであと1週間はあるのに随分気がせいてるんだな?」


『当然じゃないですか?どれだけ日本に戻れる日を待ちわびていたと思ってるんですか?全く・・・。』


「おい。何かその物言い・・・引っかかるんだが・・・?」


『別に、そんなことは無いですよ?』


「・・・それでどうだ?青い目の彼女でも連れて帰るのか?」


からかうような二階堂の口ぶりに琢磨は面白くなさそうに言う。


『どうして俺が現地の女性を連れて帰って来ないとならないんですか?大体今年は6年目になるって言うのに・・。』


「何だ?6年目って?一体何のことだ?」


『別に、何でもありません。ところで・・・翔はまだアメリカですか?』


「ああ・・・そのようだな。って・・お前、同じアメリカにいるのに知らないのか?」


『ええ、ここはアメリカですよ?どれだけ広いと思ってるんですか?大体連絡も取りあっていないのに・・・。』


「ハハハ・・お前たち・・・あんなに仲が良かったのに・・・1人の女性のせいで仲たがいしたってわけだな?」


『二階堂社長・・・朱莉さんを悪く言うのはやめていただけませんか?』


「悪かったよ。・・・それじゃ、日本で待ってる。またな。」


『はい、また・・・。』


そして2人は電話を切った




「ふう・・・・。」


琢磨はすっかり、がらんどうになった部屋を見渡すと棚からウィスキーを取り出し、手元にあったグラスに氷を投げ入れた。そして瓶の蓋を開けてウィスキーをグラスに注ぐ。


トクトクトク


瓶から注がれるこぎみよい音を聞きながら琢磨は日本へ思いをはせた。


ウィスキーを注いだグラスをマドラーでカラカラと回し、口に入れる。そして窓の外を眺めた。


夜8時―

夜空に見える月は半月であった。


「朱莉さん・・・もうすぐ日本へ帰るよ・・・。」


琢磨は呟き、再びグラスを煽った―。




  









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